[ 戦争体験談 李庭章さん ]

李庭章さん

1940(昭和15)年、十七歳のときに犠牲救国同盟に参加し、のち中共に。代県での活動中、日本軍に攻撃され逮捕される。その際、同行中の恩人が亡くなった。捕虜として連行される途中に隙をみて脱走に成功した。
犠盟会への参加
山西省北部五台山の麓で育った李さんが抗日愛国組織の犠牲救国同盟会に参加したのは、日華事変が勃発して三年が過ぎた1940(昭和15)年のこと。愛国心に燃える十七歳の青年だった。犠盟会は、発足当初こそ会長に就任した閻錫山が影響力を保持していたが、当初より中共の影響力が強く、戦争の進展でその影響力は拡大する一方であった。李さんが参加した時点で、すでに犠盟会には中共が深く浸透していた。全く新しい視点から救国の理念を掲げる中共の主張に自然と心が向いていった。犠盟会に参加してまもなく、李さんは共産党に入党した。

李さんが犠盟会員として活動を始めたのは、地元の五台県附近を統轄する五台中心支部。このとき李さんは自分にとって生涯忘れられない人に出会った。「抗日劇社」という演劇の責任者をしていた支杰さんだ。


生涯忘れられぬ恩人との出会い
支さんは河北省唐県出身で、歳は二十代半ば。彼はちょうど満州事変が起きたときの十五~十六歳の若いときから、故郷の唐県で劇団を組織し、抗日愛国を題材にした芝居を行っていたという熱血漢だった。日華事変の勃発後は犠盟会に参加し、五台中心支部に派遣されてきていた。年が十二~十三歳離れていた支さんは、良き先輩として李さんを助けてくれた恩義ある人だ。五台山の山中での活動を三年余りともにして、ふたりは大親友になった。


李さんの自宅にて李庭章さん(右)。左は同僚でもある李献瑞さん。
(太原,1997年3月)

1943(昭和18)年になると、李さんは五台山から代県へと移動となった。当時代県附近を統轄していた山栄県で第二専区の党書記を任命されたからだ(*1)。そこでの主任務は中共軍の補給を確保することだった。そして翌年の春になると、今度は恩人の支さんも代県に派遣されてきた。直前に日本軍との戦闘で負傷した足を治療して赴任した支さんは、李さんと同じ山栄県の区党書記を任命されたのだった。第二専区の李さんに対して支さんは第三専区。代県の県城から南約十キロに日本軍の陽明堡飛行場があることから陽明堡地区とも呼ばれる重要地域だった。

しかしこの時期、中共は兵力抽出で警備力の弱体した日本軍への攻勢で活動が忙しかった。そのため、せっかく支さんが代県に派遣されてきても二人にとって旧交を暖める時間はなかった。二人はそれぞれの活動に忙殺されていた。そんななか、8月に李さんの第二専区に属する任家荘という村で、晋綏解放区第五戦区に属する各県代表会議が開催されることになった。代県各区の責任者として二人も会議に出席することになった。一年近く会っていない支さんに久しぶりに会う良い機会だった。

(*1)党と政府は一体で、党委員会書記が党と行政を統括する。区の党委員会には、書記、組織、宣伝、青年、婦女、職工、武装の各部があり、李さんは書記として各部を統轄していた。

再会
8月のとある日、任家荘で会議が開催された。今後の方針や具体的な活動方法など、活発な議論が交わされ、午前中で始まった会議も終わった頃には陽も傾き、外も暗くなりはじめていた。会議に参加していた各代表はそれぞれの任地へと帰っていった。しかし、久しぶりの再会で語り合いたいことが山ほどある李さんは支さんを引き留めた。

「もう空も暗くなり始めたし、私はここらへんの土地はよく知っているから、明日の朝出発しよう」

その夜ふたりは任家荘に泊まることになった。もちろん李さんはこのとき、その後に起こること、その事で自分が一生後悔の念を抱き続けることになろうとは思いもよらなかった。

宿泊先の農家に入り、食事を済ませて床につくまで二人は語り続けた。自分の家族の近況から五台山での思い出、戦局の行方と今後の活動など、いろいろと語りあいたいことが多くてとても一晩では語り尽くせなかったほどだ。夜がかなり更けてから、村の外で警戒のために青年をひとり見張りに立てて、ふたりはようやく床についた。


包囲
床について数時間がたったころ、熟睡していた李さんたちは、村の外で見張りに立っていた青年の鋭い声に叩き起こされた。

「日本兵来了!快走!(日本兵が来た!早く逃げろ!)」

李さんたちは慌てて床から飛び起きると、急いで靴を履いて家の外に出た。そして見張りの青年に日本軍がどの方向から来て、どちらの方向に逃げればいいかを聞こうとした。しかし夜明け前の薄暗い暗闇のなかでどこにも青年の姿は見あたらない。彼は「日本兵が来た!」と叫ぶと、誰よりも先に逃げ出してしまっていたのである。

李さんたちは薄暗い暗闇の中で、最悪の事態を考え、とりあえず上着のポケットに入れていた書類を埋めることにした。たとえ便衣を着ていても書類など持っていれば言い逃れもできず、情報も漏れてしまうからだ。農家のそばの目立たない場所に穴を掘って書類を入れる。土をかけ終わったとき、既に空は明るくなり始めていた。

この時点で既に村の周囲は日本軍に包囲されていたようだった。李さんたちはとりあえず日本兵が警戒するであろう谷の道沿いは避けて、裏の山の方へ逃げることにした。しかし、村の裏手から山のほうへ向かって急ぐと、明るくなった空に照らされて、周辺の山々の稜線にぽつぽつと人影が見える。日本軍は周辺にも兵を配置して村を完全に包囲していたのだ。どこからか会議の情報が漏れ、周到にたてられた作戦なのかもしれない。仕方なく李さんたちは日本兵の死角を見つけて包囲を突破しようと、道のない谷底へと下りていった。


支杰さんの死
山の斜面を下って谷に下りていく時、李さんは前をゆく支さんが手に拳銃を握っているのが目に入った。李さんも普段なら拳銃を持っているのだが、あいにくこのときは八路軍の大隊長に貸したまま逃げてきたので持っていなかった。おめおめと捕まるくらいならいっそのこと彼の手で...と思い、李さんは支さんの手に握られた拳銃を見ながら

「もし日本兵に捕まりそうになったら迷わず撃ってくれ」

と言った。しかし支さんは「君は何を言っているんだ。後ろからついてきなさい」と一喝すると、拳銃を構えて先を進んでいく。

山の斜面から谷底に降りてみると、地面は水たまりばかりで泥でぬかるんでいた。足が泥に捕まり、歩くこともままならない。そのうち徐々に陽があけてきて、谷底も明るくなってきてしまった。朝の陽光にぼんやりと、ぬかるんだ谷底を逃げる李さんたちの姿が日本兵の目に映る。逃げる二人を発見した日本兵が山の上から降りてきた。

しばらく行くと、前方がエス字型に曲がった所で、先を日本兵にふさがれた。後ろからも日本兵がやってくる。先を進む支さんの拳銃を撃つ音が谷底に響いた。双方の銃声が谷底に響き渡る。やがて銃声が途絶えると、李さんは後ろからやってきた日本兵に捕らえられてしまった。李さんは任家村へと連行されることになった。日本兵に前にせき立てられ、エス字カーブを曲がると、銃弾を浴びて息絶えた支さんの姿が目に入った。支さんの遺体の脇をせき立てられて、李さんは村へと連れて行かれた。


「黄閻王」
村まで連れ戻された李さんは、一人の日本兵が部下の兵隊の顔を革のベルトでバンバン殴っているのに遭遇した。殴られている日本兵は、顔がふくれあがり、血を流しながらも懸命に直立不動の姿勢で立っていた。李さんは衝撃を受けた。同じ日本人同士、しかも仲間に対してもあのようなことをするとは想像もできなかったからだ。

やがて李さんは隊長らしい一人の将校の前に引っ張られた。細面の顔をした三十歳過ぎの男で、肌の色は白く中肉中背。胸ポケットの上あたりに名札が縫いつけられていた。「和田××」という名前だった。李さんにとっては初対面だがその男の名は知っていた。「黄閻王」と呼ばれて代県の人々から恐れられてきた存在だからだ(*2)

住民たちによれば、「黄閻王」こと和田は1937(昭和12)年に代県にやってきて以来、多くの住民を殺し、まるで閻魔のような所業だと恐れられ、代県の発音で和田の「和」と「黄」の発音が似ていることから、それをかけて「黄閻王」と呼ばれるようになったという。噂によると和田は軍人として代県に来る以前に上海で軍属として謀略活動に関わっていたらしかった。そのような中国での経験のためか否かはわからないが、階級が下の下士官である和田に対して、将校が敬語を使っていたという話も聞いていた。思いがけず、うわさの「黄閻王」を目の前にしたことに気がついた李さんに、和田は流ちょうな中国語で質問してきた。

「おまえは何という名前で、八路でどんな任務を行っているのだ」と言う和田に、李さんは名字だけ変えずに「李士中」と名乗った。そして「新聞の仕事に携わっている」とだけ答えた。「なんの新聞だ」と和田は聞く。李さんは言った。「抗日の新聞だ」。和田はさらに八路軍の場所、武器の在処、抗日政府の所在などを聞きだそうと迫る。しかし、李さんは頑として「私は新聞の仕事のことだけしか知らない」と突っぱねた。すると和田は、おもむろに腰につるした軍刀を鞘から払い、切っ先を李さんの胸へ突きつけた。

「いいか、本当のことを言わないと今すぐ殺すぞ」。

軍刀を突きつけられた李さんは、冷静を装って答えた。

「本当のことを言っているのだからしょうがない」。

お互い沈黙した。時間が過ぎるのがとても長く感じた。すると、

「おまえを殺すのはやめだ」

和田はこう言うや否や、軍刀を鞘に収めた。一筋縄ではいかないと思ったのだろう、ホッとしたのもつかの間、今度は和田よりも上手な中国語を操る日本人の通訳にもう一度同じ質問を受けることになった。しかし、今度は頭を拳大の石で殴るという拷問付だった。李さんは和田に答えた内容と同じことしか答えなかった。しかし、このときは意識が朦朧となって記憶が曖昧になるぐらい、何回も頭を殴られた。そしてしばらく殴られ続けると尋問しても無駄だと感じたのだろうか、正午頃、中国人の保安隊に引き渡された。

(*2)のちに見るように李さんが捕まった部隊は、日本軍と保安隊が合同したF部隊。「黄閻王」こと和田は保安隊の指導官だった可能性が高い。

行軍
尋問が終了してしばらくすると、日本軍と保安隊は次の目的地へと出発を開始した。李さんは尋問のときの殴打で頭がぼうっとなったまま後ろ手に縛られ、その縄を首に巻かれた。そして馬に乗った士官が縄を持った状態で歩かされることになった。行軍中に保安隊の兵士の言葉から、次の目標が山底村であることが分かった。ここから東へ三十分程度の距離だ。また、李さんが捕らえられたのはF隊長の率いる部隊だと分かった(*3)。F部隊は日本軍と保安隊併せて大隊ぐらいの規模であることも分かった。

一時間も歩かないうちに山底村に到着した。F部隊はここでも武器の捜索と住民への尋問を行った。しかし何も出てこなかった。村でしばらく休息したF部隊は、手旗信号によって各隊に信号を送り、次の村へと出発した。村を出る際、F部隊は火を放っていった。家が燃えるキナ臭い煙とバチバチという音を後にして、次の目的地である陽溝村に向かう。山底村から南に約1時間の距離だ。

陽溝村に到着したときには陽も西に傾き、夕暮れが迫る頃だった。F部隊はここで一泊するらしく野営の準備を始めた。李さんも使役をさせられる。捕虜となって身心共に疲れ切っていた李さんは、使役が終わるとすぐに眠りについてしまった。

翌日、まだ夜も明けてない朝の三時か四時頃、李さんは保安隊の兵士に起こされた。夜明け前に行動を起こすのは軍隊の常だ。次の目的地である馬圏溝村へとF部隊は出発した。

(*3)代県には独立混成第三旅団(造兵団)の独立歩兵第六大隊が駐屯しており、李さんが捕らえられたF部隊は、当時同大隊第二中隊長を務めていたF隊長率いる日本軍と保安隊による合同部隊だった。

死んだはずの男
馬圏溝村は一泊した陽溝村から北へ約十二キロ。山西の険しい山間を縫う行軍が続く。午後になって村に到着した。今日の行動はこれで終了で、F部隊はここで野営するらしい。李さんも野営の準備をさせられる。そんなとき、一人の男が李さんの前までやって来た。

「おまえは李庭章だろう?」

声をかけてきた相手を見た瞬間、李さんはアッと驚きの声を禁じ得なかった。と同時に背中が寒くなった。李さんの前に立った男は、死んだはずの安儒だったからだ。 彼はまたの名を「五旦」と言い、一年前までとある村の村長をしていた。当時の村の多くは昼間は日本軍や保安隊が駐屯し夜は中共軍が駐屯するという状況で、村長には両方に顔の利く人間が据えられていた。安儒が村長をしていたのもそんな理由からだったが、阿片を吸い、村人の物を盗んだり横取りしたりする彼の評判は悪かった。そのうち、彼にスパイの疑いがかかり、中共軍は彼と彼の仲間二人を処刑することに決めた。処刑の件は代県の責任者である李さんにも承知していた。中共軍は安ら三人を村の裏山に連れていき、銃殺したはずだった。

死んだはずの男を目の前にして驚く李さん。安は確かに裏山で中共軍の兵隊に拳銃で撃たれていた。しかし使ったのが手製の改造拳銃だったため、弾は彼の頭の上を滑っただけだったのだ。死んだ振りをして生き延びた安は、日本軍が駐留する代県城内に逃げ込んで食事係として働くようになった。そして今回、F部隊の作戦に同行してきて李さんと再会したのだった。

安の頭には、弾丸が滑った一筋の傷跡があり、そこだけ髪が生えていなかった。そんな彼の頭を見ながら、李さんは「もし俺のことを言ったら、おまえは必ず死ぬぞ」と言った。すると彼は意外にも「大丈夫、貴方のことは黙っているから」と言う。そんなふたりが小声で言葉を交わすのを見て、保安隊の兵士が近づいて来た。そして安に向かって「こいつを知っているのか」と尋ねた。李さんの胸を緊張と不安が覆う。安は保安隊の兵士に「もちろん知っている」と答えた。そして、続けてこう言った。

「彼はとてもいい人だから、なぜあなた方に捕まるのか、私には見当が付かない」

この一件で、李さんに対する保安隊兵士の態度も多少穏やかになった。気がゆるんだ保安隊兵士の隙をみて脱走に成功する布石になったとも言えるかもしれない。その後、新中国成立後に安は戦前の行いを糾弾され、「反革命分子」として審問された。李さんは手紙でくだんの様子を詳しく書いて代県政府に送った。李さんの手紙で安は重罪を免れ、減刑されることになったという。


保安隊兵士たちの不安
翌日、馬圏溝村で一夜を過ごしたF部隊は、まだ夜の明けない3時か4時頃、闇夜の中を出発した。馬圏溝村から東へ約十キロの位置にある楊荘村と棗園村へ向かう。この二つの村は抗日根拠地として有名だったようだ。李さんが村に到着したとき、村には兵隊があふれかえっていた。この二つの村を攻撃する兵力としては多すぎると感じるほどの規模だった。この村でも日本軍は逃げ遅れた村民数十人ほどを一箇所に集め、中共軍の居場所や武器の在処などを尋問していた。しかし、やはりここでも成果はなかったようだった。棗園村では、多くの中国人兵士が村の各家を荒らし、食料などを略奪していた。日本軍は糧食を持参しているらしく、略奪を行わなかった。そしてF部隊は午後になってから周辺地域を捜索した後、次の目標である胡峪村へと移動を開始した。

捕虜として保安隊兵士に連行されて行軍する間、多くの中国人兵士が盛んに話しかけてきた。三日間も一緒にいて打ち解けたようだ。そんな彼らは日本軍のそばにいて戦局の雲行きをすばやく感じとっていたようで、多くの兵士が「もし日本が戦争に敗けて、共産党が政権を取ったら自分たちはどうなるのか」と質問をしてきた。李さんは「悪いことをたくさんしていれば当然捕まってそれ相応の処罰を受けるが、保安隊の中にいても中共軍に協力すれば、それなりに悪いようにしないだろう」と答えた。そして、事あるごとに中共の理念や活動を話した。日本軍は前方を歩き、保安隊は後衛だったので、そばに日本兵がいなかったのが幸いだった。小休止の最中に話をしている際、日本兵が近づいてくると話をやめ、遠のくと又話し始めるというのを繰り返した。

このとき李さんを連行していた分隊の班長は非常にいい人であった。班長は李さんに対して敵意を持たずに接してくれていた。李さんは彼から今後とも仲良くしていこうと言われたのを覚えている。また、副班長は班長よりも長く保安隊にいるらしく、それほど李さんに対してうち解けた様子は見せなかったが、彼は李さんに向かって「君も家に帰ったら、保安隊に入りなさい」と言った。小銃の扱いが非常になれていたのが印象に残っている。

しばらくすると、一人の保安隊兵士がどこからか小さいナイフを探してきた。そして、縄で後手にしばられて歩く李さんにこっそりと渡してくれた。あとは機が熟すのを待つだけだ。


決断
F部隊は胡峪村を経て、三日前に通過した陽溝村に戻ってきた。陽も暮れ始め、今日の作戦は終了だ。兵士たちが野営の準備にとりかかる。李さんにとっては三度目の野営だ。

李さんは三日間、F部隊と行動をともにした。任家荘から山底村、陽溝、馬圏溝、陽荘・棗園、胡峪、そしてまた陽溝。直径十五キロほどの範囲を、時計回りにぐるりとまわっている。今までの行動パターンから、陽溝村からは必ず西へ進み、自分が書記を務める第二区周辺へと移動して中共軍を探すだろうと予測した。

翌日、真っ暗なうちから行軍が開始された。西に向かっている。李さんが予想した通りだ。F部隊は第二区周辺へと移動を開始した。そして兵士たちの会話から、払暁の攻撃目標は戸家荘であることが分かった。戸家荘には自分を知っている人が大勢いる。単なる新聞員ではなく、中共幹部である李さんの身分がばれることは間違いない。そうすれば命はないし、村民にも危険が及ぶ。なんとしても戸家荘に到着する前に逃げなくてはならなかった。そして行軍を開始してしばらく、朝の五時頃だろうか、まだ空は明けてない真っ暗なとき、戸家荘から1キロ半の距離に迫った。今しかない、李さんは決断した。


脱走
李さんは、保安隊の兵士に、小声で「おなかが痛いので、用を足してきたい」と言った。しかし、李さんを後手に縛った縄を持つ兵士はこともなげに「ここでやれ」と言う。そこで李さんは副班長に向かって歩道から少し離れた場所を指さながら「ここでは臭くて迷惑だからあそこでしてきます」と言った。副班長は李さんの指さす方向に目をやった。そこは多少藪が生えているが、下り坂になっており、よく見渡せる場所だ。そこなら大丈夫だと思ったのだろう。「ああ、分かった、分かった。行って来い」と言うと、部下に命じて縄をほどいてくれた。

李さんは道からはずれ、背中に保安隊兵士たちの視線を感じながら歩き始めた。副班長の小銃を扱う手慣れた動作が脳裏をかすめた。しかし李さんは確信していた。攻撃目標である戸家荘からこの距離で小銃を発砲すれば、銃声を聞いた村人たちは逃げだし、村はもぬけの殻となる。そうそう兵士たちも小銃を撃つことはできない。そして用足しの場所に着いた途端、全速力で下り坂を駆けだした。

必死の思いで坂道を転げるように逃げる。どれくらい走っただろうか。吐息をこらえて、暗闇のなかで耳をそばだてる。追っ手はいないようだ。李さんは幸いにも、背中に一発の銃声も聞くことはなく、脱走に成功した。運良くF部隊から逃げ出せた李さんは、東にある段家荘という村へ向かうことにした。これならF部隊と反対の方向で安心だからだ。

ところが疲れと興奮で方向感覚がずれていたようだ。自分では東へ進んでいるつもりだったが、実際には西の方へ進んでいた。そのため、逃げ出したF部隊のちょうど下を平行して進むこととなってしまった。方向感覚がずれていたのは、日本軍が駐屯していた二十里鋪という村に着いたときに分かった。李さんは用心して二十里鋪から離れ、北へ一キロの所にある候家溝に向かった。候家溝の村長、候狗々はよく知っている人物だ。便宜を図らせることができる。


「私が李庭章だ!」
しばらく歩いて候家溝に到着した。しかし油断はできない。村はずれの西瓜の畑の中に身を隠すことにした。しばらくすると一人の農夫がやってきた。畑の持ち主らしい。李さんはその農夫に声をかけた。「ここには八路の幹部はいないか」。農夫は、多少驚いた様子だったが、李さんが中共らしいとわかるとよってきた。そして、「いまはいないが、昨日もこの村で会議があった」と答えた。そこで李さんは、「会議の主催者は誰か」と聞いた。するとその農夫は、なんと「第二区書記の李庭章だ」と言う。さすがの李さんも怒ってしまった。

「うそをつくな。私が李だ!。三日間も日本軍に捕まっていて、今逃げてきた所なんだぞ」。

李さんは農夫に候村長を呼んでくるように命じた。しばらくして候村長がやってきた。手に着替えの上着と靴を持っている。候村長は、李さんの前にくると涙を浮かべながら「日本軍に捕まって助けたかったが、とても助け出すのは無理でどうしようかと思っていた」と言った。「逃げてきて何よりだ」と無事を喜ぶ候村長は、着替え終わった李さんを村の一軒の農家に招き入れた。しばらくすると暖かい食事が出てきた。久しぶりにゆっくりと食事が摂れる。

正午過ぎ、李さんは候家溝の農民を道案内に頼み、中共軍の根拠地である西平安村へ向かった。そこで政府の同僚や友人に迎えられた。皆が李さんの無事を喜んでくれた。李さんはこれ以降、終戦まで日本軍に再び会うことはなかった。

1945(昭和20)年8月15日。日本が無条件降伏を受諾し、戦争は終結した。この日、李さんは代県の盆児窟という村にいた。そこで無条件降伏の報を聞いた。うれしかった。八年間に渡る戦争の記憶を思い起こした。感慨無量、万感の想いだった。

終戦によって日本軍が去っても戦いは終わらなかった。第二戦区司令長官であった閻錫山と中共軍の内戦がすぐにでも始まりつつある状況だった。李さんをはじめ中共活動家たちは休む暇もなく、次の任務へとかり出されていった。李さんも終戦後すぐに大同に派遣された。


いつまでも忘れられない
日本との戦争、その後の国共内戦を生き抜いた李さんは、新中国成立後は体育関係の部署に配属となった。戦争体験談で紹介している李献瑞さんと同じ職場だ。共にずっと同じ職場で働いてきた同僚だったが、お互いに自分の戦争体験を語り合ったことはなかった。戦争のことを思い出すと、必ず支杰さんを思い出すからだ。李さんは、あのとき支さんを引き留めなければ命を落とすことはなかったと今でも後悔の念が絶えない。この戦争体験談を話した時も、七十四歳の彼は一人にして欲しいと席を立った。戦争体験は半世紀以上経ても当事者にとって重い記憶でありつづけるのだ。

# yama : 2005年2月19日
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