[ 戦争体験談 馮炳梅さん ]

馮炳梅さん

1938年(昭和13年)の初春、日本軍に接収された紡績工場に女子養成工として入所。終戦までの七年間、「女工哀史」を彷彿とさせる苦しい労働環境のなか勤務した。
紡績工場への入所
1938年(昭和13年)の2~3月頃だ。当時13歳だった馮さんは、太原市内の工場に女子養成工として就職した。軍管理山西第一工場と呼ばれた紡績工場だ。工場は現在の五一広場あたりから北へ進み、府西街の方角へ向かう途中の太原市晋生路八号で操業していた。

軍管理山西第一工場は、戦前に晋生染織廠と呼ばれた民間の紡績工場だった。日華事変で太原が日本軍によって占領されると、晋生染織廠は他の重要企業とともに日本軍によって接収され、軍管理山西第一工場と改名された。接収された諸企業は、まもなくその経営を日系企業に委託する形で操業が再開されたが、第一工場では日本の鐘渊紡績株式会社(現在のカネボウ)が経営を委託されていた。第一工場の操業が一部再開されたのは1938年(昭和13年)の2月だから、馮さんは操業再開とほぼ同時に入所したことになる。(*1)

第一工場は、短繊維より糸を紡ぐ紡績から、紡糸より布を織る織布までを一貫して行う紡績織布兼営工場だった。その生産の多くは軍服などの軍需向けだったという。馮さんの記憶では、工員数は約1,000人で、これを半数の500人ずつ日中と夜間の二組に分けて作業に従事した。一組が1日12時間労働、24時間体制で操業していたという。(*2)

(*1)晋生染織廠(山西軍管理第一工場)については、こちらのコラムを参照。

(*2)馮さんは工員総数1,000人と話されたが、操業再開当初の工人数は200人程度、翌1939年(昭和14年)に24時間体制に移行してからは700人(管理人員を含めず)だったようだ(張・魏『日本侵晋記実』214-215頁)。

紡績工場での仕事
紡績の工程は、混紡(ミキシング)―打綿(スカッチャー)―梳綿(カード)―練条(ドローイング)―粗紡(フライヤー)―精紡と続き、単糸の場合は綛場(リール)―丸場―荷造で完成となる一方、撚り糸の場合はその間に合糸―撚糸の工程が入る。そして織布の工程へと移る。

これらの工程のうち、女子養成工として就職した馮さんは精紡工程に配属となった。精紡機で紡糸を巻き取った錘を交換する「落簡小組」という部署だ。工員は昼夜あわせて三十人程度、全員が11歳から17歳ぐらいまでの少女で、ほとんどが12歳から14歳の少女だったとそうだ。(*3)


太原紡績工場で働く女工(一橋大コレクションから)。
詳細は不明だが、馮さんが働いていた軍管理第一工場で撮影したもののようだ。

落簡小組が作業する部屋には、幅約10メートルほどの精紡機が四台並んでいた。この精紡機一台に二人が配置される。一台の精紡機には、高さ15センチ、直径10センチほどの木製の錘が両面で100個ほど並んでおり、これら木製の錘が回転しながら紡糸を巻き取る仕組みだ。錘にある程度糸が巻かれると、レバーを操作してその錘の部分だけ回転を止め、精紡機から錘を外して麻袋に詰める。そして新しい錘を設置して精紡機を再作動させる。

麻袋は縦1メートル、口の広さ30センチほどで、この袋に糸が巻かれた錘が約20個入る。錘を詰めると麻袋は大体12キロぐらいの重さになった。一日12時間仕事をして、この袋が大体10袋ぐらいになったから、一人で一日約200個ほどの錘を交換したことになる。計算すると、3~4分に錘1個を交換する計算になる。横10メートルに並んで回転する50個の錘を監視しながら、精紡機の操作、錘の交換、錘の袋詰めの三つの作業を一人でするため、機械が動いている間は座って一息入れる暇もない。昼の30分の休憩時間を除く12時間はずっと立ちっぱなしだから、朝六時からの勤務がようやく終わる夕方六時にはくたくたになってしまう。このような勤務が週六日続く。13歳の馮さんにとっては大変な仕事だった。

(*3)紡績業では一般に精紡は幼年工が多く、しかも操作の容易なリング式精紡機の場合、女工、すなわち幼年女工が工程に従事することが多かった。陸軍山岡部隊編『山西省大観』(1940年)によれば、当時の工員数は成人が390人(うち女性240人)に対して少年少女が360人(うち女性230人)と、少女が工員数の約3割を占めている。この点、日本では1923年(大正12年)に14歳未満を就業禁止とする「工業労働者最低年齢法」が制定され、また1929年(昭和4年)には「改正工場法」が施行されて、一般婦女子と幼年工の深夜就労が禁止された。馮さんの話によれば14歳未満の少年少女も広く採用されていたようだが、規制の及ばない中国でも深夜業には従事させていなかったようだ。

女工哀史
紡績工場では紡糸が切れないようにスチームで水蒸気を出し続けている。紡績機の発する熱と水蒸気は、乾燥して寒さの厳しい冬の太原ではまだしも、夏は地獄のような蒸し暑さだった。冬でも少し動くだけで汗が吹き出るのだから、夏はじっとしているだけで服が湿ってくる。そして水気を帯びた肌に、微細な綿塵がまとわりつく。

例えば、工場内では肺病にかかる人が多かった。もともと紡績工場は、湿気を帯びた微細な綿塵がふわふわと飛んで、工員がそれを吸い込むために結核などの呼吸器系統の疾患が多い。おまけにみな解雇を恐れて多少の風邪などでは出社してくるから、湿度と温度の高い工場内で風邪は瞬く間に広がっていく。風邪がひどくなっても休めないから、仕舞いには風邪をこじらせて肺病になってしまう。

また女性の場合、妊娠するとすぐに解雇されたため、多くの女性が妊娠した後も無理をして出社した。そのために流産が多かった。例えば、織布工程で働いていた20歳前後のZさんは、妊娠した後も解雇されるのを恐れて出社を続けていた。そしてある日、仕事の最中に突然産気づいてしまった。工場の便所に駆け込んだが、助産婦はおろか、工場に知られないためにも誰の助けも得られない。とうとうたった一人で子どもを便所で生むことになってしまった。結局産まれた子どもはすぐに亡くなってしまったという。また馮さんと同じ落簡小組で働いていた同僚のLさんの姉は、長期の欠勤は怪しまれるため、出産後わずか3日で出社してきたという。(*4)

(*4) 戦前の紡績職工、特に女工に対する待遇の悪さは、細井和喜『女工哀史』(1924年)などでつとに有名だ。この点、鐘淵は業界のなかで最も待遇が優れており、特に各種扶助制度が充実していた。例えば「鐘紡共済組合定款」第二十二条では、「組合員妊娠又ハ分娩ノタメ労働不能トナリタルトキハ本組合ハ医師ノ証明ニヨリ缺勤当日ヨリ一日ニ付当時ノ給料ノ七分ニ相当スル扶助料ヲ約ス」としており、その期間も分娩前三十日から分娩後四十五日までの約三ヶ月も認められていた(原『鐘淵紡績株式会社従業員待遇法・鐘紡罪悪史』)。しかし、馮さんの話によれば、第一工場ではそのような扶助制度はなかったようだ。そもそも軍管理工場で鐘淵の職工待遇規則が適用されたかは疑問であるし、仮に適用されたとしてもその対象は日本人職員のみだったと思われる。前出の「定款」第六条では、組合員の対象を「会社雇人」としており、「臨時雇及短期間ノ特別契約ニヨル雇人ハ此限リニアラズ」として扶助対象から除外している。

低賃金
紡績工場での勤務は女工哀史を彷彿とさせる過酷な労働だったが、それに対する毎月の賃金は微々たるものだったという。馮さんは具体的な金額については忘れてしまったがとにかく少なかったとし、強いて言えば当時でタバコが1~2カートン買えるぐらいの金額だったそうだ。

ノルマ達成のために休日繰り上げで出社させられたりすることも希ではなかったが、超過労働の分の賃金を払われることもなかった。あるときは馮さんのグループだけノルマ達成のために朝30分前の出勤を命じられた。このとき馮さんが住んでいた家は工場から歩いて20分ほどの太原城内の西校尉営のあたり(現在の立達デパートの北あたり)にあった。比較的工場までは近かったものの、朝30分前に出勤するには、まだ暗い朝の五時頃に家を出なくてはならない。同じグループで働く妹と家を出て暗い道を歩いていくとき、自転車に乗った怪しい男につきまとわれたこともあった。30分前出勤は一ヶ月くらい続いたがタダ働きだった。

賃金の他に馮さんが入所した当初は、毎月一回綿棒と小麦粉が一袋ずつ支給されていた。しかし翌年からは支給される小麦粉の量は半分になった。そして1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発すると支給される量が少なくなるどころかほかの雑穀にとってかわられた。高梁や黒豆ならまだましだった。さらに後には高梁のカスや楡皮などに変わったからだ。

楡皮はもともと落葉樹のシナニレの白い内皮を粉にしたもので、他に食べるものがない凶年のときに緬にして食用されるものだ。消化吸収が悪いために、身体の調子が良くないときは腹痛も起きた。消化しきれず、細木を肛門に入れなければ排泄できないほどの便秘になるのでいつも血便だった。そんなものでも、食糧事情の悪化していた太原では他に食べるものがなく仕方なかったという。

ひどい待遇でも馮さんや他の女工たちは工場を辞めることはできなかった。戦争によって景気は悪化し、傀儡政権ができたあとも物不足と物価の高騰は益々悪化していた。おまけに太原市内で職にありつくのはとても困難で、職があるだけましな状況だったという。数名が無断欠勤したりすることもあったが、多くの人は解雇されて路頭に迷うよりも我慢する道を選んだようだ。そのため、便所で子供を出産したZさんのように、解雇を怖れるあまりに身体に無理をしてでも出社するため、気の毒な話が絶えなかったという。


日本人
工場の責任者のほとんどは内地の鐘紡から派遣されてきた日本人だった。馮さんが働いていた落簡小組にも、責任者としてふたりの日本人職員がいたという。O主任と、その部下のK課長だ。O主任は四十歳前後、K課長は30歳前後だった。ふたりとも中国語は分からず、通訳を介して指示を出していた。ふたりは決められたノルマを達成できないと作業の遅い工員を殴ったりしたという。そのため、まだ幼かった馮さんは暴力をふるうふたりが怖くて、ふたりが現れるとペコンとおじぎをしてすぐさまその場から逃れていた。

日本人の中にはいろいろと恥ずかしい振る舞いをする者もいたようだ。例えばK課長は、1940年(昭和15年)頃に家族が太原にやってくるまで単身赴任だった。彼はそれまでの約二年ほど、若くてきれいな女性が工場に入所すると、いつも自分の寄宿舎に連れ込んでいたという。また総務課にいた別のKという日本人も、自分の家族が太原に来るまでの間、工場のYという中国人女性と同棲していた。そしてこのYはKの威光を笠に着て好き放題していたそうだ。YはKが総務課で工場の食堂を管理していることを良いことに、工員に対して小麦に芋を混ぜたマントウを純小麦のマントウと偽って法外な値段で売りつけ、金を儲けていたという。


「安全管理」
工場では事故が頻繁に起こった。特に織布の部署が一番多かったそうだ。ある工員は力織機に手を巻き込まれてしまい、急いで機械を止めて工場の医務室で応急処置を施したが、親指以外のすべての指が切断されてしまった。また馮さんは事故で片眼を失明した人も知っている。これら事故にあった工員たちには見舞金などが支給されのかどうか、幼かった馮さんには分からない。しかし、指を切断されてしまった人に関して言えば解雇されることはなく、指がなくても仕事が可能な職場に移動になったという。

工員の事故防止の面に比べて、窃盗などへの「安全管理」は厳しかった。工場の門には門衛とともに検査係の人間がいて、退勤時に門を出る工員すべてに対して身体検査を行っていた。もちろん、女性に対しては女性の検査係が身体に触れるような気配りなどはなかった。

ある真冬の日だった。20歳前後の修理工の青年が紡績用の鉄糸を盗んだ。なんでも鉄糸を売って食べ物を買おうと企んだらしい。馮さんは妹とともにその日の仕事を終えて帰宅するところで、門のところでこの青年が捕まるのを見ていた。工場側はこの青年を工場内の畑に連れていくと、寒空の下、彼の来ていた服を全部脱がして水をかけ、木刀などで殴ったあげく、門に縛りつけたという。他の労働者に対する見せしめとするためだ。この青年は二日か三日、門に縛られたあと、いなくなった。馮さんはのちに、その青年は日本軍の憲兵隊に連れて行かれたのだという噂を耳にしたそうだ。


終戦
1945年(昭和20年)8月15日のことだ。20歳になっていた馮さんは、その日も工場に出勤して仕事をしていた。午後になって、ひとりの工員から日本の無条件降伏を聞いた。なんでもその人によれば、ラジオで天皇陛下の玉音放送が流れたのだという。工場はこの日も休むことなく操業していたが、OやKら日本人職員はこの日からぱったり工場に来なくなったという。


馮さん(左から2人目)の自宅にて。馮さんの息子夫妻たちと。
(太原,1997年3月)

その後しばらくすると、工場は太原に進駐してきた閻錫山軍に接収された。終戦の混乱が続くなか、日本人職員は持って帰れない家具やきれいな和服などを雀の涙ほどの二束三文で売り払い、我先にと帰国していった。

閻錫山軍の接収後、門の前での身体検査はなくなり、生産ノルマも以前よりずっと少なくなったという。給料も戦前よりも上がり、配給される食糧も良くなった。待遇は終戦前に比べればずっと良くなった。しかし、国共内戦が始まると食料の配給も止まり、鰻登りの物価高騰で、上がった給料もほとんど意味がなくなってしまった。そのため、馮さんは終戦から二年後の1947年(昭和22年)に工場を退職した。13歳で就職してから九年間、常に戦争の影とともにあった紡績女工としての青春だった。



# yama : 2005年2月19日
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