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1943(昭和18)年秋、沁水県で中共党員として活動中に日本軍の攻撃を受けた。銃剣で負傷し逮捕される。その際、少女一人を含む村人と党員の計五人が亡くなった。捕虜として移送中に集団で脱走に成功した。のち、遊撃隊を指揮してゲリラ戦を戦った。 |
徐一貫さんは、1911(明治44)年生まれ。戦争体験談をお聞きした時点で八十六歳だった。徐さんは高齢なこともあり、身体の調子が芳しくなかったが、事前に話の内容のメモ書きを作成して頂いたり、細かな質問にも快く応じていただいた。
1943(昭和18)年、秋から冬へと移り変わる季節のなかで、徐々に霜もおりはじめて寒さが身体にこたえるようになってきたある日のこと。徐さんは、山西省沁水県の南西部で陽城県との県境にある尖山渠という村にいた。この村は、中国共産党の晋冀魯豫解放区の太岳区に属する村で、太岳区の発行する新聞「太岳日報」の発行所が設けられていた。(*1)
この時期、日本軍は周辺地域で大規模な討伐作戦を実施しており(*2)、三日ほど前には、太岳日報の社長であった魏奉さんが電務員である張鈎さんとともに日本軍の攻撃を受けて戦死する痛ましい出来事があった。徐さんは亡くなった魏さんのあとを継いで社長に主任して、太岳日報の責任者となっていた。
太岳日報は、民衆啓蒙を目的として発行されていた中共発行の抗日新聞。二日に一度の隔日発行で、紙面の大きさは現在の「参考消息」ほどの縦七十五センチ、横五十センチ四方ぐらいだった。印刷には物資不足のために石を使用していたという。発行所は責任者である徐さんの下、総勢二十人ほどの陣容だったという。
(*1)晋冀魯豫辺区太岳区は山西省南部を所管する中共の行政区。党、軍、行政それぞれが各区画毎に組織された。尖山渠は中共拠点のひとつで、地図上には記されていない集落だったとう。
(*2)この時期、第一軍は、中共太岳軍区壊滅を目的とした「十八秋太岳地区粛正作戦」を実施した。この作戦は、支那派遣軍がこの年の8月に策定した「春季以降作戦指導大綱」で示した「本秋成ルヘク長期二亙リ組織的二共産軍ノ根拠ヲ覆滅セシム」方針に基づき、北支那方面軍が年度計画を強化修正したもの。期間は10月初めから一ヶ月間、参加兵力は第一軍隷下の三個師団全部(第三十七、六十二、六十九師団)と、主力を全投入した大がかりなものだった。この作戦以降、中共軍の活動は相当低調になったという。本作戦は四期に分けられ、第三期では、翼城―沁水―瑞氏鎮―高平以南、絳県―陽城―澤州以北の地域で作戦が実施されている。徐さん体験談は第三期作戦時に発生したようだ。
(*2)この時期、第一軍は、中共太岳軍区壊滅を目的とした「十八秋太岳地区粛正作戦」を実施した。この作戦は、支那派遣軍がこの年の8月に策定した「春季以降作戦指導大綱」で示した「本秋成ルヘク長期二亙リ組織的二共産軍ノ根拠ヲ覆滅セシム」方針に基づき、北支那方面軍が年度計画を強化修正したもの。期間は10月初めから一ヶ月間、参加兵力は第一軍隷下の三個師団全部(第三十七、六十二、六十九師団)と、主力を全投入した大がかりなものだった。この作戦以降、中共軍の活動は相当低調になったという。本作戦は四期に分けられ、第三期では、翼城―沁水―瑞氏鎮―高平以南、絳県―陽城―澤州以北の地域で作戦が実施されている。徐さん体験談は第三期作戦時に発生したようだ。
「日本鬼子来了!」
その日も一日の活動を終え、見張りを立てて床についた。いざという時のために服は着たままだった。翌日、まだ陽が空けてない、時刻にすると朝の五時頃だった。空にはまだ月がでており、風が少し強かったのを徐さんは憶えている。徐さんは村人の「日本鬼子来了!(日本軍が来たぞ!)」という叫び声に目を覚まし、あわてて飛び起きた。
徐さんたちはそれぞれ日本軍に見つかってはまずい書類を急いで処分する。書類を土のなかに埋めたり、燃やしたりして処分すると、文章担当の郭歩正さん(当時二十八歳)とともに家を飛び出した。村は小高い山々の中腹にあった。そこで、家を飛び出した徐さんたちは谷の方へ逃げようと村の入り口から谷へ下る坂道を下っていくことにした。
特に普段と変わらない、別に避難するのに遅かったという思いはなかった。しかし、見張りの発見が遅かったか日本軍ががんばったのか、この日は村が包囲されるのが早かったという。坂道を下ろうと走って村を出ると、すぐに坂道を上がってきた日本兵に遭遇してしまった。日本兵は軍服を着て村から走ってきた郭さんを見るや否や小銃を撃った。
弾は郭さんの右足の袋脛のあたりにあたった。そして続いて別の日本兵が一緒に走ってきた徐さんに着剣した小銃を突き出してきた。徐さんはとっさに避けたがサッと右手を切られた。負傷した二人は日本兵に捕まった。徐さんの負った傷は深くなかったが、郭さんは重傷だった。郭さんはこのとき撃たれた傷穴から血が止まらず、出血多量でまもなく亡くなった。
日本軍の攻撃に他の党員もそれぞれ村の外に逃げたが、徐さんたちと同じように数名以外はすぐに捕らえられた。このうち、太岳日報の印刷工場長である方振松さん(当時三十歳前後)は逃げるところを撃たれて亡くなった。のちにこの時村にやってきた日本軍は小隊規模で、垣曲県の同善鎮から討伐に来た部隊であることが分かったという。(*3)
(*3)垣曲県同善鎮には、第三十七師団歩兵第二百二十七連隊の一個中隊が駐留している(藤田豊『春訪れし大黄河』1981年)。
尋問
村を出てすぐの坂道で捕まった徐さんたちは、日本兵にせき立てられて坂を上がっていった。村の入口にさしかかったとき、藍色の生地の服を着たひとりの少女が立っていた。村に住む四十歳前後の農民の王さんの娘だった。歳は八歳。やや面長で眼がくりくりした可愛い女の子で、村に住んでいた徐さんも顔見知りだった。
少女は、負傷した徐さんたちを引っ張って近づいてくる日本兵を見ると、怯えたのだろう、徐さんたちに背を向けて村の中へと走り出した。それを見た日本兵は少女に向けて小銃を撃ったという。小さな背中を撃たれ、少女はすてんと仰向けに倒れた。のちに徐さんは、日本兵が射殺した彼女の小さな遺体を崖の上から落として処分するのを目撃したという。
村にはいると、日本軍は捕まえた徐さんたち党員と、逃げ遅れた村の住民全員を広場に集めた。この時、逃げ遅れて日本軍に捕まった人は全部で二十八人だった。
村民を広場に集めると、一人の日本兵が腰から革のベルトを外した。金属のバックルが付いている。そしてそのベルトを持ってやおら村民の目の前に立つと、八路軍の居場所や武器の隠し場所などを聞き出そうと顔をベルトで殴り始めた。こうして二十八人全員が顔をベルトで殴られながら、尋問されることとなった。(*4)
先ほど殺された少女の父親である王さんも、顔をベルトで殴られながら尋問された。日本兵は王さんに向かって「八路軍はどこに居るんだ」と聞いたが、赤ら顔の王さんは「私は農民で、何も知らない」と答えた。その後王さんは日本兵に殴られて亡くなったという。王さんには二人の娘がいたが、殺された少女の姉は日本兵に暴行を受けたという。あまりにも悲惨だ。
(*4)この年の8月に北支那方面軍が各部隊に教育資料として配布した「共産軍根拠地掃蕩剔抉ノ参考」には、「敵根拠地施設ノ偵知要領」として「部落攻撃実施後ハ残存部落民全員ヲ一箇所二集合セシメ先ツ服装検査ヲ実施シタル後 其ノ中ヨリ有力者ヲ選出シ其ノ情報二依リ掃蕩検索ヲ行フ」と記している。村に入った日本軍はまさにこの教育資料通りに行動したようだ。
移動
しばらくすると、日本軍は尋問しても埒があかないと見たのか、それとも移動の予定があったのか、捕まえた二十八人全員を連れて尖山渠から移動を開始した。村から西へ二キロほど離れた陽城県内のとある村へ移動するためだった。
日本兵にせかされて村を出るとき、徐さんたちは村を出てすぐのところにある大きな樹に、遺体が吊り下げられているのに気が付いた。その顔は見慣れた炊事係の青年だった。逃げ遅れて日本兵に捕まったのだ。青年は、軍刀か銃剣で身体を斬られて亡くなっていた。惨くて正視できなかったという。
日本軍に連行された二十八人のうち、半数近くが村民だった。霜の降り始める季節だったが、彼らのほとんどは裸足だった。一方で軍服を着用していた徐さんたちはあらかじめ軍靴を履いてゲートルを巻いていたものの、逃亡防止のためだろう、穿いていた靴を脱がされたあげく、手を縛られて歩かされた。この地域の地形は起伏が激しく石が多い。寒くて石の多い山道を裸足ではとても歩けない。徐さんたちは、足の甲にゲートルを巻いて痛みをこらえたという。
羊小屋からの脱走
村を出て1時間ほど、村の西をぐるりと迂回するような行き方で二キロほどの山道を歩かされ、陽城県内のとある村に到着した。村に着くと、徐さんたち二十八人は全員、縄で縛られて、村の中にある地主の家のような大きな農家に監禁された。
その後、数時間たって午後になると、今度は「羊圏」という羊小屋に移された。羊圏は四方を土壁で囲み、正面に出入り口として柵をつけている。羊圏は粗末で、おまけに羊の糞だらけで臭くて不衛生極まりない。とりあえず羊の糞を足でどかして腰を落ろした。
羊圏に入れられてしばらくすると、徐さんたちは、小屋の奥の土壁に人が通れるくらいの空洞があるのを発見した。調べてみると空洞は外に続いていて、そこから逃げられるようだった。この小屋の持ち主が何かのときにはここから外に逃げられるように、逃げ道として壁の中に空洞をつくっていたもののようだった。その空洞に日本兵は気付いていないようだった。徐さんたちは暗くなるのを待って、この空洞から逃げ出すことにした。
二時間ほどすると、陽も落ちて暗くなってきた。外の様子を窺うと、日本兵たちは食事の時間なのだろう、村の馬や牛をひいていく。しばらくすると食事を始めたらしく、羊圏の前には見張りの兵隊もいなくなった。
念のために外を警戒しつつ、徐さんたちはお互いの縄をほどいた。そして壁の中の空洞を通って、空洞の出口の穴から外の様子を窺った。周りに日本兵の気配はない。幸いにもその日は非常に風が強かった。これなら多少の物音も日本兵に気付かれないで済む。徐さんたちはひとりづつ静かに空洞を抜けて、全員無事に村の外へ逃げ出すのに成功した。

