機動作戦

初陣で不評を浴びた国軍初の機械化部隊

日華事変の勃発で満州から華北に派遣された独立混成第一旅団(酒井旅団)は、機動戦で成功を収めた熱河作戦の戦例をもとに編成された国軍初の機械化部隊だった。戦車大隊二個に自動車化された歩兵連隊、野砲兵、工兵等で編成した車輌744両を装備する関東軍の虎の子部隊だった。日華事変では酒井鎬次旅団長の下に歩兵大隊二、戦車大隊一を基幹として華北に派遣された。酒井旅団は平津地方の作戦に従事したのち、8月に関東軍に復帰、察哈爾派遣兵団(東條兵団)に編入されてチャハル・山西作戦に参加することとなった。それまで満州の地で匪賊相手の戦例しかなかった日本戦車隊は中国戦線でいくつもの困難に直面したが、総じて「鉄牛奮戦」と賞賛されている。ところが山西の地では、賞賛どころか現地で悪評が噴出したという。戦車の用兵を誤ったからだ。

忻口を突破して太原に向かう第五師団の隊列。戦車の砲塔部分は検閲で砲を鉄扉に修正している。

忻口を突破して太原に向かう第五師団の隊列。戦車の砲塔部分は検閲で砲を鉄扉に修正している。

当初、平津地方に到着した旅団を、支那駐屯軍司令部は邦人襲撃が発生した通州の治安維持に向かわせている。機械化部隊だから「足が早い」という考えからだ。この短絡的な用兵に酒井将軍は抗議し、関東軍に復帰してチャハル・山西作戦に参加することになったが、東條兵団での用兵もひどかった。チャハル作戦で旅団の各隊は分散させられて各兵団の作戦に参加している。酒井旅団と上級司令部である東條兵団との間には旅団=戦車の用兵について争いが絶えなかったというが、むしろ一将軍から手駒をすべて奪って平気な東條の感覚が批判されるべきだろう。張北にある旅団司令部にはいっとき工兵一個小隊しか手元にないという状況もあったという。「張北バラバラ事件」と呼ばれるゆえんだ。一期先輩の東條に対して酒井が馬鹿よばわりするほどの感情の行き違いが生じたのも無理はない。

戦車の用兵についての最大の問題は、東條をはじめ、各派遣先指揮官が戦車についてほとんど理解しておらず、諸兵科の連携がとれなかったことだ。陸軍戦車学校がまとめた研究報告では、整備時間を与えて貰えない、雨天や泥濘地、薄暮など戦車が不得手な状況での参加強要、蹂躙効果や戦車砲の威力を過大評価し砲兵の支援なく突撃させられることが多い、などといった問題が指摘されている。確かに装備不良な中国軍に対する戦車の威力は大きいものがあった。戦車砲を撃つと中国兵は狼狽して戦場が一瞬静かになったという。それゆえ中国軍も戦車対策に余念がなかった。37ミリ対戦車砲の出現が初めて確認されたのは山西戦線だと言われている。対戦車壕を掘り、地雷を敷設して日本戦車を迎え撃った。しかも、このときチャハル山西に投入された村井戦車隊(戦車第四大隊)は、四個中隊うち三個が軽戦車(95式)と装甲車(92式重、94式軽)で、恐ろしいことにいずれも中国兵が撃つモーゼル式7.92ミリ小銃騨に装甲が射貫される恐れがあったという。このような敵に対して、戦車隊は友軍から無理に突撃を命じられて損害を出すこととなった。旅団主力と別れた村井戦車隊は10月の寧武占領後に板垣兵団(第五師団)へ転属、その後原平鎮と忻口の激戦に参加したが、ここで敵陣地に対する突撃と蹂躙を命じられて、中隊長四人中三名を失う大損害を受けている。亡くなった二人のうち一人は熱河作戦で勇名を轟かせた百武俊吉大尉だった。

機械化部隊にとって遅いとの不評はその存在価値を否定されるに等しいが、山西では東條兵団の用兵と作戦地域が山岳地帯だったことでその汚名を浴びることになった。酒井将軍の強硬な意見具申に折れ、東條兵団はいったん分派していた各隊を集中、その後また分派ということを繰り返した。戦闘よりも集中のための移動に多くの時間をとられ、実際には朔県と寧武の戦闘など首尾良く行っているにもかかわらず全体として緩慢なイメージを与えてしまった。山岳地帯ゆえに道路の幅員が狭く、泥濘地における通行は困難を極め、破壊された橋梁を工兵が修復しても戦車が通行できるようにするにはさらに資材と労力が要った。中央の命令を無視して行われたチャハル作戦は作戦行動自体が早く、段列や野戦修理廠がうまく追走できなかったことも戦車の行動力を減じた要因になったようだ。

酒井旅団は注目される戦果を上げる機会のないまま、太原陥落後の11月中旬、他の関東軍部隊とともに満州に帰還した。翌年、関東軍は旅団を解散し、常設の機械化運用という考え方を否定した。チャハル・山西での戦争は、「歩主戦従」ゆえに「軽戦車」というその後の日本陸軍における戦車の用兵に、「臨時集成」という項目を付け加えるのを決定付けたようだ。後世からは国軍初の機械化部隊をうまく活用できずに解体したことを惜しむ思いから山西戦線での用兵(と東條)が批判される。ただ「歩主戦従」を柱とするなら「臨時集成」は各派遣先指揮官が戦車の用兵について良く理解しておれば問題ない。日本陸軍はこれ以降、各師団に装甲車や軽戦車からなる捜索隊の設置を進めることで戦車の理解を広めていった。陸軍がふたたび機械化部隊の常設運用に着手するのは旅団が解体された四年後、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)に満州で機甲軍が設置され、戦車師団が誕生したときだ。

陸軍戦車学校研究部「支那事変戦車関係情報」1937年
土門周平、入江忠国『激闘戦車戦』光人社,1999年
佐山二郎『機甲入門』光人社,2002年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000109.html