![]() 寧武旧城内の風景(2001年) |
実際に寧武県で当時幼少だった人にも話を聞いたが、当時は日本軍の侵攻によって敗残兵が多数城内に入り、暴行や略奪などの相当の混乱があったようだ。中国側の記録でも、日本軍が二回にわたって入城・出城を繰り返しており、混乱の極みで治安状態は相当に悪化していたものと思われる。この点、正確な日時は不明だが、機銃掃射が行われたこと、附近の延慶寺の僧侶多数が殺害されたことについての住民証言は一致している。中国側は延慶寺の僧侶殺害も日本軍の仕業だとしているが疑問だ。付近に中共ゲリラや匪賊も出没していた。
機銃掃射が行われたのは大南門附近だという。対象となったのは青壮年の男性だったようだ。中国側は民間人の殺害を目的とした無法とするが、どうだろうか。軍服を脱いで城内に隠れた敗残兵を逮捕し、処理を行った便衣兵狩りが、日本軍入城前の混乱と合わさって誇張されたのではないか。10月9日付の東京朝日新聞夕刊では、「寧武に残敵我軍奮戦撃退」という記事を掲載しているが、そこでは虐殺が起きる前日の6日夜に、現地に駐留する日本軍が600~700名の敵に襲撃を受けたとしている。翌朝、苛烈な残敵掃蕩が行われたと予想される。ただ、記事では「赤井部隊」となっているものの、残留警備を命じられていたのは「朝井部隊」で一字違っている。
察哈爾派遣兵団は、万全や陽高など、他の地でも似たような虐殺事件を引き起こしている(→詳しくは「歴史の闇に埋もれた陽高事件」を参照)。李献瑞さんの祖父の不幸は、老齢の彼を"便衣"とみて引っ張ったとは考えづらい。やはり「男狩り」との批判は免れ得まい。


