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祖父と父ともに辛亥革命に参加した政府高官の家に生まれる。日華事変が勃発すると、太原から介休県、隰県、大寧県へと疎開。同年秋に日本軍が寧武を占領した際には祖父母が亡くなる悲劇にみまわれた。
1938(昭和13)年秋、父が要職を退くと一家で疎開先から太原に帰郷するが、自宅は傀儡政府に接収されていた。中学校卒業後に太原日語専科学校で日本語を学び、のち終戦まで、日本資本の華北窒素肥料股イ分有限公司に勤務した。 |
1944(昭和19)年8月、太原日語専科学校を卒業した李さんは、学校の紹介で大手の山西産業株式会社に入社した。しかし李さんはそこを二週間もしないうちに辞めてしまう。仕事内容がとても退屈だったのと、同じ課の日本人社員の一人が李さんに対して露骨に嫌がらせをしたためだった。
会社を辞めようかどうか迷っていた時、李という同学の青年にあった。彼は、太原の西を流れる汾河に工場を建設中の華北窒素肥料股分有限公司に通訳として就職していた。彼は、工場内に設置された少年工養成所の教員として、十六歳前後の少年工に対して日本語などを教えていた。結婚のため、故郷の天津に帰郷したがっていた彼は、「私が紹介するから後任として華北窒素に入ってはどうか」と李さんに勧めてくれた。彼の話を聞く限り、条件なども悪くはなさそうだった。
「慈牙拘」
しかし、李さんは「通訳」として就職することだけはできなかった。なぜなら、当時日本語の通訳は中国人の間で「慈牙拘」(*1)と呼ばれて軽蔑され、憎まれていたからだ。民族の裏切り者という目で見られていた。生活のために日本語をつかうとは言え、愛国心を持つ李さんにとって「慈牙拘」の汚名だけは耐えられなかった。このときはまだ病気で静養していた老将軍である父にも申し訳がない。
李さんはとりあえず神田先生に相談することにした。在学中、李さんたち問題意識を持つ学生を露骨に苛めたS先生は、「学校が紹介したのにすぐ辞めるなんてダメじゃないか。神田先生だって許してくれるはずがない」と言う。しかし、李さんはどうしても通訳での採用だけは避けたいと神田先生に訴えた。神田先生は李さんの話をずっとだまって聞いてくれた。そして、聞き終わった後にしばらく考えてこう言ってくれた。「わかった。じゃあとりあえずその会社に行って一緒に話をしてみよう」。
数日後、李さんは神田先生とともに華北窒素へ向かった。建設中の工場内に設置された仮事務所に通され、庶務課の課長で平沢さんという人が応対してくれた。神田先生は平沢課長に、李さんを通訳としてではなく、課員として雇ってもらえないかと頼んだ。話が進むうちに平沢課長は神田先生と同じく東京帝大を卒業した同学だったことが分かった。打ち解けた雰囲気のなかで平沢課長は、李さんを庶務課で採用することを約束してくれた。
その後、正式に山西産業株式会社を辞め、華北窒素に就職した李さんは約束通りに庶務課に配属され、深緑色の制服を支給された。袖には黄色の帯が縫いつけられていた。赤は部長以上、青は日本人職員、黄色は中国人雇員だった。
華北窒素勤務のはじまり
華北窒素肥料股イ分有限公司は、太原城から西へ四キロほどの汾河のほとりにある彭村に建設中の化学肥料工場だった。農業用肥料の硫安(硫酸アンモニア)の生産を予定しており、完成すれば化学肥料工場としては中国で最大の規模になると言われていた。北朝鮮の興南でも当時朝鮮最大の化学工場を建設した日本窒素が経営する日本資本の会社だった。そのため、多くの日本人技術者が派遣されて来ていた。この時点で、工場の大部分は建設中で準備段階だったが、すでに硫安製造の原料となる石膏の採掘は行われていた。当初は農業用肥料としての硫安生産を目標としていたが、のちに設備を整えて軍需用のダイナマイトの生産も計画していたという(*2)。
庶務課に配属された李さんは、最初は靴の配給や机の貸し出しなどの仕事をしていた。その後、李さんを会社に誘った李が予定通り会社を辞めると、少年工に日本語を教えることのできる中国人職員がいなくなった。その役目は自然と李さんにまわってきた。李さんは少年工養成所に移動となった。
"愛国的"社内研修
養成所では十六歳前後の少年工十五人ほどに対して、日本語を中心に歴史や国語、日本式の礼儀などを教えていた。職員は李さんの他に中国人が一人と、日本人社員の三人。皆同じぐらいの年齢の若者だった。日本人はHという青年だった。なんでも庶務課の係長に彼の兄がいるそうで、そのためか仕事は結構いい加減にやっていた。彼はいつも「イヤー李さん、疲れたねえ」と言っては椅子で寝ていて、夜になると工場内にある日本人職員専用の倶楽部へいそいそと遊びに行っていた。しかし憎めない性格だった。
李さんは、少年工に対して、日本式の仕事の仕方を教える一方で、中国の歴史を中心として祖国に愛国心を持つように教えた。たとえ身体は日本企業で働いていても、心だけは中国人としての誇りを失ってはならない。李さん自身の信念からだ。もちろん、日本人職員にあらぬ誤解をされないように気をつけた。李さんの歴史の話を聞くとき、少年工たちの目は輝き、いきいきしてるようだった。
半年後、少年工たちへの社員研修も終了した。彼らは工務課のなかの事務、採掘、場内機関車の機関士などにそれぞれ配属された。しかし、配属当初は工務課の日本人職員の中に中国語が分かる者がいなかったために仕事がはかどらず、しばらく李さんが通訳として工務課に出向かなければならなかった。工場と石膏採掘場所の西山は四キロほど離れていたから、文字通り通訳に駆けずり回ることになった。
しかし、李さんは通訳だけはどうしてもいやだった。神田先生も李さんの気持ちを理解してくれて、李さんを通訳として使わないように再度会社に頼んでくれた。結局、少年工が仕事に慣れると、ようやく李さんは通訳業務から解放され、庶務課に戻れることになった。
工場での生活と日本人の思い出
工場の寄宿舎に住んでいた李さんは、毎週土曜日の午後五時に出るトラック便に乗って恋人の高さんに会いに行き、翌日の日曜日に午後のトラック便で戻るという日々を送っていた。そのため平日の夜は暇だった。自然と独身同士、Hと一緒に食事をしたりして過ごすことが多かった。彼は仕事はいいかげんだったが性格は良く、いつの間にか気のおける間柄になっていた。
その後Hが帰国し、李さんも庶務課へ復帰すると、倉園さんという人が係長としてやって来た。とても立派な人格の持ち主で、率直に物事を言う人だった。李さんはすぐ彼を好きになった。あるとき仕事が終わって一緒にいたとき、うち解けた雰囲気のなかで倉園さんが言った。「こんな御時世じゃ好きな洋服を着て街も歩けない。着て良いのは国防服だけ。やっぱり戦争はだめだねえ」。中国人である李さんにとって、数少ない本音で話ができる日本人のひとりだった。
また工務課の池田さんという人も印象深い。のちに彼は終戦後もしばらく太原に残って李さんと一緒に残務整理をすることになったが、最初に知り合ったきっかけはひょんなことだった。ある日、庶務課を訪れた彼は李さんに、郵便局で日本向けの送金手続きの期限がいつか聞いて欲しいという。李さんはとぼけて、「『キゲン』って何ですか?」と聞き返した。池田さんは訝しげに「君は日本語が分からないのか?」と聞く。それに対して李さんは「私は通訳できるほど日本語ができませんので」と答えた。李さんは普段から「通訳だけはいやだ」と公言していたから、その徹底振りを自分で皮肉った冗談には池田さんもおかしかったようだ。これ以降、二人は仲良くなった。
しかし、中には悪いのもいた。陸軍の予備役少尉だった工場警備隊のNは乱暴だった。一度、車庫のガソリンが紛失したときには李さんの知り合いの運転手が疑われ、三日間もの間、木棒で殴られて尋問された。結局なにもでなかったが、殴られた運転手はしばらく歩けないぐらいだった。
敗戦の雲行き
華北窒素は、最初のうちは器材が内地や朝鮮の興南工場から送られてきていたが、戦局の雲行きが怪しくなってくると器材の搬入も停まり、そのうち日本人技師も帰国していった。ただ、産出していた石膏だけはどんどん送られていった。軍にセメント用として卸していたようだ。
このころになると、太原付近の中共軍の活動も活発化してきていた。周辺の日系工場は軒並み攻撃を受けていた。しかし、なぜか華北窒素だけは攻撃されなかった。そんななか、華北窒素も一度だけ攻撃を受けたことがある。終戦直前の1945(昭和20)年の夏、太原に米軍の戦闘機が飛んできて、工場に爆弾を落とし、機銃掃射をする事件が起きたのだ。何でも工場の上空を通過したときに、警備隊の隊員が小銃を撃ち、それに対して戦闘機が旋回してきて機銃掃射をしていったという(*3)。
このとき李さんは、空襲警報のサイレンを聞くや否や、仕事を全部放り出して、誰よりも早く真っ先に裏の農村へと逃げ込んだ。空襲があった時には裏の農村へ逃げ込もうと、脱出経路まであらかじめ考えていたのだ。「日本人なら逃げたら恥だが自分は中国人。中国とアメリカが団結して日本と戦っているのに、その友軍の空襲で死んだら無駄死だから」だ。
そんな李さんを見て、人格者の倉園さんは笑いながら言った。「李さんはよおく逃げるねえ」。しかし、倉園さんの言葉に、李さんはただ笑いを返すだけだった。信頼している倉園さんだけでなく、神田先生にも父が何者かを含めて一切秘密にしていた。日本人と中国人の間に信頼の情だけでは埋めることの出来ない大きな溝が戦争で出来たのだ。夏の暑い日、日本の無条件降伏はすぐそこに迫っていた。
終戦後の残務整理
8月15日。日差しがまぶしい夏のある日。工場で勤務するすべての職員が広場に集まり、天皇の玉音放送を聞いた。すべての動きが止まった静かな工場内で、詔勅を朗読する天皇の声だけがラジオから響いてくる。雑音がひどくて聞き取りづらかったが、雰囲気で終戦の詔勅ということだけは分かった。皆黙りこくって、静まり返っていた。日本人職員のなかには涙を流している者もいた。そんななか、李さんは感慨無量の気持ちだった。祖国中国がやっと他国に蝕まれずに、米英ソの列強と肩を並べるときがきたのだと思った。また、1938(昭和13)年以降、第二戦区で軍務に服していた二兄の応瑞さんにもやっと会えると思うと嬉しかった。
それからしばらく、李さんは工場の残務整理に追われた。日本人職員の帰国や閻錫山軍による接収に備えるためだった。しかし、日本人の多くは動けないので人手が足りなくて忙しい。そんななか、工務課の池田さんは今まで通りここで石膏の採掘を続けたいという。何でもここで産出する石膏は純度が95%というまれにみる高品質で、工場をつぶすのが惜しいという(*4)。池田さんの技術屋としての熱い思いに、李さんも心を動かされた。忙しいなか、池田さんとともに報告書を作成し、それを閻錫山軍の接収責任者に送った。しかし何の音沙汰もなく、そのうち国共両軍の戦闘も始まってしまい、池田さんもやむなく帰国することになった。太原を出発するとき、池田さんは李さんに愛用のアコーディオンをプレゼントしてくれた。
閻錫山軍が進駐して来る前、撤退してきた日本軍部隊が工場に来たことがあった。彼らは工場内で簡単な舞台を作って歌舞伎をやった。帰国を待つ兵隊や職員への慰問の意味もあったようだ。李さんも招待されて鑑賞した。初めて接する日本の伝統芸能に大いに興味をそそられたという。
しばらく経つと、太原在住日本人の日僑収容所への収容が始まった。神田先生も収容されたが、戦後の食糧事情の悪化で所内の食事が悪かった。そこで、李さんが外に連れ出して食事をごちそうしたり、帰国の時にも餅を渡したりした。やがて神田先生は、他の日本人とともに列車で天津へ向かい、そこから船で日本へ帰国されていった。
工場では閻錫山軍から将校が数人派遣されてきて、接収作業が始まった。しかし、ここで石膏の採掘を続けたいという池田さんの情熱も虚しく、接収された工場の備品や物資の多くは闇市へ流され、すべて軍人の"条子"(布きれ)、"房子"(家)、"車子"(自動車)に化けてしまった。腐敗したその姿を見て、李さんは今後あらゆる政治活動に参加しないと心に決めたという。
新中国の成立
第二次世界大戦が終わって二年後の1947(昭和22)年、李さんは高さんと結婚し、北京へ移った。その後、国共内戦が本格化すると太原に帰郷できなくなってしまった。生活基盤のない北京での苦しい生活がはじまった。夫婦で力を合わせ、中古自転車の販売など、あらゆる商いをした。その後1949(昭和24)年1月、中共軍によって北京が無血開城されると、李さんは華北大学に進学し、中共の活動に参加することになった。すぐに西安の中共中央委員会西北局に派遣された。粗末な軍服で、毎日の食事は小米(粟粥)だけだった。西北局での勤務は、1951(昭和26)年3月まで続いた。
西北局での勤務は苦しかったが、李さんはそこで共産党というものをはじめて知った。とりわけ、西北局の局長だった彭徳懐将軍の清廉さに強い印象を受けたという。こんなエピソードがある。
あるとき、局で管理している作物の生産で豊作のために計画よりも多く収益が上がったときがあった。このとき、生産課と総務課の課長が相談しあい、彭将軍の健康のために食事の材料を良くした。良くしたといっても、もともと小米(粟粥)だけだったものに、なにがしかの野菜の漬け物などを加えたに過ぎない。しかし食事を変えたその日、彭将軍はふたりを執務室に呼びつけた。彭将軍は、ふたりに対して食事の材料を変えたことの訳を聞いたのち、こう言ったという。
「君たちの気持ちはとてもありがたい。しかし、私の生活費は人民大衆の懐から出ている金だ。無駄遣いをしては申し訳ない。たとえそれが微々たる差であってもだ。今日からまた元の食事に戻して下さい」
このとき李さんは総務課に勤務していたが、彭将軍の執務室から帰ってきた総務課長の張課長が皆を集め、感激した面もちで詳しく話してくれた。腐敗した閻政権の姿を見て政治に幻滅していた李さんも、この話を聞いて"彭老総"(彭総司令)への尊敬の念が強まったという。
その後、太原に戻った李さんは体育関連の仕事に就いた。しかし時間のあるときには、太原戦犯管理所に収容されていた日本人戦犯の供述調書の翻訳なども頼まれた。供述の内容は忘れてしまったが、河本大作夫人の弟にあたる人の調書を翻訳した記憶があるという。
1970(昭和45)年、文化大革命のとき、日本語通訳をしていたことを糾弾され、労働改造という名の強制労働に送られることになった。現在の長治市のあたりの農村に送られることになった。通訳として働いたのではないという李さんの訴えも聞き入られることはなかった。もう生きて家族と会えることはないだろうと覚悟を決め、最後の記念にと家族全員で写真を撮った。悲壮な覚悟をぐっと心の奥底に押し込み、自然な表情でカメラのフラッシュを浴びた。その写真を懐に、李さんは労改先の農村へと向かった。

李献瑞さん夫妻と息子たち。文革で農村へ送られる前に
最後の記念にと家族全員で撮影したときのもの。太原で1970年に撮影。
労改先の生活環境はひどいものだった。そこでの一番のごちそうは農民が食べないトウモロコシだった。「トウモロコシは家畜の餌」だったからだ。毎日、高梁麺や緑豆の粥、ひどいときには粟の皮の粥などで、しかも太原での配給量の半分にも満たない量だった。空腹を我慢しながらの慣れない農作業。農村での「労働矯正」は五年にも及んだ。
1976(昭和51)年、ようやく生きて太原に帰ってきた李さんの耳に入ってきたのは、四年前に国交回復をした日本との民間交流の興隆だった。日本語版の「人民中国」やラジオ放送を使って一生懸命に勉強をはじめた。忘れかけていた日本語が徐々に蘇ってくるのを感じた。

李献瑞さん夫妻。1980年代に太原で撮影した写真。
1984(昭和59)年、六十歳の初老を迎えた李さんは、自転車競技の交流代表団の責任者として初めて日本を訪問した。日本のとある博物館で、唐代に中国から日本に渡った一級文物が国宝として大切に保管されているのを見た李さんは、「一衣帯水」の両国関係を自らの人生と重ねあわせて深い感慨を憶えた。そして、三十年ぶりに李さんを待っていたのは、尊敬する神田秀夫先生だった。

