|
1940年(昭和15)2月、沁源県の自宅で長兄の結婚式を行っていた日に、親戚女性三人が日本兵に乱暴され、王さん自身は兄弟とともに約二週間の使役に狩り出された。
同年11月、村に討伐に来た日本兵に村民二人とともに至近距離から撃たれた。全治四ヶ月の重傷。残り二人は喉と頭部を撃たれて亡くなった。 1943年(昭和18)冬、中共党員としてゲリラ活動中に兄と仲間四人とともに日本軍に発見され、左肩を撃たれて全治一ヶ月の重傷を負った。女性一人は左腕を撃たれ、兄は銃剣で刺された。 |
長兄の結婚式での悲劇
1940年(昭和15年)年2月、旧暦の正月にあたる頃だ。その日は長男の王成虎さん(当時28歳)の結婚式だった。結婚式を祝うため、王さんの家族はもちろん親戚一同朝から集まり、花婿・花嫁の門出を祝っていた。集まった親戚の数はかなりのもので、王さん自身もどれくらいの人がいたか分からないぐらいの数であったという。
長兄が花嫁の自宅へ赴き、両親に三顧の礼をして花嫁を自宅へ連れてくる。そのあと、両家の親戚一同皆でお祝いをして、結婚式はとどこおりなく午前中に終わった。集まっていた親戚も昼過ぎになると郷里へ帰っていき、遠方から来た親戚約10人ほどが残った。
しばらくすると、結婚式の余韻もさめやらぬうちに村に日本兵が現れた。村から東へ約5キロほどの柏子鎮に駐屯していた部隊(*1)から来たようで、合計で16人いたという。彼らの目的は部隊移動の際の使役として、王さんたち若者を「苦力」(*2)として連れていくためだったようだ。
16人の日本兵のうち、5人が王さんの家にやって来た。彼等は王さんの家の門をくぐり、庭を通って家の中にまで無断で入ってきた。家の中には王さんの家族とともに、長兄の結婚を祝いに来ていた親戚女性がいた。3人の若い女性を見つけた日本兵は、着剣した小銃でみなを脅しつつ、彼女らを残して、王さん一族全員を家から追い出した。そして3人を家の裏手に連れていき、乱暴したという。
この時乱暴された3人の女性は、王さんの母の弟にあたる叔父の妻(当時20歳)、父の妹にあたる叔母の娘(当時15歳)、それに王さんの長姉の娘(当時15歳)だった。このうち、15歳の叔母の娘には村に婚約者の青年がいたが、この事件で婚約もうやむやになってしまった。日本兵による暴行と婚約解消の二重のショックで病気がちとなった彼女は、この事件の三年後に18歳の若さで他界したという。また叔父の妻だった樊××さんは、王さんに会った1994年の時点でまだ健在とのことだった。
(*2)「苦力」は本来は中国語で労働に従事する労夫のことを指す。「kuli(クーリー)」と発音する。日本兵の間では、日本軍の使役のために働く青壮年を「苦力」と呼び、強制的に彼らを集めることを「苦力狩り」と呼んだようだ。
使役への連行
女性たちを乱暴した日本兵は、再び王さん一家の前に姿を現すと、苦力として、当時まだ12歳だった王さんと、五兄の王昭さん(当時15歳)を選び出し、連れ出した。王さんと五兄が選ばれたのは、ふたりが兄弟のなかでも体が大きく、さらに五兄は王さんより数センチほど背が高かったために体格が良いと思われたようだ。この時、柏子鎮駐屯の日本軍は、周囲15キロ以内の各村から使役のための苦力として約30人ほどの青壮年を連行したという。

王亮さん(左)と紹介者の李献瑞さん(右)。職場である山西省体育運動委員会会議室で。(山西省太原,1994年)
王さんたちは、凍えるような冬の北風のなか、帽子も靴下も身につける暇もなく日本兵にせきたてられて村を出た。寒風のなか、王さんたちは村から西へ約15キロほど、県境を超えた安澤県の北平鎮まで連行された。当時北平鎮には100人ぐらいの日本軍部隊が駐屯していた(*3)。王さんたちはここで荷物を背負わされ、部隊とともに移動することとなった。南西に約20キロ離れた呂梁山の山頂まで荷物を運ぶのである。
広場での処刑
出発間際になって、日本軍は王さんら苦力一行を広場に集めた。広場には王さんたちを取り囲むように十六人の日本兵がいて、その前には丸太に縛り付けられた男性の姿があった。これから処刑するのだという。
男性は遠目に見て、五十歳ぐらい年頃だった。八路軍のスパイだったのか、普通の良民だったのかは分からない。出発前に逃げようとして捕まった。見せしめとしての処刑だという。
一人の日本兵が軍用犬を連れて現れた。四つん這いになった大人ぐらいの大きさの犬だった。日本兵は手綱を引いて軍用犬を男性の前に立たせると、一呼吸おいてその手綱を離した。その瞬間、狼のような犬が男性に牙を剥いて襲いかかった。悲鳴を上げる男性。男性の身体はみるみるうちに、血で紅く染まっていった。
軍用犬による「余興」が終わると、今度は二人の日本兵が銃剣を着けた小銃を持って現れた。日本兵は男性の前に立つと、着剣した小銃を構える。そして大きなかけ声を発したかと思うと、その男性に向かって銃剣を勢いよく突いた。
胸を刺された男性は、だらんと全身の力が抜けたように見えた。王さんには、この状態で男性がまだ生きていたかどうか定かではなかった。しかし今度は大柄の下士官のような兵隊が軍刀を持って現れたかと思うと、大きな声を出して、男性の身体を軍刀で突き刺した。
物音ひとつしない異様な雰囲気のなか、見せしめの処刑が終わった。
残雪のこる山道の行軍
各自数十キロの荷物を背負わされた王さんたちは、部隊とともに移動を開始した。安澤、洪同県を越えて蒲県の呂梁山の山頂まで、約20キロの行軍だ。しかし、王さんが家から持ってきた靴は、靴下を何枚も重ね着した上に履くように作られている冬用だった(*4)。家を出る際に日本兵にせき立てられて靴下を履くことを許されなかったために素足で履いていたが、大きすぎてぶかぶかだから歩きづらいことこの上ない。一度、靴を脱いで歩こうとしたが、数日前に降った雪がまだ残る石ころばかりの山道を素足でなど歩けるはずもない。靴を履いても歩きづらく、靴を脱いで歩くと足を痛める。結局、行軍に遅れがちとなり、それが日本兵に殴られる理由となった。
しばらく行軍すると休憩があり、食事をすることが許された。このとき、皆に弾薬箱に入った乾麺棒(カンパン)が支給された。これを川からくんできた水の中にいれて水分を含ませたのち、薪で燃やした火にくべて焼いて食べる。焚いた火の周りで寒さをしのぎながら、乾麺棒が焼けるのを待つ。しかし、このときまだ12歳だった王さんはお腹がすいて焼けるまで待つことが出来なかった。待ちきれずに水分を含んだ生のまま食べてしまったためにお腹をこわしてしまい、それがさらに行軍に遅れる原因になった。日本兵に殴られる回数も増えた。
休憩が終了して行軍が再開されると、母方の叔父に出会った。叔父も同じように村から連れてこられ、使役をさせられていた。叔父は王さんの足を見ると、そこら辺から綿や縄くず、ぼろ切れなどを見つけてきて王さんの靴に詰め込んでくれた。これで少しは歩きやすくなった。行軍にも何とか間に合うようになった。
十数日ぶりの帰宅
重い荷物を背負って山々を越え、やっとの思いで呂梁山山頂についた。山頂には40人ほどの日本兵がいた。これからどうなるのか不安が募る。すると五兄が王さんに向かって「逃げ出そう」とささやいた。しかし王さんは逃げようとして捕まれば殺されるのではないかと思い気乗りしなかった。結局、二人は逃げ出すことを断念した。
その後、王さんたちはしばらく荷物運びや何やら作業をさせられ、またもと来た道を戻ることになった。そうこうしているうちに、王さんと五兄のふたりだけが放免されることになった。王さんの母が治安維持会の知り合いを通して頼み込んだからだ。結局、王さんと五兄は合計四日間働かされただけで、ほかの人たちよりも早く解放されることになった。王さんたちは十数日ぶりに帰宅した。

