
七旦村。太行山脈の山深い山村だ。
中央に見える丘の上に記念碑が立っている。(七旦村,1997年)
攻撃に参加したのは、劉伯承が師長を務める第十八集団軍第百二十九師の部隊。第百二十九師は、10月24日に北同蒲線地区(源平鎮附近)から太原を経て七亘村に到着した。その後、一個大隊と偵察小隊をもって日本軍を攻撃したとする。中共側の戦死三十五人に対し、日本軍は戦死傷四百人前後、捕獲された物資は軽機関銃四挺、小銃十挺、砲弾三百発、輜重車を牽引させる駄馬・駱駝等四百頭としている。事実ならば師団が動けなくなる大損害だ。
ところが第二十師団の戦闘要報では七亘村付近の戦闘は言及されていない。戦闘がなかったか、あったとしても師団として記載するほど大きな出来事ではなかったことを意味する。ただ後方部隊の護衛の重要性は師団参謀会議でも取り上げられているほか、同要報でも、後方部隊の護衛の必要性を強調した上で、
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...所要部隊ニハ直接掩護部隊ヲ付シ敵ノ防害ニ備ヘシモ測魚鎮西方地区(注:七亘村を含む)広陽鎮付近竝陽泉西方地区ニ於テ敵ノ攻撃ヲ受ケ犠牲者ヲ生セシハ遺憾トスル所ナリ
(出典:「第二十師団戦闘要報」(S12.10~11)1937年,防衛研究所所蔵) |
このように見ると、中国側がいう「七亘大捷」の日時・場所と合致する状況で、第二十師団の後方部隊が攻撃を受け、若干の損害が発生したことは事実のようだ。実は、この出来事に相当する陸軍省の記録が防衛研究所に残っている。現場の輜重兵中隊長(第三師団からの出向)が、猛烈な攻撃に「最後」を覚悟し、機密書類を焼却処分したことを報告した書類だ。その内容を見てみよう。
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別紙機密書類ハ(秘密書類ナシ)昭和十二年十月二十八日山西省平定県石門村付近ノ山地戦ニ於テ 第二十師団左縦隊糧秣前送中 優勢ナル敵部隊ニ遭遇 之ト交戦シタルニ 敵兵ハ我カ軍寡少ナルニ乗シテ殺到 重火器及手榴弾ヲ投擲シ 部隊ノ先頭ヲ公用行李将校行李ヲ積載行進中ノ駱駝ハ遂ニ敵弾命中戦死セリ 此ノ時既ニ敵ノ重囲ニ陥リ 敵火ノ集中ヲ浴ヒ 後続駱駝ハ枕ヲ並ヘテ敵弾ニ斃レ 敵ハ真近ニ潮ノ如ク殺到 手榴弾等ヲ乱擲セリ 為メニ中隊ノ進退極マリ 此レヲ最後と判断シタルヲ以テ 弾雨ヲ犯シテ之ヲ収容取纏メ焼却処分シ終リタリ 依ツテ陸軍機(秘)密書類取扱規則第六十八条ニ依リ 此段及報告候也
(出典:三兵輜一第六十二号「機秘密書類処分報告」1938年,防衛研究所所蔵) |
報告書を読む限り、戦闘は激しかったようだが、この戦闘だけで「戦死傷四百人前後」もの大損害を与えたという中共の主張は明らかに誇張だろう。太原攻略戦全体でも、第二十師団の死傷者数は戦死413人、戦傷1242人だ。「七亘大捷」後も、第二十師団の進攻速度は全く衰えていない。運んでいたのは武器弾薬ではなく糧秣(食糧)で、獲られたのは行李、すなわち将兵の私物ぐらいだったのではなかろうか。

七旦大捷記念碑。(七旦村,1997年)
七亘村は山奥深い山村で、その暮らしは豊かではない。農地として耕作されている窪地を囲むように岩肌に穴が掘られ、人々は今もそこを住居(窯洞)としている。窪地の中央には小高い丘があるが、その頂上に巨大なモニュメントが建っている。「七亘大捷記念碑」だ。碑文は当時第百二十九師の副師長を務めた徐向前の筆による。慎ましい生活を送る山村には不釣り合いな雰囲気だが、管理を徹底されているのかきれいに掃除されている。

