[ 日華事変と山西省 ]

中国統一と山西省

1924年(大正13年)、国民政府では第一次国共合作が成立、翌年に孫文が死去すると、国民政府内部での勢力争いが顕在化してくる。翌1926年(昭和元年)、蒋介石が国民革命軍総司令に就任して北伐を開始すると、国民政府の分裂と再統一、北伐再開、蒋の復帰と情勢がめまぐるしく変化する。

そんななか、閻錫山は1927年(昭和2年)に国民革命軍北方総軍司令に就任して蒋介石の北伐に協力する。そして1929年(昭和4年)には、張作霖爆殺事件を契機とした東三省「易幟」によって中国統一がなされた。しかしその後も中国国内では政争が続き、閻錫山も1930年(昭和5年)と1931年(昭和6年)にはモンロー主義を放棄し、北方派と協力して、強権独裁を目指す蒋介石打倒を掲げて反蒋戦争に参加する。しかし中原大戦で蒋に破れ、大連に逃れた。このとき日本の庇護を受けたとされる。翌年8月に国民政府に帰参、1932年(昭和8年)に太原綏靖公署主任に任じられ、山西省の実力者の座に返り咲いた。


西安事変直前に洛陽で開かれた蒋介石の祝賀会にて。左から張学良、宋美齢、蒋介石、閻錫山。張学良はこの後、中共に唆走されて反蒋クーデターを起こした。

閻錫山が中共と妥協した犠牲救国同盟会によって組織された山西青年抗敵決死隊。最初から赤化されており、後に閻軍と武力衝突を惹起した。

中国の政治統一が進むにつれ、外国権益に対する反発が高まり、排日運動を激化させてゆく。この頃には中共も大陸政治に徐々に浸透を始めた。1936年(昭和11年)2月には、西から中共軍が山西省に侵攻し、閻政権を脅かした。反共の閻錫山も、抗日を標榜する中共との連携を余儀なくされた。

同年末には綏遠事件に続き、中共に唆走された張学良が蒋を監禁する西安事件が発生。国共合作を条件に命を救われ、西安から生還した蒋介石は権力基盤を固めた。抗日ブームを背景に軍の近代化を進めてきた蒋介石は、圧倒的な軍事力を背景に、「倭寇(日本)」との戦争を決意した。

# yama : 2005年2月19日
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