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李さんの故郷、石門村は日華事変前に共産党支配下に入った「老解放村」。日華事変以降は敵性地区内の中共拠点として日本軍の討伐を受け、その度に村から避難した。
1942(昭和17)年より中共の抗日学校に入校。日本軍の討伐を避けて移動を続ける学校生活のなか画を学ぶ。勉強のかたわら、農作業や地雷製作なども行った。同学も数名、命を落とした。 |
李夜冰さんは、1931(民国20年=昭和6)年生まれ。幼い頃から絵に親しみ、油絵を経て、水墨画で斬新な色使いが特徴の独特の画風を築いた。山西省国際交流画院の院長を務め、過去にロンドン、神戸、東京、香港、マカオなどで個展を開催し、海外からも非常に高い評価を得ている。今日では中国山西省を代表する水墨画家だ。

李夜冰さんの故郷・石門村附近の様子。
太行山脈の中にある山深い山村に生まれた。(石門村,1997年)
李さんの故郷は、山西省と河北省の境、太行山脈の山奥深くに位置する測魚鎮石門村。村は当時一百世帯三百人ほどの小さな村だった。李さんの父の名前は李子厚さん。村民のほとんどの姓は李で、村の土地の約三分の二以上の土地を父が所有していた。いわゆる「地主」だが、むしろ村老と呼んだ方がしっくりくる。
李さんが四歳のころ、1935(昭和10)年くらいから、李さんの村に共産党が進出してきた。貧しい山村だ。父は共産党を受け入れた。「革命」に希望を抱いていたのか、当初から積極的に協力して労苦を惜しまなかったという。そのため、彼らの信頼を得たという。
日華事変の勃発
それから二年後の1937(昭和12)年7月、日中両軍が武力衝突し、戦争が始まった。瞬く間に周辺地域を制圧した日本軍は、10月初めより、河北省の石家庄から山西省に侵攻してきた。そして娘子関を日本軍が占領した10月26日と28日の両日、石門村の隣の七亘村で、中共軍が日本軍を待ち伏せ攻撃して勝利をおさめる出来事が起きた。これを中国側では「七亘大捷」と呼び、平型関の戦い以来の二度目の中共軍による勝利として喧伝された(*1)。
この「七亘大捷」の二日前のこと。石門村に日本軍が近づいてきたため、李さん一家は隣村の父の親族とともに避難することとなった。まだ六歳だった李さんは、大人に抱き抱えられて避難することになった。一行は必要な荷物を手に、避難先である昔陽県の人家脳村へと出発した。この際、既に前方に日本軍が来ているかもしれないため、三十歳前後の村民の男性が安全を確かめるために先に出発した。
一行が村を出てしばらく行くと、先ほど村を出た彼が布団を腹に捲いて戻ってきた。布団が血だらけだ。腹から血を流していた。聞くと、道を歩いていたら日本兵に出会い、いきなり腹を銃剣で刺されたという。布団を傷口に捲いて止血しながら必死に逃げ戻ってきたところに一行と出会ったのだった。左腹から右腹にかけて突き刺されて重傷だったが、幸いにも死には至らず、避難先での介抱によって徐々に傷も快復していった。そして昔陽の人家脳村へ着き、しばらく経つと、戦闘も終結したとの情報が耳に入ってきた。そこで一行は村に戻ることに決めた。
(*1)「七亘大捷」についての詳細はこちらのコラムを参照。
日本人の顔は黒い?
人家脳村から石門村へ戻ると、村の入り口にあった石門が破壊されていた。村名の由来になっていた昔からある見事な石門だった。村に残っていた人の話によれば、日本軍が石門村を通過した際、爆薬で破壊したという。荷物を家に置いて一段落すると、村民たちは戦闘があった谷の方を見に行ってみた。李さんも家族に連れられて見に行った。
谷にはまだ日本兵と思われる遺体が何体か残っていた。戦闘が終結してから少し日が経ったためか、遺体は腐敗し始めていて、みな顔が黒くなっていた。このとき李さんは子供心に「日本人というのは顔が黒いのか」と思ったという。日本軍が遺棄していった駱駝や馬もまだそのままだった。村民たちは死んだ軍馬を村に運び、それぞれの家庭に解体して分けて食べたという。
日本軍の攻撃対象となった「老解放村」
日本軍が石門村を通過して以降、周辺の村々はすべて一応は日本軍の勢力圏内に入ったかたちになった。しかし、その殆どの村が、昼は出動してきた日本軍が休息し、反対に夜は進出してきた中共軍が駐屯するという二重の顔を持っていた。そのため、大概の村では村長にどちらにも顔の効く人が選ばれていた。しかし石門村だけはそのようなことがなかった。中共勢力下の完全な「解放村」、しかも戦前から中共支配下にある「老解放村」だったからだ。

李さんの息子夫妻と石門村を訪れた際に村長宅にて。(石門村,1997年)
そんな石門村への日本軍の討伐は厳しく、二日~三日に一度、多いときは一日に数回も日本軍がやってきたという。そのため石門村では、普段は山の上に交代で見張りを立てておき、日本軍が来るとすぐ村に知らせるようにしていた。そして村民は大きな麻袋を用意し、あらかじめその中に服や貴重品などを入れてすぐ持ち出せるようにしていた。このような対策によって、石門村では地元"漢奸"の手引きで日本軍が村にやってきても、日本軍が到着する前にはすでに村民全員が山の中へ避難することができていた。
しかし、しばらくすると、日本軍は直接村に来るのではなく、周囲の山に部隊を展開して退路を断ったのちに村へ入って来るようになった。そのため、1938(昭和13)年のある時には、日本軍の襲来にほとんどの村民が避難できたが、逃げ遅れた老婆三人のうち二人が殺害される痛ましい出来事があった。ふたりの老婆は避難するのが間に合わず、仕方なく自宅の裏の墓の中に隠れたようだ。村にやってきた日本兵は、村中をくまなく探し、やがて墓の中に隠れていたふたりを見つけた。日本兵はふたりを墓から引きずり出すと、彼女らを銃剣で刺し、その後、村の各家にガソリンを撒いて火を放っていったという。山の上から一部始終を見ていたという村民の話だ。
石門村はすべての住居が「窯洞」だった(*2)。そのため、普通に火を放っても十分ではないと考えてガソリンを使ったのかもしれない。火を放たれた屋内は完全に燃やされ、住居そのものも痛んでしまい、住めなくなった。石門村の村民はみな家をなくし、一から再建したという。
1940(昭和15)年に入ると、中共根拠地として有名な測魚鎮に対する日本軍の討伐もますます厳しくなった。次第に飛行機による偵察や爆弾投下と連携した攻撃もしばしば行われるようになった。当時の石門村には、抗日政府の県長が三人も住んでいたから大変だ。日本軍は石門村めがけて山の上から包囲して攻撃してきた。
ある時、犬をつれて山へ逃げた村民のひとりが、自分の飼い犬の鳴き声で日本兵に隠れているところを見つかって亡くなった。このため、抗日政府の方から安全のために村のすべての飼い犬を処分するようにとの指示が出た。それくらいに日本軍の討伐が激しかった。石門村では八年間の戦争中、日本軍の攻撃によって数名の村民が亡くなり、六人ほどが行方不明になっている(*3)。
(*2)「窯洞」は中国語でYao Tong(ヤオトン)と読む。山の斜面に横穴を掘り、半円形の内部に内装を施した住まい。険しい山岳地帯の地形を生かしており、寒暖差の激しい山地において、夏は涼しく、冬は暖かい構造になっている。
(*3)石門村付近は深い山奥にあってゲリラの活動に有利で、北約七十キロの井径には良質の石炭を産出する井径炭坑(井径新坑、井径本坑、陽井炭坑の三つ)があったことから、日本軍の討伐は激しいものとなった。特に1940(昭和15)年の夏から秋にかけては中共の「百団大戦」によって日本側の損害が続出、井径炭坑では設備が徹底的に破壊されたため、日本軍も付近一帯の警備・討伐を強化した。
(*3)石門村付近は深い山奥にあってゲリラの活動に有利で、北約七十キロの井径には良質の石炭を産出する井径炭坑(井径新坑、井径本坑、陽井炭坑の三つ)があったことから、日本軍の討伐は激しいものとなった。特に1940(昭和15)年の夏から秋にかけては中共の「百団大戦」によって日本側の損害が続出、井径炭坑では設備が徹底的に破壊されたため、日本軍も付近一帯の警備・討伐を強化した。

