捕虜

太原の捕虜収容所「工程隊」

国家間の戦争において、戦地において捕縛された敵兵は、戦時国際法に基づく「戦争捕虜」として処遇される。捕虜を獲得した国は、捕虜を捕縛部隊より後送し、自国が設置した捕虜収容所に収容して必要な監督並びに援助を提供するとともに、当該捕虜が収容されている事実を、相手国に通知する義務を負う。ところが日華事変においては、日中両軍の捕虜は上述の「戦争捕虜」としては処遇されなかった。両国ともに戦時国際法の適用を嫌い、「戦争」と認めなかったからだ。それゆえ、日中両軍ともに、捕虜の処刑や思想強制などの不法行為が発生している。

中国戦線における日本軍の中国軍捕虜の取り扱いについては、とかくその不当が強調されるが、無統制に不法行為が横行していたわけではない。日本軍には、戦時国際法に準拠した捕虜関連法規として「俘虜取扱規則」「俘虜取扱細則」などが整備されており、日華事変はこれら法規の対象外ではあったが、現地においてこれら戦時法規に準じた必要な規制が施行され、代替施設を設置し、捕虜を「帰順者」として取り扱った。

北支那方面軍では、華北における中国軍捕虜の取り扱いの指針として「俘虜取扱ニ関スル規程」を、事変初期の1937年(昭和12年)9月10日と太平洋戦争前の1941年(昭和16年)11月20日の二回、定めている。事変初期の一回目の規程については、史料の本文がないためにつまびらかではないが、「一般ニハ帰郷セシメ安居楽業ニ就カシメタル方針」(1942年の手島報告)といった内容であったと思われる。具体的な運用では、臨時に収容所を設置して捕虜を収容し、一定期間、労役に服した後、釈放(帰郷)または職業斡旋(労工派遣)を行っている。1939年(昭和14年)10月に山西省を所管する第一軍が中央に提出した報告書では、太原市に設置された捕虜収容所「太原工程隊」について、以下のような報告がなされている。

各部隊ヨリ送致セル帰順兵及俘虜等 一度太原工程隊指導部ニ収容セラルルヤ皇軍ノ真意ヲ理解シ 本心ニ立返リ 嬉々トシテ労役ニ服シ 未ダ一名ノ逃亡者モナク其成績極メテ良好ナリイ 本月中ノ隊員活動状況寧武木廠 二〇〇名 森林伐採ニ従事シアリ隊外労役延人員 九二二名(太原市公署道路補修作業或ハ各部隊ノ雑役ニ服ス)
隊内労役 残員(農耕作業或ハ冬営準備工築作業ニ従事)
再転属 一六一名(第一野戦輸送隊ヘ転属セシメタル者ノ内一六一名ハ補給道路作業終了シタルヲ以テ寧武木廠ニ再転属シ森林伐採ニ従事セシム)

ロ 釈放
収容人員中 強制徴発ニヨリ中国兵ニナリタルモノ及活動能力乏シキ年少者合計三十五名ハ 二回ニ亘リ旅費ヲ支給シ 帰農セシメタルニ 何レモ新政権下ノ良民タランコトヲ誓約シ 感激裏ニ離隊セリ

ハ 隊員ノ移動
区 分/前月末/除隊者/入隊者/現在員
【将 校】 二七/ 一三/ 一/ 一五
【下士官】 三八/ 二五/ 一/ 一四
【 兵 】二五〇/二〇四/三〇/ 七六
【 計 】三一五/二四二/三二/一〇五

(出典:第一軍特務部「戦時月報(九月)」1938年)

工程隊は、山西省を所管する第一軍が管理する捕虜収容所で、太原城内の小東門附近に設置されていた。このような施設は、華北では太原の他に保定(後に石門へ移転)、済南、塘沽などに設置されたとされる。この太原の捕虜収容所が「工程隊」と呼ばれたように、華北におけるこれら施設はいずれも労働訓練所という位置づけがなされている。相手国(国民政府または中共)に対して送還せず、「帰郷セシメ安居楽業ニ就カシメタル方針」ゆえである。

太原の捕虜収容所の捕虜たち

太原の捕虜収容所の捕虜たち

中原会戦の中国軍捕虜

中原会戦の中国軍捕虜

報告書にある最後の人員表からは、収容人数がかなり少ないことが伺える。そして、収容と釈放がかなりのサイクルで行われていたことが伺える。この点、収容能力については、太原も含めて華北における捕虜収容所では、おおよそ1500名程度の収容能力を有していたようである。そして収容期間だが、太原の捕虜の回想や、運用の記録が残っている他の収容所などから、その期間は一ヶ月間ないし三ヶ月程度だった。短期の収容で釈放を行っていたわけで、延べ人数としては各収容所で年間一万人以上と相当の数に上ったと考えられる。

「捕虜」と「労工」というキーワードは、戦時中の人権侵害として指弾される、いわゆる「強制連行」を想起させる。実際に元捕虜が満州や内地の炭坑などへ「特種工人」や「華人労務者」として送られており、その数は内地については外務省の報告書からおよそ一万人とされている。渡日に限って言えば、建前としては釈放後の自由意志に基づく就職斡旋であり、「強制連行」と呼ぶべきではないが、内地における劣悪な待遇で重大な人権侵害が生じたことは事実である。そして、この問題では、罹病率や死亡率の高さから、渡日前の処遇が問題とされる。では、実際に、収容所における環境はどのようなものだったのか。太原の収容者の回想では、劣悪な待遇が以下のように強調されている。

後院は不潔で、常に伝染病が蔓延していたから、毎日数人の捕虜が亡くなっていた……伝染病を減らすため、一、二ヶ月に一回、重病人が釈放された……病気によって釈放される人はしょせんほんの一握りで、ほとんどの人は苦力として遠くへと送られていく……日本軍は、家畜用の餌で捕虜の生命を維持していた……このようなひどい待遇の上に過酷な労働が課せられた。そのため、捕虜は皆みるみるうちに痩せ細り、骨と皮だけになった。毎日、何人もが餓死、疲労死、病死し、彼らは小東門外の外堀に棄てられ、野犬や鳥の餌となった。外堀には白骨が累々とし、野犬が群れて大群となっていた。
(出典:劉侵霄「太原日本軍『工程隊』獄中闘争の回想」山西省文史研究館編『文史研究』(第一期)1986年所収)

生きて収容所を出るのに過酷な環境という印象を受けるが、功績調査を経た戦後の中共幹部の回想であり、実際にはかなり誇張されていると見て良い。山西省で宣撫官として活動した青江はその著書で工程隊について「ほとんどが山西軍や雑軍で、仕事らしい仕事もなく、毎日ごろごろしている」とし、挙げ句に収容者で演劇団を作ったという。のんびりとしたものだ。青江は左翼かぶれと批判されるように、日本軍に都合が悪いことも書くから、不当な待遇があったならばそのように書くはずだ。

給食については、時期は若干ずれるが、1941年(昭和16年)11月に定められた第二回目の「俘虜取扱ニ関スル規程」で、捕虜への現金給与こそないものの、穀類で一日2500kcal(キロカロリー)の支給が定められている。ただ定量支給ができたとは思えない。戦争も末期になると、山西省でも中国政府に勤める邦人職員が高梁などの雑穀の配給だけで栄養失調に悩まされたという回想がある。捕虜への給食水準も察しがつこう。

第一軍特務部「戦時月報(九月)」1938年
北支那方面軍司令部「北支那方面軍俘虜取扱ニ関スル規程」1941年
手島寛「上海、香港俘虜収容所視察報告」1942年
青江舜二郎『大日本軍宣撫官 ある青春の記録』芙蓉書房,1970年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000506.html