人体実験

極寒の内モンゴルで行われた人体実験―駐蒙軍冬季衛生研究の闇

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五十年目の終戦記念日を目前に控えた1995年7月、現代書館という東京の出版社から、旧日本陸軍のものとされる書類が復刻出版された。『極秘 駐蒙軍冬季衞生研究成績』という本だ。編者は、中国語教育史を専門とする鱒澤彰夫氏(当時、早稲田大学勤務、現在は日本大学工学部助教授)である。本稿では以下この本を『鱒澤資料』と呼ぶことにする。

原本の表紙写真(出典:『鱒澤資料』Ⅲ頁)

原本の表紙写真(出典:『鱒澤資料』Ⅲ頁)

『鱒澤資料』は、中国大陸の最前線、外蒙との国境を守る駐蒙軍が、昭和16年(1941年)2月に内モンゴルで行った、厳冬期における野戦医療と給水の実験「冬季衛生研究」に関する事後報告書の体裁を取っている。表紙の右上に「極秘」の文字があるのは、この資料がけして公にはできない内容だったことを示している。それは「生体」を用いた人体実験の報告が含まれているからだ。復刻出版された当時、朝日新聞は『鱒澤資料』について次のように報じている。

生体実験、詳細な報告書 内モンゴルで旧日本陸軍が中国人8人に

一九四一年二月、中国・内モンゴルの雪原で、日本陸軍が中国人「死刑囚」八人を使って実施した生体実験の詳細な報告書が見つかった。凍傷実験のほか、天幕内で手術が可能かどうか知るために開腹手術をしたり、足を切断したり、羊の血を輸血するなどの実験をしたあと、全員を殺して埋めている。中国では、七三一部隊のほか北京、南京などでの生体実験が知られているが、関係者の供述が中心で、これほど克明な報告書が見つかることは珍しい。

「駐蒙軍冬季衛生研究成績」と題された、約四百ページに及ぶ陣中日誌と研究報告で、生体解剖の様子など約五十点の写真が添付されている。中国語教育史の研究者・鱒沢(ますざわ)彰夫さんが東京の古書店で見つけ、現代書館が復刻版を五百部つくった。表紙に「極秘」「贈呈」と書かれているが、だれに贈られたものかはわからない。

復刻版によると、研究班は大同(タートン)陸軍病院の軍医少佐を班長として構成。厳寒地での負傷者の処置などを研究するため、当時日本のかいらい政権下にあった内モンゴルの蘇尼特右旗(スーニートーユーチー)西方の盆地に天幕を張って、実験をした。

実験台にされた八人は、十五歳から四十九歳。名前も記されている。慰霊祭の弔辞に「御身等ハ不幸ニシテ蒋介石ノ走狗トナリ正義ノ皇軍ニ不利ナル対敵行動ヲナスニ至ル 捕エラレテ死刑ヲ宣告セラル」とあり、抗日ゲリラだったようだ。

この八人に「生体一号」から「生体八号」までの番号をつけ、胸を小銃で撃って経過を観察したり、血液型の違う血を輸血するなどの実験をした。一人は、死体の血を輸血する実験のために「屍血必要ナル為射殺」。六人は実験後に射殺し、一人は生体解剖した。「生体」の刻々と変わる様子の記録とともに、日誌には「零下二十七度ニ下降シ凍傷実験ニハ良好条件ナリ各員研究ニ没頭 途中ノ熱キ甘酒ニ一同元気百倍」などと書かれている。

研究班は、二月十一日に皇居の方向を向いて「宮城遥拝万歳三唱」して「紀元節」を祝って、軍の本拠地張家口(チャンチャコウ)で解散した。

(出典:朝日新聞 1995年8月15日付 東京朝刊,22頁)

『鱒澤資料』には、研究計画から参加人員名、使用機材、陣中日誌、詳細な臨床データと、すべてが網羅されている。前掲の朝日の報道にあるように、人体実験については「生体」と呼ばれた八人の男性の氏名から、実験に供した彼らのカルテ、実験中に撮影された写真まである。

例えば、「天幕建設中ノ生体監視」とキャプションが打たれた一葉の写真には、帯剣した警備兵の横に、日本軍のものと思われる防寒服を着て草原に腰を下ろしている八人の「生体」の姿が写っている。その姿はあまりにも自然だが、その後彼らは、極寒の外気にさらされて凍傷に罹患させられたり、銃で撃たれて止血の処置を受けさせられた。そして天幕内に運び込まれた彼らは手術や解剖などの実験台にされた。

(出典:『鱒澤資料』45頁)

(出典:『鱒澤資料』45頁)

(出典:『鱒澤資料』168頁)

(出典:『鱒澤資料』168頁)

(出典:『鱒澤資料』227頁)

(出典:『鱒澤資料』227頁)

『鱒澤資料』にはそれらオペ中の写真もあって、モノクロだが血の色が伝わってきそうな鮮明さだ。彼らは全員、実験終了後に処分され、最終日には陣地撤収前に「尊キ研究ノ犠牲トナリタル生体ノ霊ニ対シ心カラノ慰霊祭」が執り行われた。『鱒澤資料』にはその時に研究班長が詠んだとする「生体」たちへの「弔辞」までもが綴じられている。まさに見る人を震撼させる恐ろしい内容だ。

旧軍による人体実験は、満州で生物戦研究を行った関東軍第七三一部隊(石井部隊)などが知られてはいるが、その証拠となるのは戦後の当事者による証言か連合軍が作成した史料が中心で、写真を含むこれほどの内容を持つ旧軍の文書史料は一度も見つかっていない。旧軍の不祥事に関わる分野で、ここまで非の打ち所がない完全揃いの証拠が見つかるのも珍しいことだ。『鱒澤資料』の存在は、近代史を揺るがす大きなインパクトがある。

世間で全く相手にされなかった『鱒澤資料』
ところがこれほどのショッキングな内容にもかかわらず、意外なことに、復刻当時、全国紙でニュースとして扱ったのは、このような話題に熱心な朝日新聞だけだった(1)。『鱒澤資料』の発行部数自体が少なかったこともあり、今日まで世間ではほとんど知られることがなかったようだ。なぜか。『鱒澤資料』の来歴を考えれば、無理からぬことだった。

『鱒澤資料』の内容を考えれば、その真贋について慎重に判断すべきなのは当然だ。この点、復刻に際しては、原本を忠実に再現したというだけあって、旧軍の公文書を見慣れている筆者としても雰囲気が良く出ており、医学の専門知識を必要とする部分を除けば、内容や書式についても矛盾がないというのが率直な感想である。ただ、筆者は鱒澤助教授に手紙でコンタクトをとろうと試みたものの梨の礫だったので、未だ原本を見たことはない。発行元である現代書館の村井編集長に電話で聞いたところ、原本は謄写版のザラ紙印刷で、経年の感じなど本物の雰囲気があり、内容については鑑定を依頼した研究者によるお墨付きで自信があるとのことだった(2)。ただ、『鱒澤資料』の存在を裏付けるような史料や関係者の証言はない。

その上で、史料としては不可欠の出所について、『鱒澤資料』には致命的とも言える欠陥がある。そもそも『鱒澤資料』の原本は、前掲の朝日の報道にもあるように、編者である鱒澤助教授が神田の古書店で安価に売られていたのを買い求めたものだ。入手したのは1970年代だというから、公表・復刻までに二十年近い月日が経っている。表紙に「贈呈」と書かれているので、おそらく権威ある医学者の蔵書だったと推測されるが、古書店がどこの誰から買い取ったものかも分からないという。

原本の真贋を確かめるために、化学鑑定による年代測定をしてみてはどうかという考えもあるかもしれないが、実際にはあまり意味がないとも言える。なぜなら、終戦で紙やインクから印刷機まですべて中国側に接収されているから、中国の協力を得て何者かが悪意をもって偽造することも可能だからだ。このように、陰謀視しようとすればいくらでも疑義を唱えることができる。悪く言えば”怪文書”、資料としての信頼性に大きく欠けているのである。

鱒澤助教授は復刻にあたって、当時、TBSや講談社なども回ったという(3)。また、常石敬一教授によれば、NHKがドキュメンタリー番組の制作を企画したが、関係者から出演を断られて断念したとのことである(4)。魅力的なネタであったろうが、当事者の証言が『鱒澤資料』の真贋を証明する唯一の策だったことからすれば、積極的に報じなかったのはメディアとして当然の姿勢と言える。最終的に左翼系の出版物で有名な現代書館が発刊を引き受けることとなった。

戦後の歴史教育を問い直す風潮の中で、旧軍の戦争犯罪として喧伝されてきた諸事について、今では多くの人が懐疑的な見方を抱いている。市井に流出したという真贋不明の旧軍書類、しかも出版元は左翼系だ。『鱒澤資料』が疑惑の目で見られても仕方ない。

(1)『鱒澤資料』については、全国紙としては朝日新聞が1995年8月15日に東京朝刊で、地方紙では北海道新聞が同14日に夕刊、静岡新聞が同じく14日に夕刊で報じている。
(2)出版元である現代書館の村井編集長への電話による聞き取り(2006年5月15日)。
(3)「骨の会」ホームページ(http://www.geocities.jp/technopolis_9073/zinkotuhp/news92.htm)。同会の主宰は常石敬一教授(神奈川大学経営学部)。同会では2002年3月2日に鱒澤助教授を迎えた研究会を開催している。
(4)常石教授からのメールによる情報提供(2006年6月1日)。

防衛省の史料にもあった人体実験の計画
このように他者から見ると、『鱒澤資料』には原本の真贋というコアな部分で信頼性が担保されない。しかし、少なくとも同様の人体実験の計画が存在したことは確かだ。実は、防衛省が保管する戦史史料には、「生体」を用いた人体実験の計画が記されている文書が存在する。しかもそれは、『鱒澤資料』を傍証するものなのである。

問題の文書は、駐蒙軍が作成して陸軍省に送付した「戦時月報」(5)という書類に混じっていた「別紙第一 駐蒙軍冬季試験衛生研究班計画」という文書だ(6)。この文書を文字で起こしたのが《表1》で、赤字部分を見ればすぐに分かるように、冬季研究の名の下に、「生体」を使った人体実験を行うことが明確に記されている。

(写真左)「戦時月報」の表紙。陸軍省の各部署で回覧されたことを示す印が押されている。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122084900) (写真右)「戦時月報」に綴じ込まれていた冬季研究の計画書。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122085400)

(写真左)「戦時月報」の表紙。陸軍省の各部署で回覧されたことを示す印が押されている。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122084900)
(写真右)「戦時月報」に綴じ込まれていた冬季研究の計画書。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122085400)

《表1》別紙第一 駐蒙軍冬季衛生研究班計画

第一、研究ノ目的
一、本研究ハ厳寒時内蒙古高原ニ於ケル作戦ニ伴フ衛生勤務ニ関シ必要ナル事項ヲ調査研究シ次期作戦準備ニ資スルヲ目的トス

第二、研究ノ方針
二、研究項目ハ現地ニ即応シ直接衛生勤務上必要ナル事項ニ限定シ且既往ノ研究ニ依リ既ニ成果ヲ得タル事項ハ極力之ヲ除外スルモノトス
三、研究ハ広ク浅キヨリモ寧ロ狭ク深キニ入リ衛生勤務遂行上緊要ナル基礎的事項ノ研究ヲ完成スルモノトス

第三、研究実施要領
其ノ一、研究期間
四、研究ノ期間概ネ左ノ如ク区分ス
前期 自昭和十五年一月十五日 至同年同月十九日
後期 自昭和十五年一月二十日 至同年同月三十一日
五、前期ハ準備研究ノ期間トシ主トシテ研究実施上必要ナル諸調査ヲ行ヒ細部ニ亘ル研究項目及研究方法ヲ決定シ必要ナル教育ヲ実施シ■材ヲ整備スルモノトス
其ノ二、研究場所
六、研究ハ主トシテ西蘇尼特ニ於テ実施スルモノトス 但シ必要ニ依リ一部ヲ阿巴哉附近ニ移動進出スルコトヲ得
其ノ三、研究機関
七、研究班ヲ編成シ班長ハ陸軍軍医中佐松崎暢トス
八、研究班ノ編成並差出区分附表第一ノ如シ
其ノ四、研究資材
九、研究ニ要スル資材ハ附表第二第三ノ如ク軍軍医部ニ於テ関係各機関ニ連携シ整備ノ上交付スルモノトス (第二は、天幕等、いわゆる資材、第三は衛生機材)

第四、宿営 給養
十、研究班ノ宿営給養ハ自ラ行フモノトス之カ為所要ノ材料ハ張家口ヨリ搬送スルモノトス

第五、其ノ他
十一、試験委員並ニ班長ハ人員材料其他研究資材ニ不足ヲ生スルトキハ其ノ都度之ヲ委員長ニ申請スルモノトス
十二、試験委員並ニ班長ハ研究終了セハ其ノ成績ヲ研究実施ノ概況ト共ニ昭和十五年三月末日迄ニ委員長ニ報告スルモノトス

研究項目

A 第一線傷者ノ処置
第一線ヨリノ救護運搬予備試験
1.現制完全防寒具装着ノ儘搬送患者ノ運搬担送患者ノ運搬
(イ)担架兵ノ体力検査
(ロ)患者ノ観察
(一)第一線処置
(二)健康者ヲ患者ト仮定ス(兵ノ場合ト別ニ準備スル生体ヲ以テスル場合)
(三)保温法ヲ講シタル場合ト防寒具ノ儘ノ場合トノ比較
(四)運搬ノ距離ヲ変更シ都度検査ス
(五)各種運搬法ノ研究
2.担架及車輌ニ対スル防寒装備ヲ如何ニスヘキヤ
3.現制輸送具ニ対スル実験及考察(1.ノ四ニ関連ス)


B 生体ヲ以テスル試験
(A)野外ニ於ケル生体ヲ以テスル試験
1.止血帯ト気温並時間的関係ノ研究
止血帯装着法
止血帯装着時ノ凍傷予防
2.創ノ開放治療ノ能否及程度
止血ヲ如何ニスベキヤ
機械類ノ使用法使用可能ノ範囲
3.凍傷発生ノ時間的関係
諸種要約ノ下ニ実験ス
(B)天幕内ニ於ケル生体ヲ以テスル試験
天幕内傷者収容
手 術 創ノ観察
開腹術 経過観察
輸血、生理食塩水、輸血方法等ノ実施研究

C 手術用天幕ノ蒙古風ニ対スル抵抗

D 戦闘間ニ於ケル給水ヲ如何ニスヘキヤ (略)

E 天幕宿営ニ関スル研究 (略)

F 薬物携行法ノ研究

※アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C04122085400(第22-34画像目)。
※漢字は原則として常用漢字に置換し、判読不能文字は■印で記した。以下、本稿引用文同じ。

「戦時月報」は、戦史部が目玉コレクションとする陸軍省大日記シリーズのひとつ「陸支密大日記」に綴じ込まれている史料で、東京目黒にある防衛研究所に所蔵されているが、国立公文書館のデジタルアーカイブ「アジア歴史資料センター」(http://www.jacar.go.jp/)のデータベースにも登録されているので、インターネットで誰でも閲覧が可能だ。以下、本稿で提示する資料のうち、アジア歴史資料センターで閲覧が可能なものは、すべて注釈に文書番号と該当画像頁を付したので、興味がある人は閲覧して欲しい。

数百頁に及ぶ「戦時月報」のなかで、人体実験に関わる核心部分は、概要を簡潔に述べているたった十三頁に過ぎない。しかし『鱒澤資料』と突き合わせをすることで大きな意味を持つことになる。なぜなら、その内容は驚くほど酷似しているからだ。実験の名称は同じ「冬季研究」であり、場所も同じ西蘇尼特、研究項目についても文言を含めてほとんど同じという具合である。下の画像は、防衛省の史料(上)と『鱒澤資料』(下)から、それぞれ「研究項目」の人体実験に関する記載部分を抜粋したものだ。比べてみると分かるように、若干、行間や頭文字、「生体」の「体(軆)」の字などが異なるほかは、ほぼ同じ内容である。

防衛省の史料に綴じ込まれている「別紙第一 駐蒙軍冬季試験衛生研究班計画」の人体実験に関わる箇所。比較して表示するため、画像では二頁を合体している。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122085400(第26-27画像目)

防衛省の史料に綴じ込まれている「別紙第一 駐蒙軍冬季試験衛生研究班計画」の人体実験に関わる箇所。比較して表示するため、画像では二頁を合体している。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122085400(第26-27画像目)

『鱒澤資料』にある「研究要領」を説明する頁の人体実験に関わる箇所。(出典:『鱒澤資料』11頁)

『鱒澤資料』にある「研究要領」を説明する頁の人体実験に関わる箇所。(出典:『鱒澤資料』11頁)

実は、筆者自身、この防衛省の史料に出会ったときには『鱒澤資料』の存在を知らなかった。調査を進めるうちに、『鱒澤資料』の存在を知り、取り寄せて突き合わせをしてみたところ、その類似性に驚いたという次第である。

以下に見ていくように、防衛省の史料に記されたこの「冬季研究」は途中で計画が変更され、不十分な形で終わった。そして『鱒澤資料』は、この実験の「残部ヲ本年ニ持越サレ」たとして、昭和16年(1941年)に人体実験が実施されたとしているのである。いわば、出所不明で信頼性に乏しいが克明に記された『鱒澤資料』と、出所は折り紙付きだが内容は薄い防衛省の史料が、互いに補完しあう関係になっているわけだ。ゆえに、両者の接点を整理し、そこに矛盾がないか確かめることによって、『鱒澤資料』の信頼性をある程度確認することができるのである。

そもそも『鱒澤資料』の存在を抜きにしても、防衛省が保管するといういわば国のお墨付きがある史料で、「生体」の文字が踊る、ここまであからさまに人体実験について記述しているものを取り上げたのは、おそらく本稿が初めてだ。国はこれまで、旧軍で人体実験があったことについて公に認めたことはないが、この史料の存在で、今後それが覆される可能性はある。

以下、本稿では、防衛省の史料に記された昭和15年(1940年)の冬季研究について実験の目的や経緯を詳しく見ていくこととし、事実であれば翌年に行われた実験について記した『鱒澤資料』との接点について整理してみたい。なお、冗長を避けるため、考察は人体実験に直接関わる部分のみにとどめた。また、防衛省の史料と『鱒澤資料』ともに、関係者の人名については全てフルネームで記載されているが、本稿では原則イニシャルで記した。

(5)駐蒙軍「戦時月報」昭和十五年三月分。原本は防衛研究所所蔵で、オリジナル資料の簿冊番号は「陸支密大日記 昭和十五年第一八号四/四」。アジア歴史資料センター(JACAR)では、資料タイトル「戦時月報提出(送付)の件」でファイルが八分割されている。レファレンスコード(Ref)はそれぞれ、Ref.C04122084900、Ref.C04122085000、Ref.C04122085100、Ref.C04122085200、Ref.C04122085300、Ref.C04122085400、Ref.C04122085500、Ref.C04122085600。
(6)「戦時月報」JACAR:C04122085400(第22画像目)。

厳寒期の内モンゴルで予定された人体実験
防衛省の史料に記された「冬季研究」と呼ばれる実験の舞台は内モンゴルだ。時は昭和15年(1940年)の冬、場所は西蘇尼特(西スニット、現在の内蒙古自治区蘇尼特右旗)。北京から北西に四百キロ以上離れた高原地帯で、冬は昼間でも零下十度という極寒の地だ。ここで、軍の五原作戦(後套進攻作戦)と平行する形で、1月15日~31日までの約二週間、「生体」十体を使った人体実験を含む、野戦医療と給水の実験が予定された。研究を受け持ったのは、駐蒙軍の各部隊から集められた総員四十名の冬季衛生研究班(7)。責任者である主任にはI軍医部長、現地で実務を取り仕切る研究班長にはM軍医中佐が就任している(8)

実はこの冬季研究は、「駐蒙軍冬季研究試験」という軍を挙げての研究計画の一分野だったと思われる。「冬季研究」は、史料で確認できただけでも、通信や軍用動物の分野において同様に予定されているからだ(9)。後に見るように、本稿で主題とする衛生の分野では、厳冬期における第一線での傷者救命を主題とし、その中心に「生体」による演習実験を据えた。以下では特に断りがない限り、本文中の「冬季研究」や引用文中の「冬季(期)試験」は、この衛生研究を指すことにしたい。

さて、計画では「生体」という用語が使われているが、これが動物ではなく、なぜヒトを意味すると分かるのか。これから見ていくように、実験は人体を使った外科演習としての性格が強く、動物実験では意味がない。また、計画書の附表第一「冬季試験衛生班編制並差出区分表」(10)には、参加予定者の所属等が列挙されているが、全員が軍医・薬剤将校と衛生下士官兵で、「生体」が動物であれば参加するであろう獣医部人員は一名も挙げられていない。決定的なのが、その備考欄に記された「生体十体ヲ連行」という記載だ(11)。人員に関する説明のみを取り上げたこの項目にある以上、「生体」はヒトであるとしか考えられない。ゆえに、この計画は人体実験であると分かる。

(写真左)「冬季試験衛生班編制並差出区分表」には、隷下兵団からの参加予定人数が階級・職責別に記されている。研究班は計四十名で編成を予定されている。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122085400) (写真右)「差出区分表」の次頁に記された備考の5には「生体十体ヲ連行」とある。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122085400)

(写真左)「冬季試験衛生班編制並差出区分表」には、隷下兵団からの参加予定人数が階級・職責別に記されている。研究班は計四十名で編成を予定されている。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122085400)
(写真右)「差出区分表」の次頁に記された備考の5には「生体十体ヲ連行」とある。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122085400)



(7)「戦時月報」JACAR:C04122085400(第29画像目)。
(8)I軍医部長は、「(冬季研究試験)委員並衛生研究班主任」に命じられている。「戦時月報」JACAR:C04122085300(第50画像目)を参照。班長のM軍医中佐については、JACAR:C04122085400(第24画像目)を参照。
(9)「戦時月報」JACAR:C04122085100の第37画像目に冬季通信試験の記述。JACAR:C04122085500の第44画像目に獣医部所管の軍用動物冬季試験の記述がある。
(10)「戦時月報」JACAR:C04122085400(第29画像目)。
(11)「戦時月報」JACAR:C04122085400(第30画像目)。

人体実験は非倫理的か
ただ、新薬の開発や新しい治療法のために、生身の人間による治験が現代でも欠かせないように、人体実験自体はなんら非難されるべきものではない。非難されるべきは、実験内容が死を前提としたものであったり、本人の承諾なく行われるような非倫理的なものだ。この点、『鱒澤資料』では、中国軍のゲリラかスパイとおぼしき「死刑ヲ宣告」された男性らが実験に供されており(12)、最後には銃殺や生体解剖で処刑しているから、一般論として非倫理的と言える。この点、防衛省の史料にある人体実験は、そのように非難されるものなのだろうか。

問題は計画に言う「生体」が誰で、どのように実験に参加したかである。実験項目に「兵ノ場合ト別ニ準備スル生体ヲ以テスル場合」と断りがあるように、「生体」は日本軍兵士ではない。また前出の差出区分表の記載からも「雇人」でもないことは確かだ。この点、「生体十体ヲ連行」という言葉が気になるが、同じ史料の中に人夫の「雇入(やといいれ)連行」(13)などとあるように、当時「連行」という言葉は不穏な意味でなくとも使われていた。

ただ、これから見ていくように、「生体」には開腹手術など身体にかなりの負担がかかる演習が予定されており、『鱒澤資料』にあるのと同じく、生死を顧慮されない死刑囚が予定されたと考えるのが自然だ。そして、仮に死刑囚だとしても本人の承諾を得る予定だったかもしれないし、『鱒澤資料』とは異なり、この計画では治療・療養させる方針だった可能性もないとは言えない。この点は判断のしようがない。しかし、もし実験が行われたとするならば、その結果は極寒下における第一線創傷処置の困難さを知らしめるものであり、「生体」が誰であれ、死と隣り合わせの危険な状況に置かれたことだけは間違いない。

参考までに、当時の雰囲気を示す良い例がある。冬季研究とは別に作戦に参加する一般衛生部員に対してI軍医部長が出した指示に、「医学的謀畧ニ関シテハ毒物検知器ヲ活用シ給水ニ当リテハ土民動■ノ生体ノ実験ヲ実施スル等ノ著眼ヲ必要トス」(14)というくだりがある。住民に毒味役をさせることを奨励しており、当時の軍の現地人に対する人権感覚をよく示していると言えよう。


(12)「弔辞」において、生体に対し「不幸ニシテ誤レル思想行動ヲナシ蒋介石ノ走狗トナリ公明正大ノ正義ノ皇軍ニ不利ナル対敵行動ヲナスニ至ル 捕エラレテ獄舎ニアリ死刑ヲ宣告セラル」とある。『鱒澤資料』368頁。
(13)五原作戦の「第二期作戦ニ伴フ衛生勤務ニ関スル指示」に「患者輸送ノ為必要ナル人夫ハ等ハ現地ニ於ケル徴傭不可能ナルヘキヲ以テ豫メ関係機関ト連携シ雇入連行スルヲ可トス」とある。「戦時月報」JACAR:C04122085500(第3画像目)。
(14)昭和15年(1940年)1月15日に出された「本次作戦ニ伴フ衛生勤務ニ関スル指示」。「戦時月報」JACAR:C04122085400(第41画像目)。

冬季研究が求められた背景―ノモンハン事件と変容した野戦医療
では、実験の内容についてざっと眺めてみよう。《表1》の「A 第一線傷者ノ処置」と「B 生体ヲ以テスル試験」を見ると、二つの流れが浮かび上がってくる。まず、内容について着目すると、止血・応急処置、傷者搬送、天幕内における手術という流れが見えてくる。戦場における傷者救命そのものだ。若干、凍傷が独立している感を与える。もう一つは、項目そのものの順序だ。搬送実験で「健康者ヲ患者ト仮定ス」とあり、最後に身体への負担が大きな手術が控えていることから、これは実験順と考えて差し支えなかろう。健康体の生体を使って搬送や止血、凍傷等々の実験を行い、最終的に手術演習に用いるという流れだ。不埒な言い方だが、十体と限られた生体の”有効活用”といえる。

ここで疑問を感じるのが、実験内容についてである。いくら極寒地という条件があったとしても、第一線における傷者救命も凍傷も、これまで日露戦争やシベリア出兵、満州事変に熱河作戦と戦例には事欠かなかったはずだ。自ら「衛生勤務遂行上緊要ナル基礎的事項ノ研究」(15)とするように、それがなぜ「緊要」であり、わざわざ人体実験を行わなくてはならないのか。

特に凍傷については、鱒澤助教授もその必要性について疑問を呈し、五原作戦において予期せぬ大量の凍傷患者の発生があったことを直接の理由として挙げているが(16)、防衛省の史料と『鱒澤資料』の凍傷実験の位置づけは全く同じであるから、前年の時点で既に実験が必要とされた別の理由があると考えるべきこととなる。

実は、冬季研究が必要とされた背景には、ノモンハン事件直後という時代背景と、日華事変で変容した野戦医療のあり方が大きく影響している。

冬季研究が計画されたのは、ノモンハンで日本軍が敗北を喫したおよそ半年後。同じ頃に陸軍省で開催された会議では、関東軍が「国境の平和は一時的のもので、暴風雨の前の静けさと判断し、衛生部においても衛生作戦準備に遺憾なきを期し」と発言している(17)。ノモンハンでもそうであったように、対ソ開戦となれば外蒙軍も一体となって攻めてくる。外蒙国境を守る駐蒙軍も同じ認識だったはずだ。ところが、冬季に攻勢を受けた場合の対応については全く出来ていなかった。なぜなら、第一線での傷者救命は、日華事変の戦訓をもとにそのあり方そのものが変容してしまい、凍傷についても未だ詳しい発症メカニズムの解明がなされていなかったからだ。

ノモンハン事件は遮蔽物のない広漠たる草原地帯で戦われた。(出典:『一億人の昭和史 10 不許可写真史』毎日新聞社,1976年,119頁)

ノモンハン事件は遮蔽物のない広漠たる草原地帯で戦われた。(出典:『一億人の昭和史 10 不許可写真史』毎日新聞社,1976年,119頁)

従来の野戦医療では、担架で傷者をいったん包帯所(テントや建物を利用した一時待避所)に収容、止血などをしてから病院に後送という段階を踏んでいた。ところが日華事変の戦訓で、前線における迅速な対応が求められるようになった。戦場においては、受傷後おおむね六~八時間以内に相当徹底した処置を行い、その後は長時間の安静が望ましいとされた(18)。このため、銃砲騨の飛び交う火線内での外科的処置を含む初療の充実、迅速な収容と後送、そして、出来れば前線に近い場所で高度な手術が可能な病院機能自体を挺進させる運用が実戦の中で生まれることとなった。

このような経験則は、実務面では各戦線で生まれた膨大な症例を集めて共有するという動きを生み、昭和14年(1939年)3月の「第一線戦傷外科研究会」(以下、戦傷研究会)という形で始まった(19)。一方で制度面では、最前線で傷者救助を任務とする「戦闘救護班」の設置など、衛生隊の任務や編成に変更を促した。それは同年10月の『作戦要務令』第三部の制定によって結実した(20)。第一線での迅速かつ積極的な処置が、実務面でも制度面でも求められるようになったわけだ。

そのような背景があるなかで、駐蒙軍にとっての予想戦場は、広漠たる草原地帯であり、傷者後送するには兵站線が長すぎた。例えば、五原作戦では、前線から直近の野戦病院まで自動車輸送で七時間もの距離だった(21)。そして、半年前のノモンハン事件における教訓は、包帯所の開設は敵弾に妨げられて不可能であり、軍医以下は主として火線における勤務に終始したという事実であった(22)。対ソ外蒙軍との戦いにおいては、最前線で一次救命を完結させることが現実問題として求められることを意味した。ところが、極寒地におけるそのような処置は、全くの手探り状態だった。外科的処置は野外ではなく、設備と保温が十分な後方の病院で行うといった旧制度での経験しかなかったからだ。戦傷研究会でも「将来戦を顧慮し極寒及酷暑の作戦地に於ける戦傷外科的処置に対し準備し置くを急務とす」としている(23)

一方、凍傷については、その予防と治療も含めて広く教育は行われていたものの、本稿の冬季研究が計画された段階では、詳しい発症メカニズムといった新たな知見は人体実験によらなければ得られないという水準にあったようである(24)。関東軍の第七三一部隊では、昭和13年(1938年)より凍傷の研究が始められていたが、それは公開できる性質のものではなく、一部成果の発表も昭和16年(1940年)10月だった(25)。オフィシャルにできるものとしては、関東軍の凍傷研究班が昭和14年(1939年)と昭和15年(1940年)の冬に満州のハイラルで国軍将兵らを被験者として行った研究がある。しかし、これらの成果の発表もそれぞれ二年後であり(26)、冬季研究が計画された段階では人体実験による新知見を共有するまでには至っていなかった。

その上で、極寒地での作戦では、時として戦傷よりも凍傷患者が多発する。このことはシベリア出兵でも経験済みだったが(27)、五原作戦においても同じ轍を踏んでいる。史料によると、五原作戦における一般戦死傷者624名に対し凍傷患者は739名。このほかにさらに在隊患者の報告漏れがあると報告されている(28)。ソ連外蒙軍の脅威を前に、有効な凍傷対策を確立するためにも、人体実験が必要とされたものと思われる。

(15)「戦時月報」JACAR:C04122085400(第22画像目)。
(16)『鱒澤資料』X-XII頁。
(17)昭和15年(1940年)2月14日の陸軍省における軍医部長会議における関東軍軍医部長の発言。陸上自衛隊衛生学校編『大東亜戦争陸軍衛生史 巻一』1971年,23頁。
(18)『大東亜戦争陸軍衛生史 巻八』1969年,109頁。
(19)『大東亜戦争陸軍衛生史 巻二』1969年,49-94頁。「第一線戦傷外科研究会」は、実戦における貴重な臨床例を共有するために、陸軍軍医学校教官だった出月三郎軍医中佐の呼びかけで始まった。1939年(昭和14年)3月に北京で開催され、その後、南京でも開催されたという。同書に収録された内容は、このときの研究発表を同年5月に出月中佐がまとめたもの。
(20)『作戦要務令』第二百十三条には、「師団長ハ要スレハ患者収容隊ノ一部或ハ戦闘救護班ノ若干ヲ第一線部隊ニ配属スルコトアリ」と定められており、さらに戦闘救護班の任務及び編成について「戦闘救護班ハ第一線ニ於テ救護ニ任スルヲ通常トシ主トシテ軍医以下若干ノ衛生部員ヨリ成リ患者収容隊長其ノ人員材料ヲ以テ之ヲ編成スルモノトス」とした。
(21)岡村部隊本部「後套進攻作戦ニ於ケル気象地形(特ニ酷寒砂漠)ノ作戦上ニ及ホシタル影響及教訓」昭和15年(1940年)6月。原本は防衛研究所所蔵で、オリジナル資料の簿冊番号は「陸支密大日記 昭和十五年第二四号三/三」。アジア歴史資料センター(JACAR)では、資料タイトル「後套進攻作戦に関する参考書類送付の件」でファイルが三分割されている。レファレンスコード(Ref)はそれぞれ、Ref.C04122218000、Ref.C04122218100、Ref.C04122218200。当該頁は、JACAR:C04122218100(第27画像目)。
(22)陸軍省医務課の三浦課員による昭和15年(1940年)1月20日付「ノモンハン事変教訓事項(衛生関係)報告(抄)」。『大東亜戦争陸軍衛生史 巻一』237頁。
(23)『大東亜戦争陸軍衛生史 巻二』93頁。
(24)常石敬一『消えた細菌戦部隊』筑摩書房,1993年,168頁。
(25)昭和16年(1941年)10月に、第七三一部隊の吉村寿人技師が「第一五回満州医学会哈爾濱支部特別講演」で行った研究報告(JACAR:A03032007200(第5-46画像目))。
(26)昭和14年(1939年)2月~3月に行われた実験は、村上徳治軍医少将と天野栄軍医少佐の連名で、昭和16年(1941年)8月発行の『軍医団雑誌』第339号において「凍傷発生ニ関スル生理学研究」と題した論文で発表された。昭和15年(1940年)1月~3月に行われた実験は、尾形恒治軍医中佐が昭和17年(1942年)3月に日本医学総会軍人医学総会において「凍傷」の題で発表している。なお、尾形中佐の発表に対して追加討論が行われ、七三一部隊の吉村技師らから微温湯への沐浴による応急処置などの新知見が提言されている(『大東亜戦争陸軍衛生史 巻二』227-229頁)。
(27)参謀本部『戦史叢書 第七号―西伯利出兵間ノ経験ニ基ク寒地ノ冬季作戦』偕行社刊,1927年,154-158頁。
(28)「後套進攻作戦ニ於ケル気象地形(特ニ酷寒砂漠)ノ作戦上ニ及ホシタル影響及教訓」JACAR:C04122218200(第1画像目)。

人体実験の具体的なイメージ
それでは、冬季研究で計画された人体実験は、具体的にどのようなものであったのだろう。『鱒澤資料』には実験の全貌がおぞましいほどに記されているが、原本の真贋が不明である以上は、防衛省の史料から読みとれる範囲でのみ考察を行う以外にない。しかし、極寒地での対応の可否が実験の目的であることは分かっても、医学の専門知識に乏しい筆者では、《表1》の項目だけでは具体的なイメージが描けないのが正直なところである。

そこで、散弾創傷の処置経験もある現役医師の協力を得た。医師に極寒地という条件を提示した上で《表1》のみを見てもらい、記載事項から読み取れる範囲で所感を述べてもらった。それを戦傷研究会と五原作戦の教訓に照らし合わせた。これにより、ごく一部ではあるが、具体的なイメージを描き出すことができた。以下では、止血、開腹術、輸液投与について見ていきたい。なお、『鱒澤資料』にある実験結果との比較は、章を改めて後述する。

まず、(A)の「野外ニ於ケル生体ヲ以テスル試験」を見てみよう。ここで想定されているのは、第三項の凍傷を除くと、「1.止血帯ト気温並時間的関係ノ研究」と「2.創ノ開放治療ノ能否及程度」となっており、両者ともに止血に関するものと考えられる(ただし、後者はさらに化膿防止などの第一期切除等も含む可能性はある)。戦場において止血を要する創傷とは、銃弾や砲弾の破片などによるものが主で、素人からすると、これら破片を取り除くことを真っ先に思い浮かべるが、現実には、血液循環の安定化、その後の感染のコントロールが外傷直後の処置としては最重要であり、レントゲンなどの装備もなく現場で異物除去を試みることは考えられないという。野外試験で止血のみが実験対象とされる所以である。

具体的には、前者が傷口より心臓に近い上流部を止血帯(バンド)で圧迫するバンド法であり、後者が傷口を開けて鉗子で血管を抑えて止血する鉗子法、または直接動脈を結紮して止血するといった結紮法である。戦傷研究会の報告にあるように、従来のバンド法に対し、後者がより有益な止血法として注目されていた(29)

「止血帯装着時ノ凍傷予防」とあるように、バンド法については、凍傷の恐れのある中で血液の循環を止めることが、どれくらいの時間・程度であれば許されるのかについてが問題とされたようだ。戦傷研究会では「2時間説(寒地に於いては1時間)」という従来の説に対して「根拠薄弱」で、さらに延長することが可能とする意見があったとしており(30)、この実験が計画された昭和15年(1940年)に至っても未だ止血時間すら確立されていなかったことを示唆している。

一方の鉗子法や結紮法については、零下十~三十度という全てが凍ってしまう環境においても可能かどうかは完全に未知数だったようだ。「機械類ノ使用法使用可能ノ範囲」というのは、素手で金属に触れれば皮膚に貼り付いてしまう極寒下において、防寒手袋をしたままでメスや鉗子などの機械を使えるのかが問われた。特に結紮法については、傷口を切開し動脈を探り当て結紮するという行為が、溢れ出る血液すら凍ってしまいかねない環境下で可能なのか。それ以前に、外傷直後には感染のコントロールが命を左右するのに、処置を行う際の軍医や衛生兵の消毒はどのように行うのか、血清や感染予防薬、強心剤といった注射を打とうとしても薬液が凍結してしまうのではないか、これらの点も実験で確認する必要があったと思われる。後述の五原作戦における教訓で見るように、極寒の野外ではそれらの処置は不可能に近い、というのが結論だった(31)

野外における処置がほとんど不可能として、前線に挺進した装備不完全な野戦病院が極寒下でも有効に機能するかを確認する必要もあった。それが「(B)天幕内ニ於ケル生体ヲ以テスル試験」に掲げられているものだ。このうち「開腹術」では、最も温度が保たれているはずの腹深部が一時的にせよ切開によって外気に曝されるわけだから、低体温による内臓への影響は大きいと考えられる。準備された手術用天幕に暖炉が付いていることからも(32)、室温が何度までなら手術が可能かが問われたと思われる。戦傷研究会では、二十度以下での手術は不可能とされる意見があったが(33)、五原作戦では(宿営用天幕なので単純に比較できないが)外気温零下十六度の時に暖炉真横の最も暖かい場所で十二.五度だったとの記録がある(34)

同じように、輸液(生理食塩水・輸血)の投与についても温度差の問題がある。輸液の温度が低いまま大量に投与すると、体温が下がって心停止する恐れがある。しかし外傷への輸液は一般に緊急性が高く、急速に投与せざるを得ない。輸液の温度は最低でも何度くらいにするべきか。暖炉を使った天幕内の室温はベッドの位置によっても様々だし、投与している間にも輸液の温度はどんどん低下していく。また、輸液自体についても、戦傷研究会では寒地においては血清よりも乾燥血液が有用であるとされていたが、それもまだ研究段階での話だった(35)

(29)『大東亜戦争陸軍衛生史 巻二』61-62頁。
(30)『大東亜戦争陸軍衛生史 巻二』59頁。
(31)「後套進攻作戦教訓」JACAR:C04122218100(第17-21画像目)。
(32)「戦時月報」JACAR:C04122085400(第33画像目)。「附表第三 携行衛生材料及差出区分」に第二十六師団から差し出される「手術用天幕」に括弧で「暖炉ヲ含ム」との表記がある。
(33)『大東亜戦争陸軍衛生史 巻二』92頁。同時に外気温での手術も差し支えなしとする意見が並列されており、開腹術が可能な室温については症例が少なく、コンセンサスが得られていなかったようである。
(34)「後套進攻作戦教訓」JACAR:C04122218100(第48画像目)。
(35)『大東亜戦争陸軍衛生史 巻二』60-63頁、186-188頁。

人体実験は実行されたのか?
このように冬季研究では、極寒の第一線における傷者救命、それも迅速な現場主義の確立のために、「生体」を用いた実戦的な演習が企図された。では、実際に行われたのだろうか。

冬季研究の実施予定期間は1月15日~31日。決行三日前の12日の段階では、「蒙作命甲第一一号ヲ以テ冬季試験実施方下達サル」と、当初予定通りに研究を行うことが決められている(36)。その後、決行当日の15日になって、「前項軍冬季試験ハ蒙作命甲第一一号ニ拘ラス別名方下達セラル」(37)と、何らかの変更があったことを明らかにしている。そして、研究の後期にあたる24日に、I軍医部長が次のような指示を出している(38)

「厳冬時ノ作戦行動ノ機会ヲ捉ヘ予メ計画セシ冬期研究ノ一部ヲ要求セラルルニ付兵馬倥偬ノ間ト雖モ万難ヲ排シテ実施シ有益ナル報告ヲ提出セラレ度」

「冬期研究ノ一部ヲ要求」とあることからも、冬季研究自体は実行に移されたが、その内容には何らかの変更があった。「一部」と言っていることからも、研究項目が削られたようだ。

変更の理由は五原作戦にある。というのも冬季研究は、前述のように蒙作命甲第一一号で12日に発令されたが、五原作戦は同一三号(39)で14日の発令であり、冬季研究の方が作戦より前に発令されている。岡部直三郎軍司令官の日記には、1月6日に通信冬季試験を開始、その翌日の7日に作戦立案を参謀長に命じたとあり(40)、事前に予定されていた軍の冬季試験に割り込む形で作戦が決められたことを明らかにしている。

凍った大地を進撃する第二十六師団の車列。五原作戦にて。(出典:島貫武治監修『写真集 支那事変』国書刊行会,1979年,318頁)

凍った大地を進撃する第二十六師団の車列。五原作戦にて。(出典:島貫武治監修『写真集 支那事変』国書刊行会,1979年,318頁)

大規模作戦を発動するとなれば全部署にとって大仕事であり、「計画中ナリシ本年度軍冬季試験ハ作戦ノ為実施困難」(41)と、当初よりその実現が危ぶまれたのも無理はない。衛生部でも作戦準備のため、北支那方面軍から人員の応援を受けたり、患者を後方の病院に送るなどの対応を取っている。研究のために四十名もの人員と資材を割くのは甚だ困難だったに違いあるまい。前述のように通信の分野では試験が実施されたが、衛生部より後の1月下旬に予定されていた獣医部の軍用動物の試験は延期されている(42)。作戦発動の決定が数日早ければ、衛生部の冬季研究も発令されなかったかもしれない。

そして、計画書に「研究終了セハ其ノ成績ヲ研究実施ノ概況ト共ニ昭和十五年三月盡日迄ニ委員長ニ報告スルモノトス」(43)とあるように、冬季研究が実施されたとすれば事後報告があるはずだが、これに対応すると思われる報告は見つかっていない。このため、冬季研究で人体実験が行われたか否かは明らかではない。

(36)「戦時月報」JACAR:C04122085300(第50画像目)。
(37)「戦時月報」JACAR:C04122085300(第50画目)~JACAR:C04122085400(51画像目)。
(38)「戦時月報」JACAR:C04122085500(第5-6画像目)。
(39)「戦時月報」JACAR:C04122085400(第1画像目)。
(40)岡部直三郎『岡部直三郎大将の日記』芙蓉書房,1982年,273-275頁。ただし、芙蓉書房版の市販書には、衛生部の冬季研究に関係する記述は見あたらない。
(41)「戦時月報」JACAR:C04122085400(第6画像目)。
(42)「戦時月報」JACAR:C04122085500(第47-48画像目)。
(43)「戦時月報」JACAR:C04122085400(第25画像目)。

もし行われたとしても”傷者救命”は相当に困難だった?
この点、人体実験が行われたとして、その成果というか結果については、おおよそ見当がつく。五原作戦では「腹部損傷ニシテ適応ト認ムル者ニハ第一線式開腹術ノ励行ヲ望ム」(44)など、冬季研究の目的と同じ第一線での積極的な傷者救命が求められており、いわば実戦で症例を得ることが期待できた。半年後の同年6月付で駐蒙軍から陸軍省に送付された「後套進攻作戦ニ於ケル気象地形(特ニ酷寒砂漠)ノ作戦上ニ及ホシタル影響及教訓」(45)と題した文書はまさにその結果を報告するもので、そこには冬季研究における人体実験と同様の課題が、同時期に行われた実戦での教訓として記されている。同史料における記述は、以下のような具合である(46)

「敵前三〇〇米以内ニシテ気温零下三〇度内外ニ於テハ■間殆ト止血沃丁塗布圧迫包帯ノ外ハ処置困難ナリ」

「創ノ再検破傷風及瓦斯壊疽血清ノ注射鉗子止血「リンゲル」注射等…天幕若クハ建物ヲ利用セサレハ不可能ナリ」

「出血多量ノ場合血液塊状ニ凍結シアルコトアリ処置ヲ要ス」

「止血帯ヲ施セルモノハ凍傷予防ニ最モ注意スルノ要アリ零下三〇度内外ニアリテハ二〇分以内ニ之ヲ検査シ要スレハ一応弛緩セシメ出血ノ状況ニ依リ結紮或ハ鉗子止血若クハ圧迫包帯ニ換フルヲ可トス」

「火線ニ於テハ術者ノ手指ノ消毒ハ困難ナリ傷者ノ血液ヲ以テ汚染セラレタル手指ノ清潔法スラ其ノ実施困難ナリ」

「強心止血鎮痛等ノ注射薬ハ…零下三〇度ニ及フト第一線野外ニ於テハ管針ニ吸引シアル時ニ凍結スルコトアリ」

これらを見る限り、極寒下の野外における外科的処置は相当に困難であったと言える。もし冬季研究で人体実験が行われたとしても、少なくとも野外では、被験者である「生体」の救命に失敗し、医学的には有益な成果(傷者救命の方法論)を得られなかったのではあるまいか。

(44)「戦時月報」JACAR:C04122085500(第2-3画像目)。
(45)「後套進攻作戦教訓」。資料詳細は補注(20)を参照。
(46)「後套進攻作戦教訓」JACAR:C04122218100(第17-21画像目)。

浮かび上がる『鱒澤資料』との接点―”二回目の冬季研究”はあった
ここでもう一度、冬季研究で人体実験が行われたかどうかを考えてみよう。この点でヒントとなるのは、実験後に冬季研究の内容が公表されているかどうかである。と言うのも、通常、人体実験のように症例数は少ないがデータの質として正確な知見は、論文や教範といった形で広く現場、つまり第一線の軍医らにフィードバックされる必要があるからだ。しかし、本稿の冬季研究に関わる論文の発表や、実験の成果を前提とした教範類の制定等は確認できなかった。

ただ、陸軍軍医団が発行していた学術誌『軍医団雑誌』には、各地で開催された研究発表会の概要を紹介するコーナーがあり、そこでは同年3月から4月にかけて五原作戦に関わる研究発表が計六回あったことが紹介されている(47)。研究会の場所等は「○○研究会」と伏せ字で定かではないが、内容からして駐蒙軍の部隊か病院であることは間違いなかろう。不思議なのは、一部であれ実施されたはずの冬季研究に関する発表が一件もないにもかかわらず、なぜか翌年の昭和16年(1941年)には多数行われていることである。

昭和16年(1941年)4月発行の軍医団雑誌では、3月25日にY軍医大尉(張家口病院所属)が「冬季衛生研究成績ノ大要ニ就テ」との題で発表を行っているほか(48)、同年7月発行号では、4月26日にJ軍医少佐(騎兵集団司令部付)が「駐蒙軍冬期衛生研究ニ就テ」との題で発表を行ったことが紹介されている(49)。これに似たことは公文書にもある。「昭和十六年度駐蒙軍第一次兵要地誌会議景況報告ノ件」という史料(50)には、3月6日・7日の両日に駐蒙軍司令部で開催された会議にK軍医中佐(軍医部高級部員)が出席、「冬期試験ノ結果ニ基ク所見」と題して、「過般実施ノ西蘇尼特附近ニ於ケル冬期試験ノ結果ニ基キ冬期ニ於ケル給水及衛生上顧慮スヘキ事項ノ説明」を行ったとある(51)。その内容について別紙記載とありつまびらかではないが、場所と季節は一致している。

実はこれこそが、防衛省の史料と『鱒澤資料』とを結ぶ接点なのである。『鱒澤資料』では、本稿で扱った昭和15年(1940年)の冬季研究の「残部ヲ本年ニ持越サレ」たことを名目に、昭和16年(1941年)のほぼ同じ時期に同じ西蘇尼特において人体実験を含む冬季研究を行ったとしているからだ。そして、兵要地誌会議に出席したK軍医中佐と、研究発表を行ったY軍医大尉の二人は、『鱒澤資料』ではともに実験参加者として記録されている(52)。J軍医少佐は実験参加者ではないが、騎兵集団からは実験に未参加だったため、部長として軍から提供を受けた概要を報告したものと思われる(53)

ただ、『鱒澤資料』に拠らずとも、昭和15年(1940年)の冬季研究の結果が翌年に報告されるのはやはりおかしいわけで、この年の冬季研究に関してはなんら発表等がなかったと考えて差し支えなかろう。ようするに、人体実験は行われなかったか、成果不十分であったと考えられるのである。そして翌年の昭和16年(1941年)には、『鱒澤資料』と同じ「冬季(期)研究」の名の下に、「冬期ニ於ケル給水及衛生上顧慮スヘキ事項」という何らかの活動が行われたことは間違いない。


(47)陸軍軍医団『軍医団雑誌』325号,1940年,715頁、同326号,840-841頁。国立国会図書館所蔵(マイクロ)。
(48)『軍医団雑誌』335号,535頁。
(49)『軍医団雑誌』338号,1046頁。
(50)駐蒙軍司令部「昭和十六年度駐蒙軍第一次兵要地誌会議景況報告」昭和16年(1941年)3月7日。原本は防衛研究所所蔵で、オリジナル資料の簿冊番号「陸支密大日記 昭和十六年第九号一/三)」、アジア歴史資料センターでは資料名「昭和16年度駐蒙軍第1次兵要地誌会議景況報告の件」(Ref.C04122765400)。
(51)「昭和十六年度駐蒙軍第一次兵要地誌会議景況報告」JACAR:C04122765400(第4画像目)。出席者名簿は同第6-8画像目。
(52)『鱒澤資料』348頁。
(53)昭和15年(1940年)の計画では、騎兵集団から衛生下士官一名が参加予定とされていたが、『鱒澤資料』では騎兵集団からの参加者はいない(同書348-349頁)。ちなみにJ軍医少佐は、昭和14年(1939年)3月に北京で開催された戦傷研究会にも参加している。遺族による私家本によれば、J軍医少佐は後に南方に出征し、昭和19年(1944年)に戦死している。

1940年は人体実験が行われず、実戦での症例を得る方向に変更された
そこで『鱒澤資料』に注目してみたい。『鱒澤資料』では、その「結語」において、一連の冬季研究について次のように述べている(54)

駐蒙軍冬季衛生研究ハ夙ニ昨年極寒地西蘇尼特附近ニ於テ実施ノ処宛モ後套進攻作戦開始セラレ零下三一度積雪十糎ノ実戦場ニ其ノ一部ハ体験済トナリ残部ヲ本年ニ持越サレ漸ク二月初旬極寒期ヲ選ヒ勇躍研究ノ途ニ就ク

この一文を読む限り、冬季研究と同様の課題は「実戦場」において体験済みとなったとしており、それは既に見たように五原作戦の教訓がそれにあたると言えそうだ。この点について検証してみよう。防衛省の史料には以下のような記述がある(55)

「曩ニ計画中ナリシ本年度軍冬季試験ハ作戦ノ為実施困難ナリシモ本次作戦ニ於テ其ノ目的ヲ達成シ得ル点モ尠ナカラサルニ於テ予メ作戦間終始研究ノ著意ヲ以テ実験資料獲得方ニ関シ作戦部隊ニ要求セラル 研究項目中衛生関係事項別紙第八ノ如シ」

ここにいう「実験資料」だが、前後の史料を読む限り、当時は症例などを含めて「資料」という呼び方をしていたようだ。既述のように、五原作戦では冬季研究の目的と同じ第一線での積極的な傷者救命が求められていた。ゆえにこの一文は、実戦において症例を得ることを求めたものと解することができる。

そして後段に言う「別紙第八」は、「冬季衛生試験調査項目」と題された文書(56)である。実はこの文書、内容は人体実験を含む研究項目を列記した「別紙第一」(《表1》)と似た内容なのだが、「生体」の文字が全て削除された上で、微妙に文言が異なっている。「試験」が「経験」に置き換わっているのだ。

(写真左)作戦発動前の1月12日に作成された「別紙第一」では、実験が生体を用いた「試験」と表現されている。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122085400) (写真右)五原作戦中の1月22日頃に作成された「別紙第八」。文言が「経験」に置き換わっている。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122085500)

(写真左)作戦発動前の1月12日に作成された「別紙第一」では、実験が生体を用いた「試験」と表現されている。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122085400)
(写真右)五原作戦中の1月22日頃に作成された「別紙第八」。文言が「経験」に置き換わっている。(出典:アジア歴史資料センター Ref.C04122085500)

これまでの議論をあわせて考えると、当初予定された人体実験を含む「試験」は行われず、実戦での症例を「経験」として得る方向に計画が変更されたと結論付けることができる。すなわち、防衛省の史料に記された昭和15年(1940年)の冬季研究では、人体実験は行われなかったのである。

(54)『鱒澤資料』336頁。
(55)「戦時月報」JACAR:C04122085400(6-7画像目)。
(56)「戦時月報」JACAR:C04122085500(第7-8画像目)。

方法論としても辻褄が合う両者の関係―高い成績を収めた1941年の実験結果
さて、昭和15年(1940年)の冬季研究では、人体実験は行われず 実戦での症例を得る方向に変更された。そうすると、『鱒澤資料』が翌年の昭和16年(1941年)に前年分の「残部」という名目を掲げて人体実験を行ったとしていることは辻褄が合うことになる。

これは疫学研究の方法論における「propsective study」(前向き研究)と「retrospective study」(後向き研究)との関係で理解される。すなわち、作戦で収集した多数の症例を分析した結果(retrospective study)、改めて必要な項目に対して計画を立てて実験を試みる(propsective study)という流れである。実験失敗のリスクを最小限に抑え、正確なデータを得られるという点で有理である。

実際、『鱒澤資料』に記された実験結果について見てみると、これまで本稿で紹介してきた従来の通説や五原作戦での教訓と比較して高い成績を収めていることが分かる。考察としては不十分の謗りを免れないが、本稿で具体例として提示できた、止血法や開腹術、輸血に関する部分について見てみよう。

バンド法による止血については、通説では一時間以内、五原作戦では零下三十度で「二〇分以内ニ…一応弛緩セシメ」と報告されていた。これに対し『鱒澤資料』では、隷下十二度という条件ではあるが、一時間三十分にわたって装着を続けても、防寒しているかぎり凍傷や貧血性壊疽等の発症はなく、後遺症は残らないという結論を出している(57)

(出典:『鱒澤資料』132頁)

(出典:『鱒澤資料』132頁)

鉗子を使った止血では、手先の自由や消毒が問題となるが、「ゴム手袋」を利用して解決を試みたのが注目される。ただ、ゴム手袋を装着した上での機器の使用は、さすがに血管結紮までになると相当に困難だったようだ。「第一期切除及消毒止血ハ可能ナルモ血管結紮ハ頗ル困難ナリ」としている(58)

(出典:『鱒澤資料』225頁)

(出典:『鱒澤資料』225頁)

低体温による内臓への影響が大きいと考えられる開腹術については、戦傷研究会で二十度以下での手術は不可能という意見が出されていたのはすでに見たとおりである。『鱒澤資料』では室温十度で手術を実施して成功している。「酷寒時不毛地ニ於テモ手術用天幕内ニ於ケル開腹術容易ナリ」と判決している(59)

輸液については、乾燥血液の実験は行われず、保存血、凍結血、異型血、動脈血、死体血、異種血(羊)、死体血、低温リンゲル液の静脈注射が行われている(60)。このうち、保存血については、魔法瓶で低温保存した血液250ミリリットルをほぼ零度でそのまま投与しても問題はなかった(61)。他の輸液についても明らかな異変や後遺障害は認められず、いずれも実験に成功している。

(57)『鱒澤資料』111-118頁。
(58)『鱒澤資料』119頁。
(59)『鱒澤資料』195頁。
(60)『鱒澤資料』213-223頁。
(61)『鱒澤資料』213-214頁。

『鱒澤資料』が記したものは真実であっても、公式な歴史史料とはならない
ここまで、防衛省の史料に記された駐蒙軍が計画した昭和15年(1940年)の冬季研究と、それに繋がるものとして、1941年(昭和16年)の人体実験を克明に記した『鱒澤資料』との接点について見てきた。本来であれば昭和15年(1940年)に予定された人体実験を含む冬季研究が、作戦の都合により実戦での症例を得る方向に方針転換された。これらは防衛省の公的な戦史史料によって裏付けらた事実である。そして『鱒澤資料』の記載は、その“残部”という名目で、ほぼ前年と同様の形で人体実験が実行されたことを記録している。

本稿では、あくまで出所が明らかな防衛省の史料を考察の中心に据えたため、『鱒澤資料』の内容についてあまり紹介はできなかったが、本稿で披露していない些末な部分についても矛盾点はない。

一例を挙げれば、実験グループは、野外処置を担当する第一部、天幕内手術を担当する第二部、給水を担当する第三部、凍傷実験は第一部と第二部の合同、といった具合に分けられているが(62)、これらを「人名表」(63)で確認すると、第一部は兵団出向者で、第二部は陸軍病院出向者、第三部は防疫給水部出向者と、それぞれ担当する実験内容が勤務先と密接に関係した任務に区分されるという、極めて実戦的な研究体制がとられている。

これらの点は、説明してしまえば当たり前のようだが、表だって明記されているわけでない。ようするに、『鱒澤資料』に記された実験の様子は、細部についても辻褄が合っているのである。そして、後の補遺で紹介するように、実験参加者の一人であるN軍医が戦後自費出版した私家本には、昭和16年(1941年)の冬季研究に言及した当時の手紙が含まれているが、そこに書かれた内容も『鱒澤資料』と完全に一致している。『鱒澤資料』は本物であり、書かれていることは真実であるとしか考えられない。

第一〇〇部隊(関東軍軍馬防疫廠)における人体実験の写真とされるもの。1985年に雑誌『ゼンボウ』は、この写真を、昭和3年(1928年)の済南事件において中国兵によって惨殺された邦人の遺体検分写真であると報じた。かつて北京の抗日戦争記念館には、この写真を元にした蝋人形が展示されていたと記憶しているが、今は撤去したようだ。 (出典:李乗新ほか主編『侵華日軍暴行総録』河北人民出版社,1995年,巻頭写真22頁)

第一〇〇部隊(関東軍軍馬防疫廠)における人体実験の写真とされるもの。1985年に雑誌『ゼンボウ』は、この写真を、昭和3年(1928年)の済南事件において中国兵によって惨殺された邦人の遺体検分写真であると報じた。かつて北京の抗日戦争記念館には、この写真を元にした蝋人形が展示されていたと記憶しているが、今は撤去したようだ。
(出典:李乗新ほか主編『侵華日軍暴行総録』河北人民出版社,1995年,巻頭写真22頁)

中国では、これまで日本の悪行として使ってきた人体実験の写真が、実は明治時代の防疫活動の写真だったり、済南事件で中国軍に惨殺された邦人の遺体検分写真だったことなどの失敗から、唯一本物と言える『鱒澤資料』の有効活用をしたいようだ(64)。しかし、我が国で『鱒澤資料』が歴史史料として扱われることは、酷なようだが、おそらく永久にないだろう。本稿で挙げた諸資料は全て公表されたものであり、結局は傍証に過ぎないからだ。既に関係者の大部分は亡くなっていると思われ、証言を得ることは不可能、となると、複数部作成されたと思われる他の原本が防衛省など公の機関で見つかる以外に、『鱒澤資料』にオフィシャルな価値が認められる望みはない。

(62)「附表第四 業務分担表」『鱒澤資料』353-354頁。
(63)『鱒澤資料』348-349頁。
(64)ハルビン市社会科学院の金成民氏が、日本滞在中の2001年に、都内の図書館に所蔵されていた『鱒澤資料』を目にし、中国に持ち帰って大きな反響を呼んだ。中国の新聞報道によると、金氏はハルビンの七三一記念館において『鱒澤資料』の写真展示を企図しているという。

「弔辞」が全てを物語る
最後に、駐蒙軍の冬季研究と、その全貌を記した『鱒澤資料』に対する筆者の感想を述べて本稿を締めくくりたい。

(出典:『鱒澤資料』47頁)

(出典:『鱒澤資料』47頁)

筆者が『鱒澤資料』を一読して最初に気になったのが「弔辞」(65)である。『鱒澤資料』には、実験終了日の2月8日に開催された「生体慰霊祭」において、研究班長であるT軍医少佐が詠んだとされる一頁の「弔辞」が掲載されている。その内容は以下の通りである。

附表第十一 弔辞
惟時皇紀二六〇一年二月八日
研究班生体ノ霊ニ告ク
御身等ハ選ハレテ生国生年月日ハ異レトモ東亜ノ一角中華民国ニ生ヲ受ケ不幸ニシテ誤レル思想行動ヲナシ蒋介石ノ走狗トナリ公明正大ノ正義ノ皇軍ニ不利ナル対敵行動ヲナスニ至ル
捕エラレテ獄舎ニアリ死刑ヲ宣告セラル
時ニ当研究班編成セラレ内蒙古ノ地ニ皇軍幾百万ノ否全世界人類ノタメ医学術研究ヲ担当ス
御身等ハ選ハレテ既定ノ死ヲ尊キ研究実験ニ捧ケ本日終焉ス
其ノ世界人類ニ貢献セル所大ナリ
以テ冥スヘシ
茲ニ祭壇ヲ設ケ霊ヲ慰ム
在天ノ霊来リ餐ケヨ
二月八日 研究班長 谷村少佐

(出典:『鱒澤資料』368頁)

何とも都合の良い文句が並ぶが、それを置いて、陸軍という役所の公文書に、はたして「弔辞」など載せ得るだろうかという疑問がわく。この疑問は、実験に対する関係者の姿勢を了解してから理解できる。

『鱒澤資料』に掲載された陣中日誌には、「各員寒気ト闘ヒ薄暗ノ中ニ凍傷発生観察ノ画期的研究ニ没頭、寒気ノ為口辺眉毛ハ全テ霧氷ニ埋メラレナカラ時間ノ立ツヲ知ラス研究途中ノ熱キ甘酒ニ一同元気百倍」(66)といった記述がある。人体実験というおぞましい行為からほど遠いぐらいの熱意が伝わってくる。次の補遺で見るN軍医が新婚妻に宛てた手紙にある「なかなか興味深い仕事です」「やる方はあまり苦になりませんのに」といった感想も同様である。

ただ、このような点をセンセーショナルにクローズアップするだけでは、これまでと同様の単なる猟奇趣味的な理解で終わってしまう。事実は逆である。研究方針で「研究項目ハ現地ニ即応シ直接衛生勤務上必要ナル事項ニ限定シ且既往ノ研究ニ依リ既ニ成果ヲ得タル事項ハ極力之ヲ除外スルモノトス」とくどいほど念押ししているように、当時の関係者にとっても、人体実験など、やらぬに越したことはなかった。そう理解して、初めて、将校自らが被験者の処刑という汚れ仕事を行っている(67)ことに注意が向く。

そもそも、医者である前に軍人である彼らにとって、実験であれ処刑であれ突撃玉砕であれ、命令を拒絶することはあり得ない選択であり、どんなにおぞましい行為であっても、それは「公務」だった。その上で、たとえ偽善的ではあっても慰霊祭を挙行し、「弔辞」を載せ、処刑を将校自身の手で行った。T軍医少佐以下、冬季衛生研究班は、誠実に任務を遂行したのだ。

もしかしたら、この種の行為が横行したとされる旧軍内にあって珍しい誠実さだったのかもしれない。研究を立案した人、研究を指揮した人の人柄ゆえかもしれない。その点については分からない。しかし、「弔辞」を載せ得たということは、現場末端だけでなく上層部も含めて、この種の行為は人倫にもとるものという認識が共有されていたことを示す。「生体」をモノ扱いし、この種の行為が正当化された内にあっても、やはり人としての罪悪感までは否定されなかったのである。底知れぬ闇のなかに、一種の安堵感を感じさせる。

(65)『鱒澤資料』368頁。
(66)『鱒澤資料』26頁。
(67)『鱒澤資料』30頁。

補遺:N軍医中尉の書簡
以下では、冬季研究について記した、ある軍医の書簡を紹介したい。第二十六師団付のN軍医中尉は、『鱒澤資料』で野外における第一線創傷処置の実験担当者として記されている。被験者に対する執刀者であり、事後の処刑も直接担当したと思われる。文中にあるように「研究成績」、すなわち『鱒澤資料』をまとめた一員でもある。彼は、終戦を内地で迎えており、無事に復員している。戦後、病院長を勤め、地域医療に貢献した。すでに故人である。

N軍医は生前に八冊に及ぶ私家本を出版している。

N軍医は生前に八冊に及ぶ私家本を出版している。

N軍医は、戦時中の手紙をまとめた書簡集を1980年に自費出版しているが、収録されている手紙のなかに冬季研究に関する記述と写真が含まれている。手紙は昭和16年(1941年)1月から4月にかけてN軍医の新婚妻に送られたものだ。核心部分についての記述はなく、文面も人体実験という生々しい仕事が存在することを感じさせない。しかし、日付や行程、一部触れられている実験内容や帰途における車輌故障等は、すべて『鱒澤資料』に記された内容と一致している。以下、下線部を引いた箇所が『鱒澤資料』と符合する部分である。

昭和16年1月9日付
「……今日突然受けた通達によると、近々ある研究のために小生が昨年六月に行った北東方面(オボ祭りの話をしたでしょう)へまた出掛けられることになりました。二月十一日まで約一週間の予定です。久し振りで、また蒙古語に親しむことになりましょう。寒いとはいえ、なかなか興味深い仕事です。出発までにまだ一、二回は当地で手紙を書くことにして、その次は張家口あたりから出します。珍しい写真もとってきましょう。……」
*「オボ祭りの話」とは前年の夏に西蘇尼特で見た祭のこと

昭和16年1月27日付
「十六日付のお手紙を一昨夜落手しました。有難う。いよいよ明日当地を出発して、大同、張家口経由で目的地へ向かいます。紀元節の夕方に再び張家口に帰ってくる予定です。お土産話をたくさん持って来ましょう。待っていて下さい。……」

昭和16年2月14日付
「今夜は眠いので、少々乱暴な手紙になるかもしれません。悪しからず。午後五時に原隊へ帰って来たところです。二週間半に亘る、しかも内容がなかなか充実した出張で、毎日かなり忙しく過ごしました。……二月二日張家口を出発して北に向い、徳化というところで一泊しました。丁度貴女が便りをしたためておられた夜です。翌日目的地に着いて、それから六晩、草原で天幕生活をしました。冬季の天幕生活には真中に暖炉が付いております。しかしいくら火を焚いても、どうでもよい天井に、最もあつい空気が溜って、肝心の下層の気温が上がらないので、夜は防寒衣服や靴、帽子まで着けたままで寝ます。白金懐炉を身につけていても、午前四時頃になるときまって目が醒めます。どこが寒いというよりも身体全体がシンシンと冷えるのですね。朝は枕元の水筒や薬品はすっかり凍りついている始末ですから、寒さの体験にはまことに好都合といえます。それでも予期したほどの寒い日が少なくて、十分研究できないこともありました。駱駝に担架をくくり付けたり、羊に橇担架を引かせてた日はなかなか愉快な一時でした。……九日に帰途につきましたところ、生憎と前夜の雪で自動車が難行して故障が続出。徳化の六、七十粁手前の山中でついに立往生しました。日は暮れて頗る寒いなかを、坂道を人力で押し上げたりして大分難行軍の末に、夜中の二時頃、やっと徳化に着くことができました。……今度の出張で撮った写真はそのうちに現像してお目にかけます。……明日から今回の出張時に行った諸研究の整理にかかりますので、かなり忙しくなります。……」

昭和16年2月24日付
「……先日出張した時の写真は、暇がなくてまだ現像しておりません。いづれそのうちに駱駝上の勇姿などをご覧に入れましょう。……実は今日内命をいただき三月一日付で大尉に進級することになりました。……」

昭和16年3月4日付
「もう十二時を二十分ばかり過ぎております。只今例の研究成績の報告書を書き上げて一息ついたところです。やる方はあまり苦になりませんのに、書く方は頗るの苦手で随分長くかかってしまいました。これで一息と思っていたら、またつぎの仕事が現れました。……」

昭和16年4月1日付
15
「……同封の写真は、先日の西ソニット行の折に徳化でとってもらったものです。左翼から三人目が私です。……」

昭和16年4月16日付
16
「……何度もお送りすると予告してきましたお待たせの写真は、昨夜やっと焼き付けましたので、その一部を同封します。……駱駝と天幕と私の姿の入っている二枚は、二月の西ソニット行の時のものでこの天幕に六日間寝ました。それぞれ裏面に説明を書き入れてあります。……」

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000364.html