[ 日華事変と山西省 ]

山西省の歴史

山西省は中華民族発祥地のひとつ。襄汾丁村人遺跡と陽高許家窟で発見された古代人の人骨は、それぞれ旧石器時代中期十万年前までさかのぼる。この時期、すでに汾河両岸と雁北地区では、集落が形成されていたと考えられている。新石器時代には、仰韶文化と龍山文化が栄えた。

王朝の成立について歴史学の観点から賛否両論のある堯、舜、禹の時代には、都はそれぞれ山西省南部に置かれたとされる。堯の平陽は臨汾、舜の蒲坂は永済、禹の安邑は夏県である。

紀元前11世紀から前771年に到る西周時代と、前476年までの春秋時代には、山西省は晋国領土に属し、それが山西省を表す「晋」の由来となった。前221年の始皇帝による秦王朝成立までの戦国時代には、趙、魏、韓の三晋分割が行われ、魏王朝は首都を現在の大同である平城に定めた。

その後、漢代を経て三国時代になると、山西では異民族の匈奴による侵攻が激化する。のちに異民族支配を経て、紀元618年には唐の高祖李淵が太原で挙兵し、長安に唐朝を開いた。唐代では、傑出した詩人王維や中唐の詩人白居易などの人物を輩出している。

唐朝が滅び、907年から960年の五代十国時代、五国のうちの三国、十国のうちの一国が山西に都を定めた。ついで北宋初期に山西は再び興隆し、南宋期も戦乱による被害は少なかった。1271年、元による治世が始まると、大陸支配の要地として蒙古の大軍が駐留し、文化、経済が発展した。


昔日の風景が残る平遙城内(1998年)

北部の大同に残る北魏時代の仏教遺跡・雲岡石窟の仏像(2000年)


城郭都市の姿を残す平遙古城(1998年)

晋商の栄華を今に伝える王家大院(2001年)

1368年、明軍が山西を占領して、山西は明朝支配下に入る。明代洪武年間に、太原に山西行中書省が置かれ、このときはじめて山西の名が生まれた。明代に入ると太原では「山西商人」に代表されるように商業が発達し、清の時代を通して以降300年間、山西省太原は中国随一の商都として栄える。

清代を経て民国に入り、辛亥革命でいち早く山西省で挙兵した閻錫山が山西都督に就くと、彼の「保境安民」(山西モンロー主義)政策によって中国有数の発達をみた。日華事変前後から中共の浸透が広がり、閻軍と日本軍が手を結ぶなど、政戦謀略が繰り広げられた。戦後も国共内戦で日本人義勇軍が残留して戦うなど激戦地だった。1949年(昭和24年)に太原が陥落、同年10月に中華人民共和国が成立し、北部の省境を外長城線まで拡大して現在に至っている。

省内に歴史文物は多く、中国三大石窟の雲崗石窟(大同)、中国四大仏教聖地の五台山、近年世界遺産に登録された平遙古城などがある。中国に存在する唐代以前の文物の3分の2以上が山西省にあると言われる。

# yama : 2005年2月19日
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コメント(2)

中村様

山西残留問題で誤解されるのが、恩給不適格や靖国合祀で争ってきた現役軍人だけが参加したのではなく、むしろ民間人が多かったという事実です。例えば、暫編独立第十総隊第三大隊は華北交通社員を中心に編成されており、初代の大隊長は大庭さんという民間人でした。民間人には商売人やサラリーマンのほか、末期の現地召集が終戦で解除された浪人、自ら離隊した元軍人が含まれます。「蟻の兵隊」という映画は良く存じ上げませんが、主人公の方は現役組のようですね。

中国側は、山西軍に参加した邦人に対して、全員に将校待遇、三階級の特進、給与の支給、営外居住と妻帯の自由等の便宜を図ることを約束しました。非常に魅力的だったわけで、当初山西省だけでも3万人の邦人が残留を希望していました。戦前の人は現代人よりも遙かに海外雄飛に対する心の壁が低く、居残って良い生活を維持したいという人は多かったんです。

契約期間が二年間と取りきめされており、条件が厚遇されていたことで明らかなように実態としては「傭兵」です。ただ、「傭兵」では誰も残りませんから、当時は残留の理念として「義勇軍」が叫ばれましたし、参加された方の心情もそうでした。また、現役組についても同様で、最終的には民間人の部隊と合流していることもあり、総称として「義勇軍」としています。

現役組の残留については、中村様の仰る通り、第一軍の作戦命令に拠っていたことは史料でも明らかです。ただし、それは南京司令部から中止命令が出るまでの話で、問題はそれ以降なのです。すなわち、中止解散が行われたはずの時に、現役軍人である公務員による残留の教唆ないし強要、現地除隊の隠蔽という詐欺行為があったことを立証する必要があります。

この点で司法の判断が否であったことはご存知だと思います。個人的には、兵器引継後にもかかわらず完全武装で離隊している事実などからも組織的かつ悪質であると思いますが、前述のように待遇が良かったことや、太原陥落までの間に数次にわたる帰国輸送があったことなどを考慮すると微妙なところで、司法判断としては致し方ないと思います。

澄田司令官や山岡参謀長らが残留を推進していたことは間違いありません。澄田は戦犯容疑者として軟禁されていて無関係と主張していますが、帰国後に旧軍人の台湾密航を画策していることなどからも相当の食わせ者と見てよいでしょう。

公務員の関与、すなわち国の責任を政府が認めたとします。それはポツダム宣言違反であり、内戦中に残留邦人が敵である中共軍に与えた人的・物的損害には、日本国として国際法上の国家責任が問われることになります。厚生省の報告書が作成された昭和三十一年にそれは望むべくもなかったと言えましょう。

国は今からでも恩給や遺族年金の欠格者へ特別立法で救済すべきではないかと思います。

投稿者 : yama さん 2006年8月 2日 17:21


山西省の歴史の中の記述に「戦後も国共内戦で日本人義勇軍が残留して戦う」とありますが、「義勇軍」という表現は適切でないように思います。映画「蟻の兵隊」で見ましたが、軍の正式命令によって残留させられ、閻錫山の軍に編入されたもので、その証拠もありました。したがって、日本の軍人が自主的に国民党軍に合流したという印象を与える「義勇軍」は事実に反すると思います。

投稿者 : 中村隆一郎 さん 2006年8月 2日 10:54


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