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祖父と父ともに辛亥革命に参加した政府高官の家に生まれる。日華事変が勃発すると、太原から介休県、隰県、大寧県へと疎開。同年秋に日本軍が寧武を占領した際には祖父母が亡くなる悲劇にみまわれた。
1938(昭和13)年秋、父が要職を退くと一家で疎開先から太原に帰郷するが、自宅は傀儡政府に接収されていた。中学校卒業後に太原日語専科学校で日本語を学び、のち終戦まで、日本資本の華北窒素肥料股イ分有限公司に勤務した。 |
平遥から列車に乗って李さん一家は太原に無事到着した。しかし、一年ぶりに戻った一人巷の自宅は、親日新政府に接収され、日本人が住んでいた。昔ながらの四合院建築の李さんの家に、北側の部屋には滝井という商売人が、東側には鉄路局の技師と日本領事館のタイピストの夫婦が、西側にも日本人が住んでいた。
父は自宅を取り戻すべく、家の権利書を持って、太原市政府の斡旋科に何度も相談しにいった。父が市政府と折衝している間、李さん一家は現在の府西街のあたりにあった友人の印刷工場の裏手にある家に住まわせてもらった。何度も交渉した結果、結局西側に住んでいた日本人が引っ越し、一家は空いた南側と西側のふた部屋に"入居"することとなった(*1)。
太原に戻った李さんは、市内の明原小学校に入学した。そして、1940(昭和15)年夏、十六歳になった李さんは小学校を卒業し、中学校に進学した。進学先は現在も山西省博物館第一部の北に残る太原中学校だ。
中学校生活

李献瑞さん。中学生の頃。
中学校では一~二人の日本人教師が配属されていて、日本語の授業がおこなわれていた(*2)。最初に李さんが習った日本語の教師は、早稲田大学を卒業した四十代中頃のHという教師だった。彼は予備役の将校だったようで、記念行事のあるときなどは陸軍少尉の襟章をつけた軍服を着用して学校に現れた。
中学校で李さんが好きだった科目は体育と音楽で、日本語に興味はなかった。Hは教科書の内容をただしゃべるだけで、授業も全くつまらないものだった。そのため李さんは日本語の授業中はまじめに講義を聞かず、冗談を言ったりしてクラスの皆をよく笑わせていた。
ある日、日本語の授業中、いつものように冗談半分に習いたての日本語をつかった。消しゴムを手に持って、「日本の消しゴムはとってもとってもワルイ」と言うと、皆どっと笑った。すると、「日本はとても悪い」と聞き間違えたHがかんかんになって怒りだした。「この野郎何を言ってるんだ!」と、持っていた木棒で李さんを何度も殴った。
また、あるときには、学校内での手紙のやりとりが抗日活動に間違われて、数人の生徒が憲兵隊に連行される事件も起きた。学校内で人気のある女学生に対して、数人の男子生徒がラブレターを出し、頻繁に手紙のやりとりをしていたのが誤解されたのだった。
神田先生との出会い
中学校に入学して一年が経ち、李さんは二年生に進学した。この時、李さんは、臨汾師範学校から転任してきた神田秀夫先生に出会う。東京帝国大学を卒業した神田先生は、戦後、武蔵大学の教授を務め、後に国文学者として大成される人だった(*3)。
神田先生の授業は、教科書の内容をただしゃべるだけのHに比べて、とても丁寧だった。日本語の文法はもちろん、外来語の由来なども丁寧に説明してくれた。また、中国の故事などもよく引き合いに出し、興味の尽きない授業だった。神田先生は授業中、生徒に対してよく質問を出した。生徒が質問に答えられると、寡黙な神田先生は一言「よし」と言ってうなずく。神田先生の授業を受けて、李さんは日本語に興味を覚えた。
ちょうどそのころ、李さんの家庭の経済状況は悪化していた。中学校卒業後はすぐにでも仕事に就かなくてはならず、良い仕事に就くために日本語が必須だったのも手伝った。李さんは、以前とはうって変わり、冗談を言うこともなくまじめに授業を受けるようになった。そして神田先生が質問を出すときは真っ先に手を上げて答えるようになった。そのため、中学校を卒業する際、総合の成績では普通だったが、日本語と歴史と体育の三科目は非常に良い成績だったという。
太原日語専科学校への入学
1943(昭和18)年7月、李さんは太原中学校を卒業した。李さんは、高等中学校を受験したかったが、家の経済状況はそれを許さなかった。すぐにでも働きに出て家計を助けなければならないほど、経済的に苦しくなり始めていたのだ。しかし、どうしても勉強を続けたかった李さんは、ちょうどこの年の秋に開学する予定の太原日語専科学校で学びたいと親にうち明けた。神田先生が中学校からこの学校に移動され、実質上の責任者となっていたことも、この学校で勉強したいという気持に結びついた。すぐにでも働いてほしいという両親を「一年だけだから」と説き伏せた。そしてその年の9月、李さんは晴れて日語専科学校一期生として、修業一年の政経部に入学した(*4)。

太原市内に今も残る太原日語専科学校の建物。西洋風の瀟洒なこの建物は、当時は二階建で戦後三階部分が増築されたという。現在は政治協商会議が使用している。(太原,2001年)
太原日語専科学校は修業一年の政経部と修業二年の師範部に別れており、学生は政経部十一人、師範部二十人の少数教育だった。全寮制で、宿舎費、食費、制服が支給された。李さんは日本の大学生が被るような学帽と学制服に憧れたが、制服は濃緑色の"国防服"でがっかりしたのを今でも憶えている。太原中学校からは李さんを含めて三人が入学した。神田先生は、開学と同時に学校の教務長の職に就かれた。他に太原中学校からは、北京出身の中文の羅先生が来ていた。
学校の一日は朝六時半に起床、朝食をとった後、授業が始まる。八時から十二時まで、すべて日本語で一時間半の授業が二限あり、途中三十分間の休み時間には、校舎の前の池の周りでラジオ体操を行った。昼食の後、二時からは学校内の清掃や菜園での農作業などといった活動が行われた。これは「勤労奉仕」と呼ばれた。のち、年末頃から二十四歳くらいの現役の陸軍少尉がやってきて、池の周りを隊列を組んで歩く「教練」をやらされるようになった(*5)。
日本語の授業は学校を卒業後、二等通訳試験に合格できるぐらいのレベルを目指したものだった。神田先生以外に、日本人教員で李さんの記憶にあるのは、鹿児島県出身の四十歳ぐらいの青崎速先生、日本語の他に音楽も教えていた小川太郎先生などだった。青崎先生は厳格な性格だったが、授業外では学生を自宅に招いて可愛がってくれた。政経班は音楽の授業がないので、小川先生とはあまりおつきあいがなかったが、楽観的な性格の方で好印象を与える方だった。一方で二人の先生とは反対に、Sという教師は社会的関心事を持つ男子学生をいじめた。李さんも標的になった。
(*5)山西省公署の規定により、各学校の教職員と生徒は、週一日、勤労奉仕を行うことが義務づけられていた。また、専科以上の学校は毎週三時間、中学校は二時間、小学校は一時間の教練が行われ、女子学生には毎週二時間の救護訓練が行われていた。学校の成績も、各教科に教練の成績を足して平均して計算されるようになっていたという。
神田先生とのお付き合いと奥さんとの出会い
神田先生は、太原中学から入学した李さんたち三人の学生を可愛がってくれた。よく太原中学組の三人を日本人が経営する市内の喫茶店に連れていってくれた。コーヒーや、焼き五目めしなどに舌鼓をうった。学校の食事は、最初の頃は一週間のうちに小麦の饅頭が二回ぐらい出ていたのが、しばらくすると土曜の昼一回だけになり、あとは高梁麺などになっていた。だから外食はとてもうれしかった。
また、神田先生のご夫人にもよく自宅に招いていただいた。神田夫人は李さんたちを自宅に招くと、よく日本のもちやダンゴなどを食べさせてくれた。李さんは卒業後、在学中のお返しとして、頻繁に新鮮な卵を持っていったあげた。食料事情が急速に悪化していたときだから大変喜ばれた思い出がある。しかし残念ながらご夫人は、終戦を前にした1945(昭和20)年の5月か6月に肺病で亡くなられてしまった。
また、青崎先生もよく学生を自分の宿舎に招いて食事などをごちそうされていた。青崎先生には三人の幼い娘さんがおり、女子学生がまだ赤ん坊の娘さんを抱いて学校の庭を散歩している風景も頻繁に見られた。

奥さんの高飛龍さん。戦後しばらくして太原で撮影したもの。
日語専科学校で知り合った二人は交際を続けて戦後めでたくゴールインした。
ところで、李さんとよく一緒に神田家を訪問したのが、師範部に在学する高飛龍さんだった。彼女は太原女子師範中学を卒業して、妹の高鳳龍さんとともに師範部に進学していた。李さんより一歳年上だった。李さんは次第にこの女性に惹かれていく。神田夫人も、李さんに「二人はいつ結婚するのか?」と聞いてくる。のちに1947(昭和22)年、ふたりはめでたく結婚することになる。
社会への旅立ちと父の死
学校で学んだ一年間もあっという間に終わった。1944(昭和19)年8月、学校を卒業した李さんは社会にでた。ちょうどこの年の秋に父が亡くなった。六十六歳だった。隠居の身だったが、閻錫山の連絡役として活動していた。亡くなる半年前にも閻錫山と会っており、この際に中将に任じられていた。ちょうどこのとき、二兄の李応瑞さんは第二戦区司令長官部で、伝書鳩を扱う特殊通信隊の隊長として勤務していた。長い間離ればなれだった二兄の李応瑞さんが父に会えたのは幸いだった。病気になってからは太原で静養しており、二度ほど病院に行って注射を受けた。その後、どんどん病状が悪化して亡くなってしまった。多くの人は特務に毒を注射されたのだという。死後、国民政府より参事に列せられた(*6)。すでに日本の敗戦は一年後に迫っていた。

