将帥

科挙出身の”軍師将軍”趙戴文

趙戴文は、科挙出身の文官でありながら、軍の統帥にも能力を発揮した人物だ。自他共に認める「股肱の臣」として閻錫山を軍師の立場から支えたが、晩年は中共シンパとなり、閻の信頼を失って、病没するまで軟禁状態に置かれた。

趙戴文(字は字隴)は、1867年(咸豐17年、慶應3年)、山西省五台県東治鎮の農家に生まれた。幼少より秀才の誉れ高く、太原晋陽書院に学んだのち、二十七歳の時に成績トップで科挙に合格。文官としての人生を歩み始めた。

趙は文官としてのキャリアを文教畑で積んでいく。1900年(光緒26年、明治33年)には、寧武学院、次いで山西大学堂に招聘されて教壇に立っている。そして清朝の官費留学生として日本に留学すると、東京の宏文学院を経て、東京高等師範学校に学んだ。太原帰郷後は、農村学堂教員、晋陽中学寄宿舎長を務めた。趙の人生を文教官僚から軍師へと転換させるきっかけは、日本留学時に中国同盟会に入会して、閻と知り合ったことにある。

趙は留学初年に同盟会に入会、そのとき16歳年下で同郷の閻と知り合った。1907年(光緒33年、明治40年)に日本から帰国したとき、趙は閻とともに上海経由で祖国の地を踏んだが、孫文の命で爆薬を懐に秘めての帰郷だったという。そして帰郷後は文教官僚として禄を食む傍ら、同盟会山西支部で「晋陽公報」を発刊するなど革命工作に従事した。この頃に、自らを「股肱の臣」として生涯を共に送る相手である閻との親密な関係ができあがったとされる。

1911年(宣統3年、明治44年)、閻と共に太原で義挙に成功。これを機に、趙は軍師としての後半生を歩み始める。山西軍政府東路軍総司令部参謀長に就任し、娘子関戦役に参加。利あらずして戦いに破れると、閻とともに包頭へ逃れた。その後、南北和議が成立して袁世凱の命により閻が山西都督に任ぜられると、都督府秘書長、山西督軍署参謀長、将校研究所長などの職に就いて閻を補佐する。以降、閻の補佐役として、軍政両権にわたって山西ナンバー2の地位を保持し続けた。1916年(民国5年、大正5年)には袁政府より「勛五位茂威将軍」の位を受けている。

1928年(民国17年、昭和3年)、閻錫山が国民政府への服従を明確にし、北伐に協力して勢力範囲が察哈爾にまで拡大すると、趙は察哈爾省都統に就任。閻とともに同地方に影響力を保持した。翌年、蒋介石への「人質」と噂されるなか、国府の民政部長に就任。1930年(民国19年、昭和5年)に勃発した反蒋戦争(中原大戦)では、閻と蒋との交渉を取り持った。山西に帰任後、1932年(民国21年、昭和7年)に閻が綏靖公署主任として復権すると、閻の政策を強力に推進した。のち蒙古地方自治政務委員会副指導長官、山西省省長に就任している。

日中開戦前後は、閻の対日宥和に強く反対し、徹底した抗日を主張したとされる。また、山西新軍や犠盟会に深く浸透した中共の脅威を危惧する閻に対して、これに強く反対したという。いつ頃から中共シンパとなったかは分からないが、彼の息子である趙宗復が1933年と極めて早い時期に中共に入党したとの話があるから、日中開戦の時点ですでに中共の指示の下に動いていたのかもしれない(ちなみに趙宗復は山西大学学長を務めていた文革中の1967年に投身自殺している)。

このような経緯から、その後、趙は閻の信頼を失い、山西新軍事件(晋西事件)が起きた1940年(民国29年、昭和15)、陝西省秋林の官舎で軟禁状態に置かれた。軟禁生活を送ること四年近く、1943年(民国32年、昭和18年)末に秋林で病没した。享年七十六歳。病床から閻に対し、「今後の情勢がいかに変化しようとも、けしてあなたは汪精衛と同じ道を歩んではなりません」との遺言を残したと伝えられる。晩年は仏教に帰依した。遺骸は、太原近郊の竇大夫祠内にある趙戴文公館に埋葬された。文革中は一時荒らされたものの、中共シンパゆえ、今も同地で手厚く葬られている。

「太原義挙名人伝略―趙戴文」(太原市政協文史資料研究委員会編『太原文史資料』第十六輯118-122頁所収)1991年
李茂盛ほか『閻錫山全伝』(上・下)当代中国出版社,1997年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000028.html