[ 日華事変と山西省 ]

中共の脅威と日本軍との提携

太原陥落二ヶ月後の1938年(昭和13年)1月、日本軍は山西省中南部への進攻を開始、山西省、河北省、河南省からの北、東、南の三手で中国軍を挟撃した。2月には臨汾と路城平野の各都市を陥落させ、3月には南部の要衝である運城が攻略された。中国軍は一部を山岳地帯で遊撃隊として組織するほかは、黄河を越えて、陜西省、河南省西部へと撤退した。これにより、山西省は全土を日本軍に制圧された形となった。

山西省を制圧した日本軍はこれ以降、1945年(昭和20年)8月の日本敗戦まで、内長城線以北を駐蒙軍、それ以南の山西省を北支第一軍が管轄する体制で警備を行うことになる。この間、戦争前に閻政権と提携した中共が、日本軍の進攻によって力の空白ができると、そのチャンスを利用して勢力を急速に広めた。閻政権と中共との確執は、1939年(昭和14年)12月、とうとう大規模な武力衝突事件(晋西事件、山西新軍事件)を生じるまでになった。こうして名実共に反共へと転じた閻の選んだのが、日本との連携だった。


汾西の山窟で挙行された会談で握手を交わす閻錫山(左)と岩松第一軍司令官(右)。破談に終わったこの会談を期に、閻政権と日本側との公式な連絡は途絶えた。

反蒋独立志向の強い閻錫山を懐柔し、内蒙とあわせて安定化を目論む日本軍の動きは、日華事変の初期から始まっている。第一軍が中心となって、閻錫山の国府からの離間工作を行っており、これは後に「対伯工作」と命名された。中共との武力衝突後、閻は建前として中共との抗日統一戦線を維持する一方、この工作によって日本軍と不即不離の関係を続けることで兵力を温存する方針をとる。日本軍と閻軍は停戦協定を締結し、一部で物資の融通すら図られていた。結局、工作は最後まで実ることがなかったが、両者の関係は、戦後の国共内戦における日本人残留へつながる遠因となった。

# yama : 2005年2月19日
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コメント(5)

住民に被害が及んだかどうかでは日本が悪いとは言えないわけですね。ちょっと分からなくなってきました。いろいろ教えていただいた本を読んでみます。ありがとうございました。

投稿者 : 咲田 さん 2006年3月14日 16:11


咲田さま

無住地帯工作で住民に被害が及んだ例はあったでしょう。ただ、それが中国側の言うように不当・不法なものであったかどうかは、慎重に検討すべきだと思います。イデオロギーではなく、戦争のルール・手続きを踏んでいるかどうかで判断すべきです。

対敵経済封鎖の一環としての無住地帯工作について言えば、密輸品の取締りや遮断壕の工事などは特務機関の指導の下で中国行政が所管していましたが、遮断線の設定や立入禁止措置等、警備計画の実務内容については、日本軍の各兵団に警備が委ねられていました。これは軍事作戦としての性格が強いことを意味し、同時に仮借ない攻撃が行われたことも意味します。

そして、これを戦時国際法の観点から見た場合、無住地帯に居る住民へは、退去勧告と(不十分ながらも)補償が行われている以上、それは被害が及んだか否かに関係なく、適法です。似たような仕組みとして交戦地区宣言、戦闘地域からの一般市民の退去勧告に類すると言えます。この場合、住民に被害が及ばないようにするために、住民の退去もしくは非武装化を実行するのは、その地域を実行支配する政治権力の責任となります。ですから、本来は中共が責任をもって無住地帯内の住民の退去を図らなければならない論理になります。もちろん、現実にそのようなことは行われませんでした。

その上で、戦場にいる兵士に、動く標的が何かを確認させる軍隊は存在しません。近代歩兵戦は、肉眼で敵兵か否か(人か動物かすら)識別できない距離での狙撃の応酬です。一般市民がいないはずの無住地帯にあっては、全ての遮蔽物(この場合は住民の家屋など)を破壊・焼却し、動く標的に対して無差別に攻撃を行うことは自然なことです。これが住民の側から見ると、儘滅作戦(三光作戦)と非難される所以であるとも言えます。また、禁令を無視して立ち入った者が逮捕され、問答無用で処分される例も珍しくなかったと思います。実際に山西省東部を所管していた独立混成第四旅団がそのような運用方針を定めていた記録が残っていますし、当ホームページで紹介する戦争体験談にもそのような話があります。ただ、多くは敢えて禁令を破る中共ゲリラや密売人などの脱法者であり、そういった意味では良民の被害はなかったと言えます。

もちろん、敵地に居住しているといっても、当時の中共の支配は匪賊による略奪と似たり寄ったりでしたから、そのような過酷な状況にある住民が追い打ちをかけられ、不十分な補償で家をおわれることはとても悲惨なことです。実際に、日本側の記録でも、住民が退去に応じなかったり、中共が退去を許さなかったりで、戦火に巻き込まれるなどした例があり、それを兵士や宣撫官の方が悲劇として書き残しています。ただ、戦争とはそのように無慈悲なものです。

投稿者 : yama さん 2006年3月 9日 21:37


たびたびすみません、無住地帯が住民を迫害する為に行われたものではない事は分かりましたが、yamaさんの仰るように日本軍の警備が厳しくて住民の被害があったのなら三光作戦と批判されても仕方がないのではないでしょうか。ご意見をお聞かせください。

投稿者 : 咲田 さん 2006年3月 8日 20:42


咲田さま

「無人区」というのは、中共や左翼が主張し始めたもので、日本軍が特定地域の住民を迫害・虐殺して“無人化”を図った蛮行としているものです。例えば、元日教組中央委員を務めた仁木ふみ子が「無人区」について書いた本のタイトルは『無人区 長城線のホロコースト』といった具合です。

確かに中共のゲリラ活動に手を焼いた日本軍は、華北において一部で無住地帯と呼ばれる工作を実施しています。しかし実際は満州における集家工作を参考にした移住策です。指定地域の住民を強制移住させ、域内の立ち入りを禁止することにより、敵根拠地の壊滅と経済物資の取得途絶を目的としていました。住民を迫害するために行ったものではありません。中共自身、かつては「無人区」が強制移住策であったとしていました。政治的な意図で論難しているに過ぎないと言えます。

無住地帯の設定は満州との国境に近い蒙彊で開始されました。興隆は蒙彊の一県です。蒙彊や河北省における無住地帯工作については、田辺敏雄氏が著書『「朝日」に貶められた現代史―万人坑は中国の作り話だ』にまとめているほか、ホームページでも概要を紹介されていますのでご覧になられると良いでしょう。
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/

実は無住地帯というのは、名称自体も用語として決まったものではありません。現地の状況に応じて様々な形態で行われているため、中国側の「無人区」に合わせて議論するのは少し無理があります。

華北について言えば、対敵経済封鎖の一環として行われました。敵根拠地を囲むようにして壕や石垣による遮断線を設定し、その先の土地では人の居住と往来を禁止、農作物の栽培や家畜の飼育等も禁止しました。無住地帯内の住民に対しては期限内退去を促しました。満州における集家工作では、代替集落の建設や移住費用の補填などの補償を伴いましたが、華北においては配慮が薄かったのではないかと思います。かつて産経新聞に、河北省警備の第二十七師団の方が農作物の買上補償を行ったと投書された例があります。

そして実際の警備ですが、厳重かつ苛烈だったことは想像に難くありません。これは満州での工作が行政による治安対策として行われたのに対し、華北においては日本軍の各兵団に警備が委ねられており、軍事作戦としての性格が強いことによるからです。

仰る通り、山西省では五台山付近(五臺)に無住地帯が設定されたと言われますが、ほとんど資料がないのが現状です。私の手元には、五台山地区の警備をしていた独立混成第三旅団の戦友会誌がありますが、無住地帯の記述はありません。別の書籍に、当地で宣撫官を務めた方の回想がありますが、その方は無住地帯を儘滅作戦の一つとしているのが気になる所ではあります。

投稿者 : yama さん 2006年3月 5日 17:14


はじめまして。いつも楽しく拝見しています。いわゆる無人区(無住地帯)ですが、この実態はどんなだったのでしょうか。住民に大きな被害が出たといわれています。有名なのは興隆という場所のようですが、山西省にも五臺という地にあったとされています。教えてください。よろしくお願いします。

投稿者 : 咲田 さん 2006年3月 2日 13:58


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