[ 日華事変と山西省 ]

日華事変の勃発

1937年(昭和12年)7月7日、北平(北京)郊外廬溝橋で、日中両軍の間で武力衝突事件が発生した。現地では停戦協定が成立したが、圧倒的な軍事力を背景に自信を持った蒋介石は、権益回収と圧力一掃を目論んで日本に対する本格的な攻撃を決意した。8月、上海で中国軍は総攻撃を開始、その後八年間にわたる日華事変が勃発した。蒋は中国全土に総動員を発令して日本軍への攻撃態勢を整えると共に、9月には共産軍を国民党軍に編入して第二次国共合作を成立させた。山西省でも続々と中央軍が北上、中共軍も正式に山西省に進出してきた。山西省を統括する第二戦区司令長官には閻錫山が就任し、山西における対日戦の指揮をとることとなった。


廬溝橋 (1992年)

華北戦場では、日本軍が7月末には北平・天津地方を制圧し、8月には北支那方面軍を編成して保定以北の制圧に乗り出したが、側面支援のために南下した関東軍は無断でチャハルへの侵攻を開始する。内蒙独立と山西省の華北分離によって、新しい勢力圏を成立させることが目的だった。これに関東軍と志を同じくする板垣征四郎将軍が同調、9月には板垣兵団による山西省への侵攻が独断開始された。

10月、チャハル・山西への侵攻に反対していた参謀本部の石原完爾作戦部長が解任されると、陸軍中央は太原攻略作戦を正式に下令、苦戦する北部の板垣兵団を支援するため、河北省を占領した北支軍も山西省東部の省境より進攻を開始した。


忻口総攻撃第一日目、塹壕を飛び越えて突撃する日本軍兵士。

忻口戦線における国府軍砲兵。閻錫山は忻口を決戦場に選んだ。

中国第二戦区軍は、晋綏軍の他にも傅作義の西北軍、中央から派遣された衛立煌軍を合わせて兵力二十六万人の体制で日本軍を迎え撃った。省内の北部、東部の各地で、中国軍と日本軍の間で激戦が繰り広げられた。9月に北部の要衝である大同が陥落、10月には東部で娘子関が突破され、11月には決戦場とされた忻口が陥落した。北と東から挟撃されて中国守備軍は撤退し、11月8日、山西省の省都である太原が陥落した。閻錫山は南部の臨汾に後退した。

太原陥落に先立つ10月に日本政府は「支那事変対処要綱」によって親日派要人による統一政府樹立を決定、山西省では太原陥落後の12月、閻政権にかわる新政府である山西省臨時政府籌備委員会が発足した。同委員会は、翌年4月の中華民国臨時政府の成立とともに編入され、山西省公署が組織された。初代省長には、閻錫山の側近である蘇体仁が就任した。

# yama : 2005年2月19日
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