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1939(昭和14)年冬、臨汾市郊外で起きた黒龍関の戦闘で小隊を率いて参加した。中共入党後、 「晋西事件」では中陽県で偽装暴動を企画、中共根拠地へと向かう途中に日本軍に捕まり、太原の捕虜収容所「工程隊」に収容された。
釈放後は中共党員としての身分を隠して親日政府の軍司令部に参謀将校として所属、終戦後は閻錫山軍に参加した。 |
山西省寧武県出身の李さんは、中学校を卒業後、日華事変勃発を四カ月後に控えた1937(昭和12)年3月、山西軍に入隊した。李さんの入営先は山西省国民兵軍官教導団歩兵科第九団。士官候補生として入隊したこの時、李さんは二十歳の青年だった。国民兵軍官教導団は名前の通り、初級将校を養成することを目的とした部隊で、一団が約二千人ほど、十個団編成の部隊だった。部隊は当時忻県に駐留していた。

李樹徳さん。文史研究員の張全盛氏宅にて。
筆者がお話をうかがって半年後に亡くなられた。80歳だった。(太原,1997年)
李さんが教導団に入隊して四カ月後の7月、北京郊外の廬溝橋で日中両軍の武力衝突が起き、戦争が勃発した。この時、李さんは日中開戦の報を聞いて「今こそ我々が命を懸けて戦わなくてはならない」と祖国防衛の理念に燃えたという。
日本軍の侵攻に中国軍は撤退に次ぐ撤退を余儀なくされた。忻口戦役を目前に控えた9月、忻県に駐屯していた第九団は、教育訓練を終了し、三個大隊総員二千人前後の山西抗日決死第二総隊に改編された(*1)。李さんも総隊の一員として実戦に参加することになったのだ。実際にはその後、部隊は戦火から移動し、訓練と遊撃体制の確立を行ったから、李さんの初陣は2年後を待たなくてはならなかった。
翌10月、部隊は太原失陥後を見据えた抗戦計画に基づき、山西省中・南部へと移動を開始。霍県と趙城県に移動した。そして部隊が隰県の泉子坪村に駐屯していたとき、李さんは共産党に入党した。
(*1)李さんが所属した国民兵軍官教導団は、大学専科以上の学生、各県村政協理員の軍事訓練のために、1936(昭和11)年秋に太原で組織された。一個団は三個連(中隊)から成る営(大隊)三個の計九個中隊で編成。翌1937(昭和12)年の段階で訓練は終了していなかったが、同年中に一部を山西青年抗敵決死隊と軍士団に改編した。このうち山西青年抗敵決死隊は、当初より中共の影響下にあり、のちの「晋西事件」中共の支配下に入る山西新軍の母体だった。詳しくはこちらのコラムを参照。
共産党への入党
李さんの教導団の同学に、仲のいい宋誠英さんがいた。宋さんは李さんより二歳年上。彼はこのときすでに中共に入党していた。宋さんは李さんに、しばしば中共の理念を語ったり、延安の解放日報社が発行している雑誌を渡してくれたりしていた。李さんは宋さんの熱意のこもった話や雑誌を通して、中共が主張する救国の理念に共鳴し、次第に入党を希望するようになっていた。 そして1938(昭和13)年旧暦の正月15日(太陽暦で2月14日)のことだった。その晩、李さんは宋さんに外に連れ出された。そして村はずれの農作物が集積されたところで宋さんは周りにだれも居ないのを確かめると、李さんに言った。「今日、君が入党するのを認める」と言う。李さんは内心うれしかったが、「私はまだ学習水準が低いから、資格はないのではないか」と聞いた。すると宋さんは「これから一生懸命勉強して、がんばるんだ」と言う。そして宋さんの言うとおりに、「自分は党に自ら望んで参加する。共産主義を生涯奉じ、党規を守ることを誓う」という意味の宣誓をした。宋さんは「君は今日から共産党員だ」と言ってくれた(*2)。
(*2)李さんの党籍と功績は戦後長い間認められず、貧しい生活を余儀なくされた。詳しくはこちらのコラムを参照。
黒龍関の戦い
入党後しばらくして中尉に任官していた李さんは、すでに総隊(団)から縦隊(旅)に拡充されていた第二縦隊が新たに編成した遊撃第五団に新米小隊長として配属された。第五団第三営第九連第一排長(日本式では遊撃第五連隊第三大隊第九中隊第一小隊長)が李さんの官職だった。そして翌1939(昭和14)年1月、十五人の部下を率いて初陣に望んだ。臨汾の西北約三十キロの黒龍関附近で、日本軍と銃火を交えたのだ。このとき戦った日本軍は、臨汾に駐屯していた第百八師団歩兵第百十七連隊に所属する二個大隊だった。この部隊は、臨汾から西南方面へ出撃した作戦を完了して帰還してくる際に、李さんの属する遊撃第五団の待ち伏せ攻撃を受けた(*3)。
遊撃第五団は黒龍関に進出後、関の南北両側を見下ろす形で西山に陣取っていた。ここは射界が開けて見晴らしが良かったため、部隊はトーチカを設置し、塹壕を張って陣地を構築していた。李さんの排は陣地の前方に位置していた。十五人の部下のうち、三人は機関銃手で、残り十二人が小銃手。機関銃は中国製チェコ機関銃で、小銃は日本の三八式小銃をモデルにした六五歩槍。小隊長である李さんは「盒子槍」と呼ばれていた中国製モーゼル拳銃を手にしていた。
(*3)黒龍関での戦闘は、第一軍が閻錫山の帰順工作進展のために1938年(昭和13)年12月末より翌年1月初旬まで行った陽動作戦「吉県作戦(秘匿名:S号作戦)」の終わり頃に起きた。黒龍関附近を進撃したのは、第百八師団佐伯支隊の高樹喜一連隊長率いる歩兵第百十七連隊の二個大隊。高木隊は1月5日に大寧を出発、蒲県を経て、黒龍関で銃火を交えたのち、10日に臨汾に帰還した。黒龍関での戦闘は、日本側の戦闘要報にも記載されている。「佐伯支隊ハ...十日襄陵平地ヲ掃蕩シツツ臨汾ニ帰還集結ス 此間黒龍関原上附近南窰村牛王廟附近ニ於テ夫々相当有力ナル残存匪団ト交戦シ克ク之ノ敵ヲ掃蕩ス」とある。
攻撃開始
その日は薄曇りだった。まだ防寒用の外套が支給されていなかったから、陽が高く上がった午後一時過ぎになっても寒かった。突然、伝令が日本軍接近を伝えてきた。李さんは山の上から双眼鏡を使って様子を窺った。しばらくすると、日本軍が一列に隊列を組んでやってきた。作戦からの帰還でホッとしていたのか、日本軍は待ち伏せに気付いていない様子だった。李さんは双眼鏡を覗きながら内心ほくそえんだ。
日本軍の先頭が陣地から一キロの距離に近づいたとき、一斉攻撃の命令が下った。山の上に展開していた遊撃第五団は、一斉に射撃を開始した。山の上から日本軍に向けて銃弾が雨霰のごとく降り注いだ。
突然の攻撃に、日本軍は一時混乱に陥ったように見えた。しかし、すぐに体制を立て直し、大砲も使って応戦を始めた。一キロ離れた日本軍と中国軍の間で激しい戦闘が始まった。銃弾が飛び交い、砲弾が陣地に着弾する。うねりをあげて飛んできた砲弾が着弾すると、爆発音とともに地面と空気から激震が伝わってくる。
硝煙と土煙のなか、李さんの目にチラッと日本軍部隊の中に旗が立てられているのを見た。そこで李さんは全員に命令した。「他のところは射撃しなくていいから、あの辺りに向かって一斉射撃しろ」。一斉に射撃を始める。すると、銃弾による砂煙の中で、旗の周りに居た数人の日本兵が倒れたのが確認できた。
催涙ガス
戦闘が始まって一時間ぐらいしたころ、急に李さんの排全員に異常が襲った。皆の眼が激痛に見舞われ、涙が止まらなくなった。あまりの激痛と涙で目も開けられない状況に陥ったのである。大砲を使って打ち込んだのか、それとも手榴弾のようなものを使って撒いたのか分からない。しかし、日本軍が風上から催涙ガスを用いたのだとすぐ気づいた。しかし、このとき李さんの部隊に防毒面は支給されていなかった。苦しいなか、藁をも掴む思いで地面に少し穴を掘り、小便と土を混ぜてそれを鼻に詰めたが何の効果もない。幸い風が少し強かったためにガスが拡散したのか、眼の激痛も二十分ほどで収まった(*4)。
それから三~四時間ほどすると、陽が落ちて空が暗くなってきた。それに伴って、日本軍の方が臨汾に撤退を開始したようで、激しい戦闘も徐々に沈静化していった。暗くなって日本軍の撤退が確認されると、戦闘終了が宣言された。激しい銃砲撃、催涙ガス、それ以前、その後に李さんが経験した戦闘の中でも最も激しい戦闘だった。李さんの排だけで弾薬約六千発を使用していた。後に団の発表で、この戦闘における日本軍の損害は戦死傷二百人前後、対する第五団は戦死十数人という快勝だった(*5)。
しかし、第五団の戦死者のうち、その内の二人が李さんの第一排に所属していた部下だった。ひとりは入隊して数年の古参兵で、もうひとりは入隊したての新兵だった。ともに銃弾ではなく砲弾にやられた。この時、ひとりは即死だったが、もうひとりは砲弾の破片を受けて負傷し、後方に搬送している途中に亡くなった。ふたりとも二十歳前後の好青年だった。
戦闘が終わって日本軍のいた場所に行ってみると飯盒が落ちていた。三つほど拾って排で使用することにした。中蓋のある二重構造で、食器として使えるほか、炊飯と副食の調理が一回でできた。非常に便利で李さんは感心したという。
(*4)このときの催涙ガスによる攻撃は、日本軍が事前に準備して行った攻撃だった。詳しくはこちらのコラムを参照。
(*5)日本側の史料によると、S号作戦全体での損害は、戦死六十七、戦傷百二十四だ。李さんが部隊上層部から聞いた戦果は、多少の誇張が含まれていたようだ。
(*5)日本側の史料によると、S号作戦全体での損害は、戦死六十七、戦傷百二十四だ。李さんが部隊上層部から聞いた戦果は、多少の誇張が含まれていたようだ。
「晋西事件」と武装蜂起
黒龍関の戦闘から一年後の1939(昭和15)年冬。閻錫山は中共影響下にある山西新軍の武力解体に乗り出した。「晋西事件」の発生だ。新軍解体の最初の矛先は、李さんの属する青年抗敵決死第二縦隊だった。閻軍は11月から第二縦隊支配下の中共拠点を急襲して中共党員を逮捕するとともに、第二縦隊を第一線に編入して抗命罪の適用を企図、12月には武力鎮圧に乗り出した。
晋西事件が発生したとき、李さんは陝西省宜川県の秋林の地にいた。蒋介石が廬山で初・中級将校を対象に行っていた集中訓練「廬山集訓」を真似て、前年11月から閻錫山が始めた「秋林集訓」を受けていたためだ。このとき秋林で集中訓練を受けていたのは、第二縦隊の初・中級将校の一部。閻錫山は晋西事件発生とともに、訓練中の第二縦隊将校全員を勾留したのち、彼等の懐柔に乗り出したという。全員の階級を特進させ、各機関の幹部に任命した。秋川に駐留していた第二縦隊幹部訓練隊は自然消滅した。中共シンパの薄一波将軍が手塩にかけて育てた第一縦隊に比べ、第二縦隊では中共の影響力も完全には浸透していなかったようだ。
中共との連絡も絶たれた李さんは、表面上は懐柔に応じて周囲に同調する姿勢をとりつつ、機が熟するのを待つことにした。李さんがふたたび党と連絡をとれるようになったのは、それから約二年後の1941(昭和16)年春、日本軍の捕虜として第一軍の収容所である「工程隊」に収容され、顔見知りの党員に出会ってからだった。
第二縦隊は消滅し、所属将校は全員各地の部隊や諸機関に移動となった。李さんは中陽県に派遣され、県の民兵で組織された国民兵団団副(副連隊長)の任を受けた。階級は少校(少佐)に昇進した。副団長として中陽県に赴いた李さんは、さっそく党員としての活動を開始した。民兵ひとりひとりに中共思想を吹き込み、ある程度メンバーが集まった段階で武装蜂起によって一気に中共根拠地へと向かうことを画策したのだ。計画はほどなく実行に移された。1941(昭和16)年の春、李さんは偽装暴動を起こして、それに乗じて県公安局から武器を強奪した。数十丁の小銃を捕獲し、すぐさま晋西の中共根拠地へと向かった。しかし、根拠地へと向かう李さんらを閻軍が追撃してきた。やっとのことで閻軍の追撃を振り切り、汾陽から離石に通じる道を移動していたとき、今度は運悪く日本軍に遭遇してしまった。李さんは他のメンバーとともに捕らえられてしまった。
日本軍に捕まった李さんは、太原に移送された。そして当時第一軍に組織された「工程隊」に送られた。工程隊は、名前こそ捕虜による土木作業隊を意味するが、実際には内部の待遇は惨憺たるものだったという。支給される食事は「腐りかけの野菜汁」と毎日二百グラム前後の「カビの生えた高梁」。医務室は捕虜の国民党の軍医に担当させていたが、医薬品はなかった。毎日数人、最も多い日には約六十人の収容者が伝染病などで亡くなっていたという。
この収容所で、李さんはかつての上官で秘密工作員だった劉侵霄さんと出会う。そして彼と他の党員とともに地下活動を展開する。収容者を団結させて待遇向上を要求するとともに、収容者に対する政治教育を展開した。このときの工程隊の様子や李さんの活動については、劉侵霄さんの筆による回想録が詳しい(次ページで紹介)。
8月15日
1945(昭和20)年8月、工程隊での活動を経て、李さんは親日政府軍に参加していた。蔡雄飛が司令を務める山西省保安隊の司令部が太原にあり、そこの司令部に少校参謀として勤務していた。しかし実際には、李さんは中共の晋綏軍区政治部に属する地下工作員だった。山西軍での階級と同等の待遇を保障するという誘いに乗り、工程隊を出所して参謀として保安隊司令部に潜り込んだのだった。そして敵軍の情報を収集するとともに、中共の浸透活動に力を注いでいた。
8月15日、李さんは太原の司令部内で日本敗戦の報をラジオで聴いた。この時、司令部にいた下級将兵達は「やっと戦争が終わった」というようなほっとした顔をしていた。それに対して対照的だったのが同僚の将校達だった。彼らはこれから日本の手先となった「漢奸」として裁かれるのではないかと、心配そうな顔をしていたのが印象に残っている。
李さんは終戦後も中共党員として身分を明かすことなく、閻軍に復帰、とある部隊の団副(副連隊長)に着任した。一年後の1946(昭和21)年、李さんの部隊は、胡宋南が司令を務める国民党第一戦区に編入され、これに伴って李さんも部隊と共に西安に移駐した。李さんの秘密工作員としての活動は、新中国成立までその後3年間続いた。
1949(昭和24)年、新中国が成立し、李さんの秘密工作員としての活動も終わりを告げた。しかし戦前からの党籍と功績についての李さんの主張は認められることがなかった。李さんの党籍を証明できる人が皆亡くなっていたからだ。李さんは閻軍・偽軍(親日政府軍)に身をゆだねた者として、西安のとある工場の一工員に甘んじた。彼の名誉回復がなされたのは1987年まで待たなくてはならなかった(*6)。
(*6)李さんの名誉回復についてはこちらのコラムを参照。

