平型関

誇張された「平型関大捷」

中共が抗日戦争を語るときに必ず挙げるのが平型関における戦いだ。平型関では日中両軍が激戦を繰り広げたが、日本軍と戦ったのは国民政府軍(山西軍)であって、中共が参戦したのは一局面に過ぎない。しかも「抗戦初の勝利」と中共が自画自賛する戦いは、非武装に近い補給部隊を襲撃して物資を奪ったのが実情で、戦局に資するところもなかった。

嶮しい山岳地帯の峡間を進軍する板垣兵団の隊列(1937年,朝日新聞社)

嶮しい山岳地帯の峡間を進軍する板垣兵団の隊列(1937年,朝日新聞社)

平津地方を制圧し、中国軍の堅陣を突破して外長城線を越えた日本軍第五師団(兵団長は板垣征四郎中将、以下、板垣兵団)は、9月11日、河北省の蔚県を攻略して山西省に侵攻した。北支那方面軍の命令により、一個旅団を河北方面に転進させた板垣兵団は、残る一個旅団(旅団長は三浦少将、歩兵第二十一及び同四十二連隊が基幹、以下、三浦支隊)で、平型関の攻略を行うこととなった。

平型関は、山西省を守る第二戦区司令長官の閻錫山が、三線にわたる防衛線として計画した第一線目であり、峻険な地形を利用した強固な防衛陣地が内長城線に沿って構築されていた。そこに計五個師五万の兵力が配置された。中国側の正面戦場の布陣は、中央に第十五軍(劉茂恩)、右翼に第十七軍(高桂滋)、左翼に第三十三軍(孫楚)であった。これに対して三浦支隊は、歩兵第四十二連隊を後方に置いて、歩兵第二十一連隊を渾源から策応させるほかは、三個大隊に過ぎない支隊主力をもって霊丘から平型関正面への攻撃を行うことに決した。9月22日、支隊主力は平型関の正面に進出して攻撃を開始、以後七日間にわたって彼我の間で激戦が繰り広げられた。

戦況は容易に進展せず、戦線は膠着状態に陥った。9月25日、三浦支隊はようやく正面の一部を占領することが出来たが、敵の絶え間ない攻撃に損害が続出、後方も遮断され、弾薬残数が僅かとなり危機に陥った。支隊主力を救援すべく、歩兵第二十一連隊は戦線を離脱して南下、歩兵第四十二連隊も広霊を出発して救援に向かった。三日後の28日にようやく後方が確保され、翌29日、三浦支隊は全隊をあげて白昼総攻撃を決行したが失敗に終わった。このとき、板垣兵団救援のために南下した関東軍察哈爾派遣兵団(いわゆる東条兵団)が、平型関の後背に延びる内長城線を攻撃、うち歩兵第一連隊を基幹とする十川支隊は、北を守る第三十四軍(楊愛源)の防衛線を突破して、平型関守備軍の側背を脅かすに至った。30日、ようやく平型関正面の中国軍は撤退し、三浦支隊は内長城線を越えて大営鎮を占領、平型関を突破できた。この一週間の戦闘で日本軍は1500名以上の戦死傷者を出し、中国軍も数千人にのぼる戦死傷者を出した。

*  *  *

この平型関戦には中共軍も参加している。林彪率いる第百十五師だ。ただ、正面での戦闘には参戦していない。中共は平型関戦に先立つ9月21日に、前線司令部のある代県嶺口において、戦区司令官の閻錫山と中共軍の参戦について協議している。このとき閻錫山は、第百十五師の正面戦場への投入を打診したが、中共はこれを拒絶し、後方における独立行動を確約している。実は、中共はすでに8月22日から25日にかけて開催された洛川会議において、抗日を呼びかける「抗日救国十大綱領」を発表する一方で、中共軍の正面戦場への参戦を否定し、根拠地建設を最優先することを決定していたからである。「七分発展、三分抵抗」である。このような国家の危急に際して自らの勢力拡大を優先する方針は、「遊撃戦」という都合の良い言葉でオブラートに包まれた。閻錫山は妥協し、第百十五師は日本軍の後背を攻撃するため、平型関から出撃した。

9月25日、第百十五師は、平型関の北東約5キロの位置にある関溝村―小塞村に出没、日本軍の自動車隊と輜重隊を襲撃した。これが平型関における中共軍の唯一の参戦である。9月25日に三浦支隊主力の後方連絡線が遮断された原因がこれである。攻撃を受けたのは、負傷者の後送と補給品受領のために霊丘へ帰還途中の第六兵站自動車隊と、冬服や食糧・弾薬の輸送に従事していた歩兵第二十一連隊の行李隊で、ほぼ同じ時刻に数キロ離れた同じような隘路において襲撃を受けたのだった。歩兵第二十一連隊の戦友会誌『浜田聯隊史』は、被害現場に遭遇した将兵の回想を次のように掲載している。

再び前進を続けるうち、意外な光景にぶつかって一瞬足のすくむ思いがした…一〇〇台余りの自動車が無惨にも焼却され約二〇メートル間隔に残骸が転がっており、戦死体も新庄中佐を初め道路上にあるもの、あるいは運転台に焼けただれて横たわっているもの等無数にあり、まったく目を覆う惨状である。……焼けただれた自動車を一台一台片側に寄せ、戦死体の後片づけを終わるのに三時間もかかったろうか、やっとどうにか通行出来るようになり前進を始め峠にかかった。峠の上からふと谷間を見下すとまたまた輜重車輌隊の全滅か。輜重車人馬共に死体となり累々として道路を埋めているではないか。これこそ栗飯原部隊[歩兵第二十一連隊]の大行李及び山口、中島両大隊の大行李、小行李隊の地獄絵図さながらの悲惨な全滅の様相であった。
(歩二一会編『浜田聯隊史』1973年,105頁)

第六兵站自動車隊の編成を担当した第十四師団輜重隊の戦友会誌『宇都宮輜重史』によれば、自動車隊は二個中隊が攻撃を受け、隊長の新庄中佐以下戦死41名、負傷・生死不明約50名の損害を受けたという(165頁)。防衛研究所が保管する史料には、10月1日付で北支那方面軍が第六兵站自動車隊の欠員100名の補充を陸軍省に要請しており(方軍参三第一五八号電)、損害の数がおおよそ一致している。また、輜重行李隊については、『浜田聯隊史』によると、護衛小隊を含めて約110名のうち生還した者はたった5名に過ぎず、ほぼ全滅だったという(105-106頁)。行李隊に同行していた師団情報参謀の橋本中佐も戦死した。襲撃の一報は、退却した自動車隊の一部によって三浦支隊にもたらされたようだ。『山口歩兵第四十二連隊史』によれば、救援のため現場に急派された一個小隊も殲滅された(193頁)というから、合わせて約250名ほどの日本兵が殲滅されたことになる。行李隊の生還者による襲撃時の様子は以下の通りである。

二十五日はむし暑い日であった。護衛小隊が先行して行李が続き、汗だくだくで前進を続けた。
午前十時頃、道幅はやっとトラックが通れるくらい、両側は高さ一〇メートルくらい切り立った崖で、堀割状に続いている所へ入り込んだ。
長さ三〇〇メートルくらいの掘割に行李隊全部が入りこんだ途端、隊の前方と後方にいきなり頭上から手榴弾が投げ込まれた。まったくの不意討ちである。
三浦支隊が先行したことに安心し切って進んでいたので、びっくりすると同時に隊はすっかり混乱してしまった。まず前後の車と馬がやられ、中にはさまれた車輌は動きがとれない。そのうえ特務兵は銃も手榴弾もない。丁度折よく三浦支隊連絡のため乗用車できあわせていた師団の橋本参謀は高橋小隊[護衛小隊]を二つに分けて両側の上に登らせ、一方は橋本参謀、一方は高橋少尉が指揮して防戦に努めたが、敵は衆をたのんで、手榴弾を投擲して次から次へと攻撃してくる。多勢に無勢で力及ばず、小隊は全滅して一発の銃声もしなくなった。谷間は前後方とも敵に包囲され、人馬ともほとんど戦死という悲惨な状態で、午後三時頃には敵に向かう者は一人もなく、敵は凱歌をあげて、谷間の将校行李、衣服、食糧等を掠奪して行った。また夕方までに敵は何回もやってきては、戦死者の腕時計、その他目ぼしい貴重品はほとんど掠奪して行った。負傷した者で辛うじて生き残っていた者、戦死体の下に横たわっていて助かった者は僅か数名に過ぎず、ほとんど戦死という悲惨な状況であった。
(歩二一会編『浜田聯隊史』1973年,105-106頁)

『浜田聯隊史』の四年前に刊行された『広島師団史』には同様の回想談が掲載されており、同一人物による回想であることは明らかだ。ただ、『広島師団史』では、「阿鼻叫喚の断末魔の姿」「(中共軍兵士が日本兵の)遺体をあるいは射ち、あるいは刺して歩いた」などと記され、凄惨な雰囲気を伝えている。『浜田聯隊史』にそのような記述がないのは、戦死者の遺族に配慮したからか。

この戦闘について、中共は翌26日、南京政府や中央日報社宛に次のような戦勝報告を行ったという。

九月二五日、わが八路軍は晋北平型関で敵一万人余りと激戦を展開、何度も勇敢に突撃し、侵攻してきた敵をすべて撃滅し、平型関以北および辛荘、関沙、東跑池一帯などすべての陣地を奪取した。撃ち殺された敵兵の死体がいたる所に散らばり、敵兵の一部は捕虜となった。さらに鹵獲した自動車、戦車、銃砲や他の軍用品はすこぶる多く、目下整理中である。現在、残敵は小婁村まで敗走し、わが軍によって四方を包囲されている。八路軍参謀処 九月二六日
(謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』草思社,2006年,84頁)

下線を引いた部分が事実と異なる。すでに見たように、一万人の正規軍への攻撃ではなく、非武装に近い補給部隊への襲撃であり、戦果も著しく誇張されている。自動車は日本軍が自ら敵手に渡るのを防ぐために火を放ったので、鹵獲された車輌はなかった。もちろん戦車もなく、捕虜も一名もいなかった。ところが、この嘘に気づく者は当時いなかった。この報は「抗戦初の勝利」として瞬く間に全国に報じられ、中国民衆の多くが中共軍の活躍に溜飲を下げた。蒋介石すら中共に対して祝電を打っている。

『中国抗日戦争史録』に掲載されている機関銃を射撃する八路軍兵士の写真。いわゆる"平型関大捷"の写真として有名だが、崖下には家屋や田畑と思われる風景が広がっており疑わしい。白昼でしかも完全に現場を制圧できた戦闘だったにもかかわらず現場写真が公表されたことはなく、写真班が作戦に従軍していたとは考えづらい。ゆえにこの写真は平型関で撮影されたものではなく、崖下に向かって射撃する姿勢が雰囲気に合致しているために選ばれたイメージ写真だろう。

『中国抗日戦争史録』に掲載されている機関銃を射撃する八路軍兵士の写真。いわゆる”平型関大捷”の写真として有名だが、崖下には家屋や田畑と思われる風景が広がっており疑わしい。白昼でしかも完全に現場を制圧できた戦闘だったにもかかわらず現場写真が公表されたことはなく、写真班が作戦に従軍していたとは考えづらい。ゆえにこの写真は平型関で撮影されたものではなく、崖下に向かって射撃する姿勢が雰囲気に合致しているために選ばれたイメージ写真だろう。

当時の戦勝報告は、あまりにも嘘が多かったからか、その後の公式見解では若干トーンダウンしている。しかし、七十年を経た現在でも、誇張された戦果を誇示し続けていることに変わりはない。現在は、「日本軍兵士一千人余りを殲滅」と主張しているが、真実はすでに見たように、合わせて約250名ほどが殲滅されたに過ぎない。もっとも、1970年代までは「日本軍兵士三千人殲滅」としていた。戦利品についても同様に誇張されている。武装は護衛と救援の二個小隊と、自動車隊で特務兵二人につき一丁の割合で支給されていた騎銃ぐらいだから「小銃一千余丁」はあり得ない。

この点で興味深いのが、1942年(昭和17年)12月18日に太行区で開催された幹部会議における中共軍副司令官の彭徳懐の発言である。

平型関の戦闘は完全な伏撃戦であり、敵は事前に全く予期していなかった。ところが、結果的に我々は一人の日本兵も生捕りにすることはできず、破損のない小銃を百挺ほど鹵獲しただけであり、敵兵は武器を破壊し、傷兵は自決した。
(出典:彭徳懐「関於華北根拠地工作的報告」『共匪禍國史料彙編 第三冊』中華民國開國五十年文獻編纂委員會,1971年,350頁)

この叙述がある原史料は、中共中央華中局宣伝部が1943年(昭和18年)8月20日に出版した党内秘密刊行物『真理』第十四期であるという。資料集の発行が台湾政府によるものであることから、真偽の点で要検討とする研究者もあるが、報告全体の内容からしてねつ造の可能性は低い。鹵獲した小銃が百挺だったというこの彭徳懐の発言は、関溝村―小塞村における戦闘の実態、すなわち、取るに足らない戦果を”板垣兵団を撃破した”と誇張した事実を裏付けるものと言える。

*  *  *

とはいえ、三浦支隊の後方を遮断し、補給部隊を殲滅したことは間違いなく、たとえ戦果を誇張しているとしても、実際にどの程度の影響を戦局に与えたか評価せずして批判するのはフェアではないだろう。では、関溝村―小塞村での戦闘は、戦局にいかほどの影響を与えたのであろうか。

三浦支隊では、25日に後方遭難の報を受け、すぐに一個大隊(平岩大隊)を救援に向かわせているが、この救援隊は敵軍の妨害で救援にたどり着けなかったという。前述のように、『山口歩兵第四十二連隊史』も、平岩大隊の一個小隊が殲滅されたとしている。中共は、この救援隊の阻止も自らの戦功としているが、防衛大学教授の河野氏は、当時、この地には山西軍も多数出没しており、実際に中共軍が真面目に戦ったかどうかは怪しい、戦利品の搬出に全力を挙げていたのではないかと、疑義を呈している(河野論文)。この点、『宇都宮輜重史』では、当時の戦闘詳報を元に「当面の敵は殆ど20才以下の少年兵で勇敢」「戦法は蘇軍戦法に類似」「歩兵1Bnを以てしてもこの掃蕩に2日も要した」(164-165頁)としているが詳細は不明である。中共軍も真面目に戦った可能性はないわけではないが、歩兵第四十二連隊の先遣隊が26日の夜には霊丘から小塞村―関溝村を通って三浦支隊に連絡しているから、中共軍は翌日には現場から退却していたのは間違いない。同連隊は、附近に溢出した山西軍を撃破して、28日には支隊と板垣兵団の連絡線を回復した。

三浦支隊が苦戦したのは後方遮断ではなく、正面に陣取った山西軍の頑強な抵抗だった。四日間にわたって後方が遮断されていた間に、三浦支隊では戦死傷者が続出しており、食糧、弾薬ともに尽きかけていた。当時、隊付軍医として従軍していた豊田少尉は、すでに山砲弾も歩兵砲弾も一発もなく、28日中に増援が到着しなければ支隊全滅は免れぬ危機的状況にあったと回想する(『浜田連隊史』112頁)。ゆえに、後方遮断がより強力に行われていれば、三浦支隊を殲滅することが可能だった。28日の時点で、すでに北方陣地は関東軍の攻撃を受けており、平型関正面の脅威を払拭しても、中国軍の後背が脅かされたことに違いはないと思われるが、少なくとも山西攻略に固執する板垣兵団の企図を封じることは可能だったわけで、その点で戦局の転換点になった可能性はある。

ただ、もし中共軍が山西軍と協力して三浦支隊の後方遮断に全力を尽くしたなら、その損害は甚大なものになったことは間違いない。関溝村―小塞村において、中共軍は公式発表で600名に上る戦死傷者を出したとしている(以前は1000名の損害としていた)。非武装に近い補給部隊を相手に隘路の両岸という有利な地歩を占めていたにもかかわらず、敵を上回る大きな損害を蒙った。師団単位での作戦行動を取れる体制にあったものの、実際の戦力としては、正規軍の攻撃に耐え得る状態にはなかったのではないか。その点では、中共軍が平型関において単なる”物盗り”に終始したのは、自己をわきまえた賢明な処置であったと言える。

歩二一会編『浜田聯隊史』歩二一会,1973年
山口歩兵第四十二連隊史編纂委員会編『山口歩兵第四十二連隊史』1988年
沢田久一編『宇都宮輜重史』1973年
陸上自衛隊第13師団広島師団史研究委員会編『広島師団史』陸上自衛隊海田市駐とん部隊修親会,1969年
謝幼田『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』草思社,2006年
八路軍総政治部宣伝部編『抗日戦争時期的中国人民解放軍』人民出版社,1953年
河野収「毛沢東戦略思想における勝利観の一考察―平型関の戦闘」1977年(『軍事史学』第13巻1号所収)

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000362.html