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祖父と父ともに辛亥革命に参加した政府高官の家に生まれる。日華事変が勃発すると、太原から介休県、隰県、大寧県へと疎開。同年秋に日本軍が寧武を占領した際には祖父母が亡くなる悲劇にみまわれた。
1938(昭和13)年秋、父が要職を退くと一家で疎開先から太原に帰郷するが、自宅は傀儡政府に接収されていた。中学校卒業後に太原日語専科学校で日本語を学び、のち終戦まで、日本資本の華北窒素肥料股イ分有限公司に勤務した。 |
李献瑞さんは、民国14年=1925(大正14)年旧暦の11月11日、父である李成林さん(別名 李樹森、当時四十六歳)の四番目の子ども(三男)として、山西省太原市で生まれた。父の李成林さんは、母方の祖父の李臻さんとともに早くから辛亥革命に参加した著名な人物だった。当時は、陸軍老二団第一営長(大隊長)の職にあった。父の指揮する第一営には、後に抗日戦で名をとどろかせ、戦後は国防委員会副主席を務めた傅作義が排長(小隊長)として所属していたという。

李献瑞さんの父・李成林将軍。1940年(昭和15年)~1944年(昭和19年)の晩年の写真。
辛亥革命に参加した国民政府の古参党員だった。
当時、李さん一家の家は太原城内にあった。現在、旧市街にある山西省博物館第一部のそばの新城南街だ。家は立派で、余裕のある暮らしだった。隣には祖父母の李臻さん夫妻が住んでいた。祖父の李臻さんは当時六十歳前後で、中国同盟会の山西省における最も早くからの会員。清朝末に日本に留学した経験をもつインテリだった。当時は、山西省政府参事の職にあった政府高官だった。
李さんが三歳の時、実の母親が亡くなり、父は再婚した。隣に住んでいた祖父母は、実娘の最後に生まれた幼い李さんをことのほかかわいがった。母親が亡くなったショックからか、李さんの身体が弱くなったことも、祖父母が気をかける理由のひとつであった。
祖父母との生活と別れ
李さんは、父が天津租界のオーストリア第二区主任を務めていた関係で四歳から五歳の一時期を天津で過ごしたのち、太原に戻ってきて小学校に進学した。のちに李さんが六歳か七歳のとき、一家は同じ城内の一人巷というところに引っ越した。現在の太原市内柳口の北のあたりである。このとき李さんは、当時全国でも最高峰の教育水準を誇る山西実験小学校に通学していた。同じ太原城内だが、引越先から小学校に通うにはすこし遠い。李さんは、祖父母の家に住むことにした。祖父母はとても優しく、母親が亡くなってから体が弱くなった李さんに特に優しくしてくれた。隣近所の人たちに対してもとても親切で、評判がよかったという。祖父母との一緒の生活は、1936(昭和15)年の冬に夫妻が故郷の寧武へ帰るまで五年あまり続いた。

李献瑞さん。李さんの自宅にて。(太原,2001年)
当時、小学生だった李さんは、教科書の中に記されている英国とのアヘン戦争やロシアの南下、日清戦争などによって、祖国が列強によって蝕まれてきた歴史を知った。父や祖父母は、オランダなどの"中国よりずっと小さい国"にまで祖国が蝕まれている現状を幼い李さんに聞かせた。祖国を憂う大人達の会話を聞くたびに、李さんは子供心にも「中国は将来必ず強くならなければならない」と感じた。
1936(昭和11)年の冬、祖父は閻錫山に暇乞いをして職を辞し、故郷の寧武へと帰ることになった。列車がなかったので、祖父母は家財を積んだトラックに乗って帰っていった。冷たい北風が吹くなか、「行かないで」とすがる李さんに、祖父母は「生活が苦しくなってきたから仕方がないんだよ」と諭した。まさかこれが祖父母との最後の別れになるとは、まだ当時小学生だった李さんに予想できるはずもなかった。
戦争の勃発
1937(昭和12)年7月、日中両軍の間で戦争が始まった。日本軍は破竹の勢いで華北東部を平定。ついで山西省に矛先を向けた。日本軍の山西侵攻に前後する8月の終わり、山西省の政府機関関係者に対する避難勧告がなされた。
この時、李さんは小学校の四年生を終え、中等部(日本の中学校に相当)に進学する事となっていた。同じく姉も小学校を卒業し、太原市内でも有数の平民中学校の試験に合格して9月から進学することとなっていた。しかし、太原からの避難によって進学をあきらめなくてはならなくなった。
李さん一家はまず、太原の南西約百キロの介休県に避難することにした。母(李さんにとっては義理の母)の実家が県内にあったからである。その後、当時、太原綏靖公署少将参事の職にあり、省内の匪賊討伐のために編成された隰県大麥郊特設保安隊の隊長を兼任していた父のもとへ行くことになった。介休県から西へ約百キロの隰県へと向かった。
隰県に到着した李さん一家は、父とともに辛亥革命に参加し、義兄弟の契りを結んでいた国民政府中央参事の王承斎さんの家へ一時避難した。そののち、王さんの紹介で隰県の西坡底村(*1)に避難した。この時点で、父も王さんも戦争が長期化するとは思っておらず、李さんも一時的な避難のつもりで、戦争が終結すればすぐにでも太原に戻れるものと思っていた。しかし、北では9月中旬に大同、11月初旬に忻口が陥落し、東では10月下旬から娘子関から日本軍の侵攻を受け、戦争終結は遠のくばかりか、山西そのものが日本軍に占領されてしまう形勢になってきてしまった。
戦火が近づき、一行はさらに南下することにして、李さん一家は、隰県からさらに西南に約三十キロのところにある大寧県曲娥鎮に避難することになった。曲娥鎮には王さんの実家があったからだ。この時、父と王さん一家、山西政法学院の馮倫院長一家も一緒に避難することになった。一行は日本軍を避けるため山道を歩くことにした。李さんの妹と弟(2人とも異母児)はまだ幼くて三十キロもの山道を歩けない。驢馬の上に篭を載せてその中に入れて出発した。十四歳の李さんは「徒歩組」に入れられた。もちろん最年少だ。冬の山道を三十キロ。小学生にとってそれは途方もない距離に感じた。
李さんは、丸太棒のように重くなった足を引きずりつつ歩き続けた。そして大寧県に近づくと、後ろから大砲の音が聞こえてきた。隰県の南の午城鎮で、中国軍と日本軍の大規模な戦闘が起きたのだ(*2)。一行は背中に砲声を聞きながらの避難行となった。
やっとのことで大寧県に到着した。李さん一行は、県城内にある「騾馬店」という騾馬や馬夫を泊める旅館に投宿した。すでに祖父母のいる寧武も、故郷の太原も日本軍の手におち、年は明けて1938(昭和13)年の3月になっていた。
(*2)牛城鎮での戦闘は、古代から「兵家必争」の地と言われてきた靈石県南西部、汾西県との境にある韓信嶺で、衛立煌将軍の中央第十四集団軍と北支第二十師団・第百八師団が激突した戦闘。2月24日から激戦が十日以上続いた。
悲嘆にくれる父
大寧県に到着して数日後、外出していた父がはたから見ても分かるぐらい落ち込んで帰ってきた。理由を聞くと、親友の張培梅さんが自殺したという。
張さんは父とともに辛亥革命に参加し、義兄弟の契りを結んでいた親友。かつて父が天津租界第二区主任を務めていたのも、張さんが天津市長を務めていて、彼の補佐役として父を引っ張ってくれたからだ。書をたしなんでいて、家には父のために書いてくれた彼の書が何幅もあった。
張さんは、戦争が始まってからは特設された第二戦区執法総監(日本の軍憲兵司令官にあたる)の任にあった。聞くところによると、日本軍が臨汾攻略に策応して閻錫山の退路遮断を目的に隰県、吉県へと侵攻してきた2月下旬、第十九軍の軍長である王靖国将軍は隰県で敗退し、独断退却した(このとき閻錫山は臨汾に所在)。このため、執法総監だった張さんは、敵前逃亡と抗命の罪で、王将軍を軍法に照らして厳重に処罰しようとした。しかし、閻錫山がこれを許さなかったため、行く末を悲嘆した張さんは、隰県の西坡底で大量の阿片を口から飲み込んで自殺を図ったのだという。当時山西省政府主席で親友の趙載文さんが急いで解毒剤を飲ませようとしたが、張さんは頑として飲もうとしない。手で口を無理矢理開かせて阿片を吐かせようとしたが、喉元まで上がってきてはまた飲み込むの繰り返し。急いで自動車に乗せて大寧県政府の前まで運んできたときはもう手遅れだったそうだ。
再び西坡底へ
その後、王さんの実家のある曲娥鎮に数日滞在したのち、李さん一家は隰県の西坡底に戻ることとなった。王さんと馮院長の両家族はさらに西へ黄河を越えて陝西省に入り、西安まで避難するという。同行してきた祖父の長男家族も、黄河を渡って甘粛省に避難するという。しかし、李さん一家十数人がこれ以上移動するのは経済的に困難だった。午城鎮の戦闘後、日本軍は臨汾のほうへ戻り、隰県に戻っても安心できるようだったので、父の部下がいる隰県に戻ることとなった。(*3)
大寧県を出発して、隰県の午城鎮付近を流れる听水河にさしかかった際、十数体ほどの死体や馬の死骸が河原に横たわっていた。午城鎮の戦闘に巻き込まれた遺体だった。なぜか死体はみな裸だった。李さんは、生まれて初めて見る多くの死体に、戦争の悲惨さを感じさせられた。
無事、隰県の西坡底に戻った李さんは、ここに数ヶ月滞在することになる。西坡底滞在中、李さんは毎日村の子どもたちと遊びながら、いろいろな抗日歌を憶えた。現在の中国国歌の基になった「義勇軍行進曲」や、廬溝橋事件時の中国第二十九軍の軍歌「大刀行進曲」などだ。また、満州の日本侵略を背景にした「放下イ尓的便子」などの抗日劇も見た。この時、隰県は抗日活動が盛んだったようだ。西坡底に戻ってしばらくすると、祖父の長男が避難先の甘粛省から手紙をよこしてきた。手紙には李さんの大好きな祖父母の死が記されていた。
大好きな祖父母の死
二年前の冬、七十歳になった祖父は一切の公務から離れて慎ましい生活を送っていたが、翌年の1937(昭和12)年の日中開戦で寧武にも戦火が及んできた。10月2日、日本軍が寧武を占領。すると日本軍は5日から13日の間に、寧武県城内で虐殺事件を起こしたという(*4)。その時日本軍は住民のなかの男性を連れだし、県城の城門前に集めると、群衆に向かって機関銃を掃射したという。この時、祖父の李臻さんも城門前に連行されて射殺された。夫の死を知らされた祖母は悲嘆し、自宅にあった自家製の黒酢の大がめに頭から突っ込んで自殺してしまったという。
暇乞い
1938(昭和13)年の初夏、李さんの父は、軍・政府のすべての役職を辞め、太原に戻ることに決め、閻錫山に暇乞いをした。閻錫山からの許可が下りると、李さん一家はさっそく太原に戻ることとなった。しかし、この時、隰県には抗日運動の中核となる青年幹部を養成する民族革命大学があった。抗日活動の盛んな隰県ですっかり抗日愛国思想に感化された李さんは、父に「入学して抗日運動に参加したい」と懇願した。しかし父は、「君はまだ十四歳で小学生なのだからあきらめなさい」と言う。父の言葉に李さんも断念せざるを得なかった。
隰県を出発するに際し、父の部下たちが「あなたは暇をもらったとはいえ高級幹部なのだから日本軍に見つかったら何をされるか分からない」と、日本軍の配備状況や安全な避難路などを検討してくれた。一家はひとまず太原南西約百キロの汾陽に向かい、そこから様子を見てから太原に戻ることとなった。
汾陽は天主教の発行する許可書がないと入城が許されなかった。そのため、県城内の教会で牧師を務めている父の友人に事前に連絡をとった。そして李さん一家が到着すると、城外まで許可書を持って来てもらった。牧師は李さん家族に向かって、「城内に入るときは必ず日本兵におじぎをして、何か聞かれても自分が対応するからしゃべらないように」と言った。李さんの姉は日本兵の暴行を恐れ、顔を炭で汚して老婆のような格好をしていた。
入城のため、城門までやってくると、城門には日本兵が小銃をもって立っていた。李さんは初めて見る日本兵に緊張しながらぎこちなくおじぎをして、無事城門を通過した。
教会に着いて一同皆ほっと一安心した時、牧師が李さんに向かってこう言った。
「私が一番心配したのは君だよ。なぜなら君は誰が見ても小八路(シャオパールー)のようだからね」。
太原への帰郷
太原に向けて出発するまで、李さん一家は、二カ月か三カ月の間、この天主堂に寝泊まりさせてもらった。
李さんは汾陽にいる間、何回か一人で外出した。外出の際は父たちが「隰県で歌っていた抗日歌はもちろん、今までどこにいたか何をしていたかも絶対に話してはいけない」と言う。地元の住民に李さん一家の素性がすぐばれてしまうからだ。ついつい口ずさんでしまう抗日歌をぐっと抑えて外出する。外に出て町の様子を見た感じでは、日本軍が占領した当初に避難していた人たちも徐々に戻り始め、混乱も収まりつつあるように見受けられた。
この間、父は太原にいる友人などに手紙を出して太原市内の情報を集めていた。また、太原入城の際には良民証が必要だったため、牧師を通じて入手した。良民証を入手すると、いよいよ太原に戻ることとなった。まず平遥に向かい、そこから列車に乗って太原に戻ることになった。

