山西新軍

「百団大戦」の政治背景

1940年(昭和15年)8月、山西省を中心とした広い範囲で、鉄道や道路、炭坑などの経済施設に対する大規模同時多発テロが発生した。通信線と補給線が切断され、孤立した警備隊と共産軍との間で戦闘が発生した。中国共産党が誇る「百団大戦」だ。

百団大戦は、攻勢に参加した中共軍が100個団(日本の連隊に相当)に上るとしていることから中共が呼称しているものだが、実態はあくまでもインフラに対するテロが主体だった。広範囲で激しい戦闘が発生したが、会戦と呼べる戦闘はなく、ゲリラ戦の範疇を越えるものではなかった。それでも9月下旬からの第二次攻勢では、保塁に篭もる日本軍一個中隊へ包囲攻撃を行っており、日華事変における中共のスタンスとしては異色の積極的なものだった。ただ、中共にとっては負け戦だった。

百団大戦は、8月20日からの中共軍の一斉攻勢からはじまり、日本軍の討伐が終了した12月初旬までのおよそ三ヶ月間にわたって行われた。それらは中共軍の第一次攻勢(8月20日~9月上旬)とそれに対する日本軍の第一次反撃(9月1日~9月18日)、中共軍の第二次攻勢(9月22日~10月上旬)と日本軍の第二次反撃(9月23日~12月4日)とに分けられる。

附近の住民を動員して石太線を破壊する中共軍。

附近の住民を動員して石太線を破壊する中共軍。

第一次攻勢では、石太線、同蒲線、東路線、京漢線西部と井徑炭坑が攻撃を受け、うち石太線と北部同蒲線、井徑炭坑(新鉱)が深刻な被害を蒙った。独混第四旅団管内の陽泉西方地区は特に激しい攻撃を受け、石太線沿線の小拠点(数名~分隊規模)の多くは全滅、旅団司令部のある陽泉市内でも市街戦が発生した。陽泉の在留邦人の中には諦めて晴着をつける者さえいたという。鉄道施設への放火、橋梁・トンネルの爆破破壊、レール切断・持ち去りなどにより、石太線と同蒲線は復旧に約一ヶ月を要す被害を受けた。井徑新鉱では炭坑設備が完全に破壊され、復旧には半年を要す被害を受けた。

第一次反撃作戦(第一期晋中作戦)における独立混成第四旅団の隊列。

第一次反撃作戦(第一期晋中作戦)における独立混成第四旅団の隊列。

奇襲を受けた日本軍はただちに反撃に移り、山西省の第一軍では8月末から作戦を実施、石太線南方で中共軍の捕捉撃滅を図った。日本軍の反撃に中共軍は一時分散退避したが、反撃作戦が終了してすぐの9月22日から、今度は山西省北部と東南部、察南の駐蒙軍管内に再度攻勢を行った。

第一次攻勢がインフラへの攻撃を主としたのに対し、第二次攻勢では日本軍への直接攻撃を主とした。特に駐蒙軍の独混第二旅団管内では、保塁に篭もる一個中隊が二カ所で玉砕する激しい戦闘があったほか、第一軍の独混第四旅団管内でも出動した一個中隊が伏撃を受けて全滅する例も生じた。しかし中共軍にも大きな損害が生じた。日本軍はあらかじめ自軍陣地において弾着測定を完了しており、重火器を持たずに人海戦術で攻撃を行った中共軍は、保塁に達する前に多くの将兵が砲弾や擲弾に倒れた。

駐蒙軍独立混成第二旅団の東団堡守備隊は、中共軍の包囲攻撃を受け、中隊長以下玉砕した。写真は現場の白壁に残された玉砕部隊将兵の遺書。

駐蒙軍独立混成第二旅団の東団堡守備隊は、中共軍の包囲攻撃を受け、中隊長以下玉砕した。写真は現場の白壁に残された玉砕部隊将兵の遺書。

中共の公式発表では、8月から12月までの間に攻勢に参加した兵力は40万人、うち戦死傷は22000人に及んだ。戦果は日本軍の戦死傷2万余人などとしているが誇張されている。現存史料で戦死傷者数が明確な部隊がいくつかあり、それらから勘案すると、日本軍の戦死者は1000人前後、負傷者はその数倍で、戦死傷4000人程度とする秦氏の論が適当と思われる(秦郁彦『日中戦争史』)。戦いとしては中共軍の負け戦だった。それでも日本軍に与えたショックは大きく、百団大戦以降、北支那方面軍は中共軍を主敵として認識を改め、中共対策に本腰を入れるようになった。政戦謀略を駆使して積極的な制圧に乗り出した結果、1941年(昭和16年)~1942年(昭和17年)は治安が劇的に向上した。中共の発表では、二年間で兵力が十数万人、支配地域が半分近くも減少したと認めている。

百団大戦は、中共にとって負担が大きかっただけでなく、危機感を抱いた日本軍の積極的な攻勢によって勢力が激減させられるきっかけともなった。戦いを主導したのが失脚した彭徳懐だったこともあり、百団大戦への政治的評価は時代によって大きく揺れ動いてきた。ただ評価問題は百団大戦が起きた背景を説明してくれるものではない。

もともと中共は国府との協調を建前に、国府を日本と戦わせている間に勢力を伸ばして大陸の覇権を握るという姿勢をとっていた。百団大戦は日華事変で中共がとった唯一の積極姿勢であり、支配地域や兵力が回復して百団大戦の痛手から立ち直ったあとも、終戦まで軍事面での積極策をとることはなかった。ようするに百団大戦は特異事例なのだ。中共研究者たちは毛澤東らが正規戦に反対であり、彭徳懐が参加兵力を22個団と過少に申告して作戦発動に持ち込んだと見ているが、その正否はともかく、背景に中共内部におけるパワーバランスの乱れがあったことを軽視している。

中共は日華事変前年の1936年(昭和11年)に犠牲救国同盟会で閻錫山と提携しており、日本軍の進攻で閻軍が駆逐されると、共同軍への赤化工作とともに根拠地建設と民兵の組織を積極的に進めていった。百団大戦の原動力は、赤化工作の拡大によって多数入党してきた旧国府系軍人をはじめとする抗日思想の強い人たち、毛澤東の表現では「右翼分子」たちだ。1940年(昭和15年)は南京に汪政権が誕生し、重慶政権内では対日戦への動揺が生じており、山西省では閻錫山が日本軍と提携しようとしていた。このような政治状況下で、同年1月の晋西事件(山西新軍事件)で中共に流入してきた閻政権からの離脱者たちが党内の空気を変えたと思われる。軍事面で消極的な中共幹部に対して、憂国の念から大規模攻勢をかけるべきであると主張し、それに彭徳懐ら軍幹部が同調したのだろう。大軍を率いて敵軍に攻勢をかけることは軍人にとっての夢だ。そして、それまで保塁攻撃すら実施したことがなかった中共軍にとって、攻勢は正規戦の基本的教訓を得ることが期待できた。当時中共には正規の三個師団(115D,120D,129D)以外にも遊撃旅団を多数擁しており、組織力の点でも夢の実現は不可能ではなかった。

こうして実行に移された百団大戦は、攻勢前の事前準備で完全な秘匿を行ったおかげでテロに成功した。日本側にとっては痛い不意打ちを喰らった形となった。そして緒戦の成功に気をよくした毛澤東ら幹部連も第二次攻勢にゴーサインを出したと思われる。中共軍は日本軍に正規戦で挑んだ。しかしその代償は大きかった。百団大戦は、中共にとって負け戦で、戦略的にも失敗だったが、皮肉にも今日では平型関とセットで中国が”抗日”を誇る際の唯一の拠り所となっている。

百団大戦とその後の日本軍の攻勢で疲弊した中共では、整風運動を利用して毛澤東が絶対的権威を確立した。党や祖国が危機に瀕しているとき、もしくは危機を招来して権力を奪取する手法は、長征以降、戦後も続く毛澤東の常套手段だ。1944年(昭和19年)4月、党内を完全に掌握した毛澤東は延安における会議で、百団大戦は一部の党員による誤った冒険主義的政策であったと総括している。百団大戦の原動力となった旧国府・山西軍出身党員の多くが粛正されたと見て良い。

防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書18 北支の治安戦<1>』朝雲新聞社,1968年
宍戸寛「百団大戦の評価問題」(『中国研究月報』423号,1983年)

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000139.html