犠盟会

犠牲救国同盟会と山西新軍

1936年(昭和11年)の中共による山西侵入以降、その後の西安事変を契機とした国共合作の下で、山西省でも抗日意識が高まった。「犠牲救国同盟会」略して犠盟会はそんな状況下に生まれた。同年9月、”反帝国主義”を旗印に、半官制の民衆動員組織として組織された。

犠盟会の名称は、当初、中共党員を含む左派によって提言された「抗日救国同盟会」に対し、日本への配慮から閻錫山が命名したといわれる。成立宣言でも、「武装抗戦によって帝国主義を駆逐して失地を恢復し、漢奸を排除し、中華民族の独立自由と領土完整を争取する」として日本への名指しを避けたという。

犠盟会の設立は、勢力基盤の動揺を怖れた閻錫山が、「抗日」を媒介として中共と妥協したという政治的背景がある。このため、当初より中共の影響力が強かった。犠盟会の執行委員会は、会長のほかに七名の常務委員によって構成されていたが、このうち薄一波将軍など六名までもが中共党員や中共シンパだったという。中共にとってみれば「抗日民族統一戦線」の具体化だ。中共にお墨付きを与えてしまったしっぺ返しは、閻政権にとって大きく返ってくる。日本軍の進攻で閻政権が崩壊し、力の空白が生まれると、中共の力が急速に増大していった。独自の軍隊も組織し、最終的に両者の確執は「晋西事件」(山西新軍事件)という武力衝突にまで発展した。

犠盟会の会長には閻錫山が就任し、会員には青年や官吏、学生などのインテリ層が主体を占めた。日華事変後、陸続と組織された救国組織のほぼすべてが犠盟会に参加し、会員は百万人近くに達したという。そして日本軍の進攻によって閻政権の行政組織が崩壊すると、それにかわる行政・武装組織の中心的役割を担うようになった。日中開戦後しばらくして、省内七つある行政専員公署のうち犠盟会会員の専員は四名を占め、犠盟会会員が県長に就任している県は省内六十以上に上ったという。そして犠盟会によって組織された民兵はのちに山西青年抗敵決死隊を中心とする山西新軍へと発展していく。

閻錫山が中共と妥協した犠牲救国同盟会によって組織された山西青年抗敵決死隊。最初から赤化されており、後に閻軍と武力衝突を惹起した。

閻錫山が中共と妥協した犠牲救国同盟会によって組織された山西青年抗敵決死隊。最初から赤化されており、後に閻軍と武力衝突を惹起した。

山西青年抗敵決死隊(第一総隊)は、日中開戦後すぐの1937年(昭和12年)8月、太原で民訓幹部教導団と国民兵軍官教導団の一部(第八、第九団)をもって、中共党員の薄一波将軍によって編成された。閻軍より派遣された将校が部隊の指揮をとったが、各部隊に配属された政治委員には中共党員が多く含まれた。最初から”赤化”されていたのだ。

決死隊はその後、同年10月までの間に、第二~第四総隊が編成され、のちに各隊は同年11月~翌1938年(昭和13年)初旬までに、従来の団規模の総隊から旅規模の縦隊に拡充、省内各地で戦闘に参加した。省内各地に分散した各隊では、第一、第二縦隊を中心に中共の影響力が急速に浸透していき、根拠地の建設とともに遊撃隊の増設を進めた。一縦隊につき六個団もの遊撃隊を組織したというから、実質的な戦力はともかく、員数的には一気に三倍の兵力を持ったことになる。この年に蒋介石は団新設用の編成番号として山西軍に百五十個を与えたが、閻はそのうち五十個を新軍に付与している。しかしこのときの閻軍の兵力数は実質的には四十六個団に過ぎなかったといわれ、赤化に晒されている新軍が、山西軍の約半数を占める危機的事態となっていた。

このような新軍や犠盟会の勢力増大によって、閻政権内部では中共への脅威が現実のものとなってくる。ただ中共の脅威は何も山西省だけではなく、中国全土に広がっていた。1939年(昭和14)年1月に開催された国民党五届五中全会では、中共の勢力増大阻止が決定されている。閻政権内部では新軍を解体させる「新軍問題」が急速にクローズアップされるようになり、とうとう1939年(昭和14年)12月、山西新軍と閻軍との間で大規模な武力衝突「晋西事件」が発生した。

晋西事件の直接の引き金は、両者がお互いに非があるとして詳細は不明だ。閻軍では、中共勢力下にある武装団体を正規軍に改編するなどして綱紀粛正を図ろうとしたところ、新軍内部の中共シンパが八路軍と協力して趙承綬軍を攻撃、管轄下にある行政組織を含む権力奪取に成功したという。閻軍では、抗敵決死隊のうち、ほぼ中共が手中に収めていた第一縦隊はあきらめ、第二縦隊で中共の影響力を一掃しようと試みたようだ。陝西省秋川で集訓のために集合させた第二縦隊の将校を懐柔するとともに、趙承綬軍と王靖国軍などを動員して中共拠点を急襲して中共党員を逮捕した。中共は八路軍晋西支隊などで閻軍に攻撃をかけ、双方あわせて数千人に及ぶ死傷者が発生したという。事件発生後、中共は閻錫山に対して攻撃停止と抗日統一戦線の継続を要請し、閻もこれを受け入れて事件は約二ヶ月程度で終結したという。

この事件によって、中共は第一縦隊を正式に中共軍事委員会の指揮下に編入するとともに、新軍や犠盟会の幹部の多くが延安へと逃れ、閻政権は大きな打撃を蒙ることとなった。この事件が閻政権に与えた打撃の大きさは、日本側が熱心に進めてきた停戦・掃共を柱とする「対伯工作」が、事件の二ヶ月後から急速に進展をみせたことでも窺い知ることができる。また、中共にとっても、支配地域の拡大と新しく中共に流入した旧国府軍・山西軍系党員によって、政策の変更を促されることとなる。同年8月に中共が発動した「百団大戦」は、この晋西事件による党内のパワーバランスの乱れによって生じたという見方も可能だ。

牛蔭冠「山西犠牲救国同盟会記略」(山西文史資料)1996年
王生甫「犠盟会始終是在共産党領導下的統戦組織―為記念犠盟会成立五十周年而作」(山西文史資料)1986年
李茂盛ほか『閻錫山全伝』(下)当代中国出版社、1997年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000027.html