[ 日華事変と山西省 ]

辛亥革命と閻錫山

明治維新以降「富国強兵」につとめ、日清・日露戦争を勝利してアジアの強国に成長した日本は朝鮮半島を手に収め、中国にも権益を得て、否応なく大陸と関係を深めていく。この頃、中国では義和団事件の挫折によって清朝打倒の考えが広まり、孫文を中心とする革命派諸団体が各地に結成されて革命の息吹が熱を帯びてくる。アジア動乱の時代の幕開けだ。


閻錫山 (1883-1960)

1883年(明治16年)に山西省五台県で生まれた閻錫山(号は伯川)は、1904年(明治37年)、日本に留学し、在日中の翌年に孫文を首領とする中国革命同盟会に加入した。そして帰国後、1911年(明治44年)10月に革命派が武昌で蜂起するや山西省で挙兵。辛亥革命が成功した翌1912年(大正元年)1月の国民政府成立後、孫文から大総統の座を委譲させた袁世凱の命により、山西都督に就任した。

都督に就任した閻錫山はこれ以降、1949年(昭和24年)に中共軍が太原を陥落させるまでの三十余年の間、実力者として山西省の軍政両権を握る。中国近代史において閻錫山は地方軍閥の一人に数えられるが、辛亥革命に参加した古参党員としてのアイデンティティを生涯失うことはなかった。その点で、烏合離散を繰り返した他の軍閥とは趣を異とする。

国民政府の成立後、中国大陸では北方派と南方派の勢力争い、軍閥割拠によって政争・紛争が続き、混沌の度合いを深めていくが、そのようななかで、閻錫山は当初より中央政府と不即不離の関係を維持し、北方各派閥と対抗しつつ内治に専念する。「保境安民」すなわち「山西モンロー主義」である。山西省の豊富な鉱物資源を利用して早くから工業化に力を入れ、外国資本を呼び込んで鉄道や道路などのインフラを整備したり、教育機関の充実などをはかった。内乱の続く中国大陸において山西省を優秀省に発展させたその功績は、現在でも高く評価されている。

# yama : 2005年2月19日
トラックバック(0)
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://shanxi.nekoyamada.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/3
コメントはこちらから
*コメント欄からのご投稿は原則公開となりますので、非公開をご希望の方はメールにてお願いします。



ホームページをお持ちの方はURL(未記入でも可):

ログイン情報を記憶しますか?


コメント :

リンク このサイトについて 更新履歴 ご意見・ご感想をお寄せください