山西省を制圧した日本軍はこれ以降、1945年(昭和20年)8月の日本敗戦まで、内長城線以北を駐蒙軍、それ以南の山西省を北支第一軍が管轄する体制で警備を行うことになる。この間、戦争前に閻政権と提携した中共が、日本軍の進攻によって力の空白ができると、そのチャンスを利用して勢力を急速に広めた。閻政権と中共との確執は、1939年(昭和14年)12月、とうとう大規模な武力衝突事件(晋西事件、山西新軍事件)を生じるまでになった。こうして名実共に反共へと転じた閻の選んだのが、日本との連携だった。
![]() 汾西の山窟で挙行された会談で握手を交わす閻錫山(左)と岩松第一軍司令官(右)。破談に終わったこの会談を期に、閻政権と日本側との公式な連絡は途絶えた。 |
反蒋独立志向の強い閻錫山を懐柔し、内蒙とあわせて安定化を目論む日本軍の動きは、日華事変の初期から始まっている。第一軍が中心となって、閻錫山の国府からの離間工作を行っており、これは後に「対伯工作」と命名された。中共との武力衝突後、閻は建前として中共との抗日統一戦線を維持する一方、この工作によって日本軍と不即不離の関係を続けることで兵力を温存する方針をとる。日本軍と閻軍は停戦協定を締結し、一部で物資の融通すら図られていた。結局、工作は最後まで実ることがなかったが、両者の関係は、戦後の国共内戦における日本人残留へつながる遠因となった。


