[1]
― 山西赴任の経緯 ―
七七事件発生時、私は湖北省政府主席の任にあった。8月、蒋介石は南京で開催した会議において、軍事委員会の下に六つの部署設置を決定した。それらは秘密保持の観点から、第一、第二・・・第六部と称されることになった。最初に設置された第一部は作戦を所管、私はその部長に就任した。その後、他の部も続いて設置されたが、名称は特に秘されなかった。
― 山西赴任の経緯 ―
私は作戦部部長に任命されたが、とりたてて作戦指揮の能力に秀でているわけではない。その時点では李宗仁や白崇禧も未だ南京に到着していなかったため、蒋介石は各方面との連絡のために私に部長の肩書きを持たせたのだ。図らずも政治の表舞台への登場を自分の足でアピールすることになったのだ。そして9月になると、敵は大同附近に侵攻してきた。蒋介石は私を山西に派遣して情況を視察させ、併せて閻錫山と今後の作戦について協議させることとした。
おそらく9月20日前後、私は太原に到着した。その時点で八路軍はすでに黄河を渡河して山西に増援にやって来ていて、私は山西飯店で何人もの八路軍高官と出会った。
閻錫山は雁門関の嶺口に幕舎を設置し、自ら前線の陣頭指揮をとっていた。私は嶺口の閻錫山を訪ねた。そこには閻錫山とともに、山西省政府主席の趙戴文、綏靖公署参謀長の朱綬光、それに第二戦区の軍法監である張培梅がいた。私は蒋介石の伝言を彼等に伝えた。
「蒋委員長は、山西省は山地帯で防衛に適しており、また晋綏軍が陣地守備戦闘の経験が豊富であることをご存じです。各官におかれましては、山西を防衛して平漢線の西側面を把握することで、敵軍の平漢沿線南下による黄河渡河を阻止し、以て武漢への軍事的脅威を防止すべしとのことです」
これに対し閻は、「中央の指示は良く分かった。また完全に同意だ。私は抗戦前から山西防衛のため、省内各要衝と太原北郊に国防工事を実施している」と答えた。また彼は、「大同撤退は、あらかじめ考えられていた戦略上の一作戦である。私と委員長の指示は全く一緒で、東から西に平型関、雁門関、陽方口のラインで侵攻を阻止するつもりだ」とも言った。
さらに続けて閻錫山はこんなことも言った。報賞も大きくなければ功を賞したとは言えない。同じく懲罰も重くなければ罪を罰したとは言えない。そのため、天鎮を放棄し、陽高の作戦で非力だった軍長の李服膺は銃殺刑に処することに決めたと言う。しかし李服膺は閻の側近だ。その実、当初は李服膺を守ろうとした閻も、憤激する民衆の処罰要求に加えて張培梅の軍法処断の主張には争えず、やむなく銃殺刑に処したのだった。
閻錫山はまた、彼の情況判断に照らせば、敵は必ず先に山西を取り、そののちに平漢線を南下するという。この点、もし平漢線方面で保定以北(このとき保定附近の我が軍は未だ南に撤退していなかったが、前線の衛立煌と孫連仲の軍は既に撤退していた)で敵の侵攻を阻止できるなら、敵は大同方面から雁門関へ侵攻するほかなく、まだ防衛はしやすい。しかし、もし保定と石家荘が守れなければ、敵は必ず娘子関に侵攻し、東と北の両方面から山西を包囲する。ゆえに日本軍は晋北方面に主力を投じ、平漢線方面から牽制するだろう。そして晋北方面には今のところ晋綏軍と八路軍しかおらず、未だ兵力不足のきらいがあるから娘子関をも顧慮することはできない。山西保持の観点からも、中央軍の更なる山西増援と協同作戦が必要である。閻錫山の主張はこのような趣旨であった。
私は閻の主張に同意し、南京に帰還後、蒋介石に伝えると答えた。もちろん、私が帰京の途路にある間に、彼も直ちに蒋介石へ自分の考えを打電したのだった。
出発間際、閻は私に向かって言った。「私が雁門関を守る。絶対に退かない。君は蒋委員長に安心していただくように伝えてくれたまえ」。私は何も問題はないと考えて太原に戻り、南京へ帰還することにした。
途中に立ち寄った石家荘では、平漢線方面前線で作戦をしていた劉峙や徐永昌(彼はどのような肩書きであったか失念)、林蔚(軍事委員会高級参議)らに会った。彼らはみな衛立煌と孫連仲の軍がすでに平漢線西側地区に撤退したことを知っており、戦闘はちょうど保定附近で進行していた。石家荘は保定失陥後の防衛ラインとして準備されるようになった。これはまさに戦略上の持久による段階的な抗戦計画の一端だった。
そんななか石家荘において、突如として八路軍の平型関における勝利の報が伝わってきた。抗戦以来、初めての勝利だ。当時、石家荘の民衆はどんなものにも勝る感激の思いでこの勝利を祝った。このときは爆竹を打ち鳴らし、意外にも敵機の空爆をほとんど忘れてしまった。
このとき私は依然として湖北省政府主席を兼務していた。そこで石家荘から直接漢口に戻ると省政府の職務全般を秘書長の廬鋳に委ねた。その後、船で南京へと向かった。
私は山西省の情況を蒋介石に報告したのち、次のように述べた。
「閻百川の決意は大きい。しかし彼自身、自分のような老人が雁門関で陣頭指揮にあたるのではなく、長期的な戦略を策定してはじめて山西を保持できると主張しています」
さらに続けて、「平型関では確かに勝利した。しかし、日本軍は未だ陸続と兵力を増加させており、山西以後の困難は必然的に大きなものになっています」と言った。
すると蒋介石は突然私に尋ねてきた。「君に山西に行ってもらい、第二戦区副司令長官として閻百川を補佐してもらえないだろうか」
この問題は非常にデリケートだ。無論、蒋は閻錫山の補佐のために私を山西に派遣するのだが、その実、彼自身が山西に手を突っ込んで関与できるようにするためでもある。私と閻錫山の付き合いは浅くない。今は彼も私を拒むことはできまい。そう考えると同時に私は自身を取り巻く今の状況をも考慮した。作戦部は蒋介石のやり方の下で、単に彼の命令を下部にそのまま伝える機関にすぎなくなっている。しかも陳誠一などは電報で私の就任に反対し、私のことを「内戦玄人、外戦素人」と称している。このような状況下でことをなそうとしても何らなしえないだろう。そこで私はこう答えた。
「委員長のお考えは深い熟考の上。私もかの地で閻百川を輔佐することを希望している。ただ、委員長があらかじめ閻百川の同意を得ることをお願いしたい」。
のちに閻錫山は同意の旨返電してきたが、同時に条件も付してきた。彼は自身に関係の深い徐永昌を私の後任として作戦部長に推薦したのだ。これには蒋介石も同意するほかなかった。
[2]
― 娘子関戦役 ―
1937年10月1日、私は第二戦区副司令長官として山西に赴任するために南京を発った。石家荘に到着したとき、以前のように平型関の大勝利を喜ぶ声は聞かれなかった。駅や市街地への敵機の空襲が連日続き、その被害はひどいものだった。国民党軍は保定から消極的な抵抗を行っただけですぐに撤退してしまい、石家荘以北のhu沱河に沿って、平山、正定、藁城の線で防衛ラインを形成するつもりのようだった。このラインはかねてより永久陣地が構築されているとのことだが、工期の関係で未だ未完成だった。セメントは未だ乾ききっておらず、模型板すら解体されていなかった。
― 娘子関戦役 ―
孫連仲の軍は藁城から西に布陣しており、彼の右翼には商震配下の宋肯堂の軍がいるようだ。孫軍の司令部は石家荘の西十数キロの鉄道沿線の小村にあった。私はそこを訪れて昼食をとりつつ孫に情況はどうか、長い間持ちこたえられそうか否か聞いた。彼は、日本軍の攻撃の重点は右翼にあるようで、すでに砲撃が開始されているが、正面は今のところ平穏だと答えた。砲声がときには大きく、ときにはかすかに聞こえてくる。右翼はこの砲撃をうまくやり過ごしているとのことだ。この時点ではまだ孫軍に山西派遣の命令は下されていなかった。私は夜になってから太原へと出発した。
太原に到着すると、閻錫山はすでに雁門関の麗口に設置していた幕舎を撤収していた。撤退の理由を彼は言う。
「八路軍は平型関で一度勝利を収め、敵の前進を止めた。しかししばらくのちに敵の増援が到着し、平型関方面が突破されてしまった。また敵は陽方口方面からも突破して来た。雁門関の正面には大規模な攻撃を仕掛けてきていないが、すでに左右から包囲されてしまっている。我が軍もついに全線後退を余儀なくされてしまった。忻県以北数十キロの忻口鎮で決戦を行うつもりだ」
そしてさらに「中央が派遣してきた隆茂恩と高桂滋の軍は、すでに平型関前線に到着し、作戦を開始している。現在、さらに衛立煌軍の全部と孫連仲軍、それに裵昌会軍を晋北に呼んで忻口会戦に参加させるべく動員中である。忻口は正面が狭いために左右両翼から包囲攻撃しにくい地形だ。そこで、晋綏軍の全兵力と中央各軍を正面にあて、敵後方での活動には八路軍を、さらに晋軍の砲兵十個団(周玳が砲兵司令官)すべてをこの方面に使用する」。配置計画を説明する彼の口調からは、必ず忻口戦場で日本軍を壊滅させることができるかのようだ。
ついで私は娘子関方面の情況を聞いた。彼が言うに、平漢線方面で石家荘の防衛線を守ることができれば、敵は自然と娘子関へは侵攻不能となる。反対に石家荘の防衛線を守れなかった場合でも、平漢線正面で我が軍が敵と近い距離を保持することで敵が西から娘子関を攻撃してきても平漢線の我が軍が側面より敵の後方を攻撃することになるからどちらにせよ有利であるとのことだ。また、娘子関以北より龍泉関の線には、すでに四川軍の馮欽哉の二個師と趙寿山の一個師(これは楊虎城の直属師)を投入しており、娘子関以南より九龍関の線と馬麗関の線(娘子関は含まず)は、中央第三軍の曽万鐘軍を投入して守らせるとのことだ。彼が述べたこれらの動員は、すべて前回の太原出張と今回の赴任の間の私がいない間に蒋介石と彼が直接相談して決定したことだった。そのため、私はこれらの状況を良く知らなかった。
忻口と娘子関で戦闘が発生する前まで、私は毎日必ず閻錫山と何人かの高官とともに、太原のいくらか堅固な防空壕に避難して空襲をやり過ごす。当時、敵機は毎日必ず一回か二回は太原を爆撃していた。ところで、防空壕に避難するたびに、壕には必ず一組の若い夫婦がいた。最初、私は彼らが誰だか分からなかった。のちに閻錫山の参議で、姓を馬と改めたトロキストの張慕陶と分かった。私にはとても奇妙に思えた。なぜ閻錫山と張慕陶がこんなにも親密なのか、なぜ張慕陶は姓を馬と改めたのか。当時、私には全く分からなかった。
おそらく10月5日だった。石家荘の電話が不通となった。忻口戦場ではちょうど部隊が配置についたが未だ開戦していない。私は閻錫山に娘子関方面の情況を視察し、うまく按配してくると言った。彼は非常に賛成してくれた。
私は南京から連れてきた高級参謀の陶鈞、裘時杰、徐佛観らとともに娘子関の関外に位置する井徑駅に到着した。井徑駅の電話で石家荘を呼んでみたが通じない。次いで荻鹿駅を呼ぶ。そこも通じない。荻鹿もすでに敵に占領されたようだ。そこで私は駅の南方に位置する高台に登り、混雑する駅周辺を見渡した。眼下には乗車を待つ孫連仲の部隊(一部はすでに太原付近に移動していた)と、おそらく石家荘、荻鹿より殺到した多くの避難民がいた。
群衆は共通の敵に対して敵愾心を燃やしていた。そしてある者が敵のスパイだと言う男を捕らえて我々の前に連れてきた。土地の者に言わせると、この男の言葉は土地の言葉ではなく、恰好もここらの者とは違う。しかも最初はそっくりそのままの東北語をしゃべったという。徐佛観を呼んで日本語で尋問させた。なるほど、日本人のスパイだった。この男は小高い丘の上で銃殺刑に処した。既にこのあたりにも敵のスパイが探りを入れてきているということは、敵の隊列ももう遠くないところに迫っているはずだ。
その晩、私は太原に帰還し、閻錫山に情況を報告した。
「娘子関方面の情況は相当に深刻です。第一に、正面の布陣が広すぎます。北は龍泉関から南は馬麗関まで地図上では百五十キロもあるのに、たった五個師(陝西軍の三個師、中央第三軍の二個師)しかない。しかもすべて第一線に配備されており、重点もなく、機動部隊もない。もし敵が一点を突破したら、忻口の会戦に策応して、少数の兵力でも南に撤退する我が軍を圧迫できます。私としては、孫連仲軍を娘子関方面に引き返させ、予備軍とすることを提案します」
閻も私のこの意見に同意し、孫軍を娘子関に転進させて機動部隊とした。ついで閻は、この方面の統一指揮を誰に委ねたら良いか私の意見を求めた。私の意見は孫連仲だ。これに対し閻は言う。「馮欽哉と曽万鐘はともに古参だから序列は高い。孫連仲も序列は高いが、馮曽両人とは平時につきあいがなく関係がほとんどないから、おそらく指揮は困難だろう」
しばらく考えたのち彼は私に娘子関方面の指揮を執ってくれないかと尋ねてきた。もちろん多くの困難があることは分かっていた。しかし、承諾するほかなかった。
閻錫山は山西省内の重要地域に国防工事を実施していた。ひとつは太原を中心に北へ雁門関までの四半円形の範囲一帯の隘口、もうひとつは大同を中心に東に陽高、天鎮までである。これらの工事は孫楚が総指揮を執った。1936年の西安事変のとき、閻錫山に調停役を求めるために南京から山西に派遣された際、私は孫楚に連れられて太原北方三十キロあまりの陽曲一帯の陣地の様子を視察したことがあった。その際、私が見たのは、彼らが材料と経費(特に鉄筋とセメント)を節約するあまりに薄くて縦深が浅くなった掩体と、正面の空間、それに未完成の通信設備などだった。しかも彼らにとって娘子関方面の陣地構築はそれらの二の次なのだ。何ゆえそう思うのか。なぜなら、雁北において風雲急を告げるこの時期においてなお、晋綏軍の新編第十団が今だに娘子関で作業を続けていたからだ。
10月中旬、私は作戦指揮のため娘子関に赴いた。南京から連れてきた高級参謀の陶鈞、裘時杰、徐佛観と二、三人の副官のほか、閻錫山が派遣してきた無線要員、それに広西より派遣されてきた護衛兵二百人も一緒だ。護衛兵の武器のうち、小銃は軍政部が支給したもので、機関銃は私が再三にわたって閻錫山に要請したものだ。最初彼に機関銃のことを言ったとき、彼は兵工廠がすでに操業を停止していて太原の兵器庫に在庫はないと答えた。のちに支給されたものの、その九挺の機関銃は臨汾より回収してきたものだった。
その日の晩に娘子関に着き、師長の趙寿山に会って情況を聞いた。彼が言うには、正面には今だ敵の動きはなく、部隊は五個団(増強補充された五個団)で編成されているため、娘子関正面の防衛には大きな問題はないとのこと。問題は左右両翼であり、とりわけ左翼の馮司令官(第二十七路軍)とは今だに連絡が取れず、右翼の友軍にあってはどの部隊か分からない以上、連絡のとりようがないと言う。そこで私は、右翼は中央第三軍の曽万鐘軍であり、孫連仲軍はすでに引き返させて予備軍とした旨を伝えた。彼はそれはよかったと言い、次いで防衛形態について報告した。主力をもって関外の雪花山の要所に依って敵を防ぎ、その他をもって鉄道両側の高地に布陣させたという。雪花山を守れれば娘子関も守れる。万が一雪花山を守れなければ、関の正面で防戦するまでである。
私は関の後方三〇キロ余り離れた下盤石駅付近の指揮所に戻った。指揮所は、軍用地図の上では做磨河川敷と呼ばれる山靠河(小河が関外へと流れている)に依っている。入り口が二つある穴居で、国防工事において策定し建築された拠点だ。しかし、そこは入り口二つの穴居のほかは何一つない場所だった。なにがしかの通信設備すらない。娘子関戦役の間、通信は正太線の電話線といくつかの集落に通っている電話線、それに無線機に頼るほかなかった。
私は晋綏軍新編第十団の白長勝団長を呼んで陣地構築の情況を聞いた。彼が言うには、この方面の作業の工期は太原以北に比べて非常に遅れているとのことだ。そして材料も不足している上に工事にあたるのも彼の一団だけ、しかも現人員も定員に満たないという。おそらく全団の力を尽くしてもこの程度が限界で、副長官にはご諒解頂きたいという。聞いたところでどうしようもなかった。娘子関方面には砲座は設けられていたが、一門の大砲すらなかったのだ。
馮欽哉と無線で連絡をとる必要があったが、一向に娘子関と通じず、連絡が取れなかった。それもそのはず、彼は無線を立てていなかったから、情況がどうなのか知れるはずもなかったのである。馮欽哉がこのような態度である以上、私は彼に重要な作戦任務を与えることを控えなければならなかった。後になって分かったが、娘子関の左翼にはなんら敵情はなかった。もし敵がこのような情況を知っていたなら、平山より六嶺関に進攻して、何ら損害を蒙らずに太原と忻口の間を遮断しただろう。そうすれば、娘子関を攻めるよりも消耗を防げたはずだ。
10月21日午前、娘子関方面に敵が現れた。敵は川岸兵団。井徑方面より進攻してきたため、自然と趙寿山の部隊が真っ先に衝突することになった。
私はしばしば趙に電話をかけたが、彼はそのたびに「我が軍は守りきれる」と答えた。趙寿山の部隊将兵が勇敢に奮戦していることに加え、娘子関方面に進攻してきた日本軍が主力でないこともあった。しかし、娘子関正面で右翼が潰走すれば、趙寿山の部隊は撤退できなくなってしまう。現実にこのことはのちに証明されることになった。
日本軍川岸兵団(第二十師団のほかに特科部隊で編成)は、一部をもって娘子関方面を攻撃し、併せて主力は娘子関の右翼を微水、南zhang城と前進し、旧関(故関とも呼ばれる)に進攻してきた。旧関方面での新たな敵の動きは娘子関正面に比べて遅かった。これは趙寿山師と第三軍の防衛ラインの接合点が戦線の弱点であったため、日本軍の先頭部隊が一挙に旧関を占領してしまい後続が追いついていなかったからである。第三軍は兵力増大のうえで反撃による奪還を企図し、軍長の曽万鐘も自ら前線で督戦にあたった。しかしやはり無理だった。旧関から私の指揮所まではわずかに十五~二十キロの距離で、私は曽万鐘に手紙をしたためて高級参謀の裘時杰と徐佛観に託し戦況を視察しに行かせた。手紙の内容は、将兵を鼓舞し犠牲をいとわずに敵を倒して旧関を奪還せよとの主旨だ。曽万鐘は自ら前線で指揮をとり、数回にわたって反撃を実施した。しかし、日本軍はさほど多くない兵力であったが旧関を守りきった。結局奪還はできず、しばし双方相対峙する局面となった。
日本軍は後続部隊の増援を受けるとすぐさま攻撃を再開し、第三軍の戦線に突破口を開いた。敵は一部をもって南に第三軍を圧迫する一方、主力をもって北へ向かい下盤石駅を占領することで娘子関の退路を断つ腹づもりだ。そして翌朝には、私の指揮所の後方の山にまで接近してきた。この時点で私の周りには手持ちの護衛兵二百人のほかは直接指揮できる部隊は何もなかった。しかしこのとき、孫連仲軍の第三十師の一個旅が近くの駅で輸送先の太原に行く列車を待っていた。この部隊は孫軍の東部投入の命令を未だに知らなかったのだ。そこで私は旅長の侯鏡如を呼び、彼に敵を阻止するよう命じた。直属の長の命令がなく、命令系統を逸脱していたが、侯は命令を受け入れた。侯鏡如旅が山を登っていけば、敵の攻撃にもどうやらもちこたえられそうだ。
また同時に私は娘子関正面の趙寿山師に井徑に向けて出撃し、敵後続部隊が旧関へ前進して突破口を拡大するのを阻止するよう命じた。しかし趙師出撃の結果ははかばかしくなく、反対に関外の要地である雪花山を失ってしまった。趙寿山は私に部隊の損失が激しいが、娘子関と正面鉄道上の要所を死守する旨報告してきた。
このような情況の下、敵はついに旧関方面に攻勢を移して突破口を拡大した。侯旅は損失が大きく、突破されてしまった。そんななか、おりよく楊虎城の陝西軍に属していた教導団が団長の李振西に率いられてやってきた。この団は兵員二千人ほどで、将兵のなかには多くの青年学生がいた。楊虎城が軍備拡張を意図し、その際に初級将校に充てようと考えていたのだ。この団ではすでに西安事変の前から数人の共産党員が教官に就任していたために士気も高く、おまけに団長の李振西はとても勇敢な男だった。私はすぐさまこの部隊に下盤石後方の山より前進してくる敵軍を迎撃するよう命じた。戦闘は午前八、九時から午後の四時まで続き、やっとのことで敵の攻撃をもちこたえた。しかし団の損害は大きく、収容できたのはわずかに五、六百人。団長の李振西も負傷してしまった。
孫連仲の率いる第二十七師(彼の主要部隊)その他の部隊は、白昼東へと列車で移動していたが、途中敵機の攻撃を受け損害を被った。そして午後になって下盤石駅へと到着すると、戦線安定化のために直ちに増援として出撃させた。このときにようやく戦線の調整ができた。しかし、娘子関以北は以前として連絡がつかなかった。この方面は馮欽哉が責を負っているのに、彼は無線を架設せずに私と連絡をとろうとしなかった。幸いにもこの方面で敵情はなく、それだけが唯一の救いだった。また、娘子関正面では、趙寿山師が防衛線を縮小して鉄道沿線に守備を移さなければならなかった。しかし、この時点で敵はすでに旧関方面に転戦していたから問題はさほど大きくない。問題は孫連仲軍が担当する旧関方面だ。この方面は敵の進攻の重点であり、ただ孫が旧関を奪還できることを願うだけだ。そして曽万鐘の第三軍は旧関右の九龍関と昔陽方面に展開しているが、この方面は旧関戦ののちに連絡が途絶えてしまい、詳細な情況は不明なままとなっている。
孫連仲軍の増援投入により、当初は敵を圧迫して旧関付近にまで押し戻すことができたが、旧関は以前として敵の手にあった。この戦闘では、山あいや村落で敵を包囲した場面もあった。しかし敵は投降しなかった。そこで私は報奨として日本兵一人を捕虜にしたら洋銀二百元を出すことにした。しかし孫軍が手に入れた捕虜はわずかに二人だった。無論、日本兵を捕虜にするのは容易ではない。しかもたとえ捕虜にしたとしても、少しでも目を離すと彼らは自殺を図ってしまう。これは彼らの武士道教育の結果だ。実際、ある日部隊とはぐれた一人の日本兵が私の指揮所付近にやってきてしまい、周りをすべて我が軍に囲まれたことがあった。しかし彼は投降しなかった。彼は銃を発砲しつつ逃げ回ったが、結局射殺されたことを覚えている。
また、あるとき私は、孫連仲に敵が占拠する旧関に一個営を遣ってある要点を奪取させることにし、その任務に五万元の懸賞をかけた。彼は第二十七師のある営を指定したので私は懸賞を宣言したが、その営長は憤慨してこう言った。
「懸賞ですと!護国を天職とする軍人はひとたび命令が下れば不惜身命。希望することはだたひとつ。戦いに勝利したのち、国のために命を捧げた我々に碑を建てて記念してもらうこと。それで充分満足です」
目標の要点は奪取できずに、営長と多くの将兵が犠牲となった。生き残りはわずか百人にも満たなかった。その営長の名を覚えていないのが無念だ。
このとき、以前として馮欽哉部隊の消息は分からず、そのうえ曽万鐘の方面も連絡が途絶え、戦況が不明となった。旧関方面の戦局は孫軍の投入によって数日は安定したが、やはり持ちこたえるのは困難だ。私は閻錫山と次の手を相談するために指揮所を陽泉に後退させた。そして太原に戻り、私は閻錫山に娘子関方面の戦況を報告した。
「娘子関方面で馮欽哉は明らかに意図的に作戦を忌避しています。また曽万鐘軍の情況も不明です。鉄道線路正面は敵の攻撃の要点ではないですが、趙寿山師もすでに大きな痛手を蒙っています。旧関を攻撃してきた敵には孫連仲軍が持ちこたえていますが、間違いなく敵は兵力増強を続けるでしょう。奴らは必ず孫連仲と曽万鐘両軍の境界あたりに攻撃目標を定めます。そして、昔陽、平定方面に突進して陽泉を占領することで正太路を遮断し、娘子関と旧関の我が軍を包囲して太原を威嚇するでしょう。すみやかに忻口方面より兵力を抽出して娘子関方面に投入し、忻口会戦への悪影響を避けることをお願いします」
閻錫山は忻口戦場に全力を注ぎ、最初から娘子関方面には注意を怠っていた。彼は平漢線上の石家荘が時間を稼げるとずっと思っていて、娘子関方面が攻撃を受けるとは考えていなかったのだ。よしんば石家荘の線から撤退しても、平漢線上の友軍が娘子関を攻撃に向かう敵を牽制できると考えていた。彼はあれほど早く石家荘が陥落してしまうとは予測しておらず、しかも敵が平漢線上の我が軍の牽制を顧みずに主力をもって娘子関を攻撃するなど思ってもみなかったのだ。その実、平漢線上の守備軍は石家荘から退くと安陽まで撤退してしまい、かろうじてzhang河南岸を守備するだけで敵軍への牽制には全く作用しなかったのだ。そのため、娘子関戦役は準備もおろそかな状態のなかで開始されたのだった。
閻錫山はしばらく考えこんでからこう答えた。「四川の鄧錫侯の集団軍が山西投入の命令を受けて先頭部隊はすでに風陵渡に到着している。渡河後、直ちに乗車して同蒲線で北に向かい、娘子関方面に追加しよう」。「間に合いますか?」私は問うた。彼はまたもや考えこんで、しばらくして口を開いた。「忻口方面を担当している部隊は現在すでに作戦に従事している。これらを抽出することはできない」
翌日、私はすぐさま陽泉に引き返し、指揮所が置かれていた陽泉煤砿局に入った。一両日後、昔陽県からの長距離電話で敵がすでに昔陽に接近しており、部隊を派遣して迎撃する必要がある旨の報告があった。敵が我々の右翼を突破したのは明らかだった。平定・陽泉(陽泉は平定県に属する)が敵の次なる進攻目標だ。
このとき(おそらく10月23日)、おりよく四川軍の先頭部隊である曽蘇元率いる一個旅が陽泉に到着した。そこで直ちに彼を平定、昔陽方面に向かわせて敵を阻止させることにした。しかし、四川軍の兵器は粗雑だ。機関銃が不足しているだけでなく、四川製の自動小銃は数十発撃つと故障する有様だ。曽蘇元の統率する部隊はその夜のうちに平定、昔陽方面に出発したが、次の日にはもう敵に遭遇し、それ以降、戦況がどうなのか全く不明となってしまった。
この時点で、私の手許には護衛隊のほかに直接指揮できる部隊はなかった。そのため、もし敵が陽泉に攻め込めばこれを阻止できる部隊はないから、太原に対する脅威になるだけでなく、正面にいる孫連仲軍と趙寿山軍の退路も断つことになる。私は正面の孫趙両軍を陽泉に退却させる決心をした。しかし実際には孫連仲は私の命令を下す前に独断で陽泉への撤退を開始していた。
翌日、孫連仲は陽泉に到着し私に報告した。敵は彼の右翼を突破した後は昔陽方面に向かって圧迫するはずで、そうなると右翼が包囲されてしまう。隷下各師はいずれも損失が大きいから、踏みとどまることは出来なかったという。私は彼に趙寿山軍の情況を聞いたが不明とのことだった。
このとき私が統率できたのは孫連仲の部隊だけだった。そこで彼には、陽泉で部隊を収容して整理し、再度の反撃で敵の太原進攻を阻止させることにした。また、私の指揮所は寿陽県城の鉄道線路南側にある半月村に移動した。ここには数日ほど指揮所を置いた。このとき、ここを通過して昔陽に前進する八路軍の劉伯承率いる部隊に出会った。彼らは夜間に行動し、迅速かつ秘密裏に敵の後方に侵入するのだ。
しばらくのちに孫連仲軍が寿陽県城に退却してきた。私は指揮所内で一晩かけて彼に情況を聞いた。彼によれば、隷下三個師のうち、馮安邦の第二十七師だけがましな状態で、それ以外の如池峰城の第三十一師と張金照の第三十師は損失がひどくて戦力にはならないという。そこで私は彼に言った。正太路上の陽泉でもし有効な抗戦ができなければ敵は一挙に太原に攻め入ることができる。我々の責任は重大だと。何があろうと馮安邦の第二十七師には陽泉での抗戦を命じなければならない。彼を撤退させることはできないのだ。
そして、ちょうどこのとき、馮安邦が電報で報告をよこしてきた。敵はすでに陽泉に接近しているという。陽泉は地形が不利なため、陽泉以西に撤退して部隊を収容してから抗戦できると言う。孫連仲は馮安邦に陽泉固守の任務を与え、なおかつ馮安邦に対して「再び撤退したら、おまえは銃殺だ!」と言った。これに対して馮安邦はこう答えた。「総司令に報告いたしますが、私の手許にはたった一連ほどの人員しかおりません。もし将兵の収容がうまくいけば、私は必ず最大限の力を発揮して任務を成し遂げます」。実は孫連仲と馮安邦は親戚同士で、孫は馮にいささか贔屓していると言われている。孫が私の前で馮に銃殺云々と言ったのは、おそらく彼が部下に対して厳命を下したことを私に見せるためにわざとやったのだろう。
その夜、四川軍を乗せた二本の列車が山西南部から楡次を経由して寿陽駅に到着した。王銘章率いる後続部隊だ。切迫した情況のなか、私は王に対し、東進して寿陽・陽泉間の鉄道線路以南の山地を占領して前方部隊の収容を援護するとともに、孫連仲の指揮下に入るよう命じた。
[3]
― 太原会議と太原失陥後の混乱 ―
忻口戦場では激戦が繰り広げられていた。対峙する敵を撃滅できないだけでなく撃退することすらできず、敵は陸続と増強を続けて間断なく進攻を繰り返し、我が軍は戦陣を維持するのがやっとだった。そんななか、閻錫山から私に電報で連絡があった。このとき各総司令にも直接打電があった。その内容は太原防衛の作戦配置について議論するため、私と孫連仲に速やかに太原に帰還して会議に参加するようにとのことであった。その日の午後四、五時、私は護衛兵一班を連れて太原に到着した。指揮所の本部人員は楡次付近の鳴李村に駐屯させ、必要な時には楡次以南に撤退するように言い付けておいた。孫連仲も参謀長の金典戎とともに太原にやってきた。
― 太原会議と太原失陥後の混乱 ―
会議は太原綏靖公署の会議室において閻錫山の主宰で行われた。参加者は私と孫連仲のほかに、忻口方面で作戦中の衛立煌と晋綏軍の高級将官たち、山西省政府主席の趙戴文、参謀長の朱綬光、参謀処長の楚溪春ら、主だった面々が一堂に会していた。
閻錫山は皆に太原防衛の必要性を訴えた。彼の作戦では、忻口方面より退却してきた部隊を太原北郊の既設陣地に配置するとともに、一部をもって汾河西岸の山地にある陣地を守らせる。また娘子関から撤退してくる孫連仲軍は太原以東の山地の既設陣地に配置する。そして傅作義が太原城を死守する。
会議の席上、私はこの作戦にはあまり賛成できない旨を述べた。私は太原付近に敷設された陣地を固守する必要はないと考えていた。忻口と娘子関の両方面の部隊は今まさに敗退しており、部隊が陣地を占領する前に敵が太原城付近に圧迫してくることを危惧した。それに陣地の信頼性も疑問だ。私は娘子関方面でマイナスの印象を受けていた。そして万が一守備部隊が通用しなければ敵の圧迫によって多くの群衆が殺到し、太原城区内は前も後ろもないほどに混雑する。その末路は想像するに耐えないものとなるだろう。
閻錫山の山西統治二十数年の長きにわたって首都として機能してきた太原。太原は彼が立ち上げた軍需工業(太原兵工廠)とその他多くの工業の拠点であり、また山西省の官僚たちが長年にわたって築いてきた富が集中する場所でもある。閻にとって軽々と手放せるわけはない。むろん私も太原城を簡単に放棄すべきではないと思う。この時期、一省城の失陥は大陸全土を震撼させるからだ。しかし私は野戦による守城ではなく、守城によって野戦部隊の休息を図るべきだと考える。多くの野戦部隊を整理する時間を得る引き替えにたとえ守城部隊が犠牲となっても、それはそれで価値あることだと思う。閻錫山の作戦では、すべての部隊(守城部隊以外)を北郊の既設陣地に配置し、これらの部隊によって守城部隊を支えることになる。しかし、たとえ忻口方面より南下してくる敵に対して作戦通りに陣地で抗戦できたとしても、私の推察では娘子関方面の敵と忻口方面の敵は歩調を合わせて行動するはずだから、前進を阻むものが何もない娘子関方面の敵は一挙に太原城の東南城門に至る。そうすれば太原城と北郊陣地の野戦部隊は南北両方面より挟撃されてしまう。そうなれば想像に耐えない結果となる。
私の主張は、娘子関方面の部隊(この方面で把握できるのは孫連仲軍と後続の四川軍だけ)を寿陽県の鉄道線路以南に撤退させ、楡次以東の山地に収容して八路軍と連携することだ。もし敵が太原に直攻すれば後側面より敵を襲撃する。もし南に進攻するなら、同蒲線に沿って東側の山地を太谷、平遙に向かって逐次退却する。忻口方面の部隊は一部を北郊陣地の守備にあたらせて守城のための警戒部隊とする(必要な時には汾河以西に撤退する)ほかはすべて汾河に撤退させ、汾河以西の高台を占拠して敵を監視するとともに、機を見て側面より敵を攻撃する。このような布陣によれば、忻口と娘子関から撤退してきた部隊に休息の時間を与えるとともに、敵の太原城攻撃も牽制でき、太原城も城外の部隊による支援を受けることが出来る。
私のこのような意見に、当初、孫連仲と衛立煌はともに賛成した。しかし閻錫山は自分の作戦に固執したし、晋綏軍の将官たちはこれまで閻の作戦にあえて異議を唱えたことはない。私はさらに指摘した。忻口会戦は長期間にわたって準備を費やしてようやく実施できたのに、大撤退後のあわただしいなかでどのようにして会戦など実施できるのか? まず時間は許してはくれないはずだと。
最終的に会議は私と閻錫山が互いに譲らないなか、ほかの者は皆戦場で何日も寝ていないこともあって、会議室にはいびき声が聞こえはじめた。もはやなんの作戦であろうとなかろうと、争論しようとしまいと構わないのだ。会議は深夜一時になってもまだ結論が出せず、とうとう最後に閻錫山がこう言った。「すでに軍は行動を開始した。作戦を変更しようとしても変更のしようがない」。なるほど、閻錫山は我々に電報で会議参加を知らせると同時に、すでに各軍総司令に命令を下していたのだ。
閻錫山はこのように言うと、朱綬光と楚溪春、それに趙戴文に向かって低い声で「行くぞ」と声をかけ、会議室をあとにしてしまった。何人かはまだ寝ているというのに! 楚溪春は閻に「まだ散会を宣言してません。将官たちはまだ会議の結論を知らないのですよ!」と言ったが、閻は「かまわん」と言って出ていってしまった。そしてしばらくして突然明かりが消えた。公署全体が真っ暗になっただけでなく、太原城内すべてで停電だ。停電は三十分ほどで解消したが、このような混乱した情況は内戦でも抗日戦でも未だかつて見たことがなかったものだ。
私は蒋介石に詳細を報告しなければならなかった。そのため、暗闇のなかを手探りで長距離電話室にたどり着き、侍従室主任の銭大釣に電話した。うまいことに電話は一回で通じた。私は銭大釣に娘子関と忻口両方面での敗退の情況と太原会議の様子を告げ、蒋介石に伝えるよう頼んだ。銭は「太原はあとどれくらい持ちそうか?」と聞いてきたが、これには返事に詰まってしまった。今夜の情況を鑑みても、会議が無意味だったことはさておき、将官の多くは部隊の指揮に戻れないはずだ。このような情況は非常にまずい。私は銭大釣に直ちに太原を離れる必要があり、詳しいことは後にあらためて連絡すると言った。このとき、1937年11月4日の深夜二時。
南京への電話を終えた私は、公署正門の駐車場へと急いだ。意外な静寂が恐怖心を誘う。駐車場には私が指定された自動車が見あたらないばかりか、他の自動車もなかった。私の心はあせった。そして以前より傅作義とつきあいがあり、互いに親近感を持っていたことを思い起こした。彼は守城の任に責を負っている以上城内に居るはずで、彼を探し出せばなにか良い方法もあるかもしれない。しかしこのとき城内は真っ暗で、おまけに傅司令がどこに居るかは全く分からなかった。
私に随行していた副官の周杰英はすぐにでも城外に出ることを勧めてきた。遅れて城内封鎖によって中に取り残されれば大変なことになるからだ。私は十数人の護衛兵を連れて、暗闇のなかを南門にたどり着いた。幸いにも城門はまだ開いていた。おそらく閻錫山はまだ貴重な物品を輸送し終えていないのだろう。多くの自動車が今なお出入りしていた。
私たちは城外に出て、道路上を汾河橋(太原汾河橋は二つあり、ひとつは城南、もうひとつは城北にあった)に向かったが、ここでも大きな問題に遭遇した。汾河橋の橋幅は非常に狭く、自動車は一方通行のみ可能だった。そのため、太原より物品を満載して西に向かう車と、反対に物品積載のために太原へと東に戻る空車とが互いに譲らずに大混乱となっていたのだ。何台かの運転手は車上で寝ており、全く急ぐ気配がない。もし空が明るくなる(このときすでに深夜の三時を過ぎていた)までこのままの情況が続けば、敵機の空襲ですべて終わりになってしまうではないか!。ここにおいて戦区副司令長官である私は臨時に汾河橋の交通司令となった。私は副司令長官の肩書きを示して、指示したり誘導したり、一時間ばかりを費やした。空車は少なく、バックも比較的容易だったので、まずは空車に道を譲らせて物品を積載した車を行かせた後、彼らを行かせた。私は橋塔から護衛兵に指示を出してこの作業を行わせた。
空が明るくなってから、私は副官と護衛兵と一緒に何台かの空車に乗りこみ、太原西南数十キロの開柵村に向かった。二日目の早朝に着いた村役場で聞いて、はじめてここが交城県からそう遠くないことを知った。そして県城に着いて聞いてみて、はじめて閻錫山もここに避難してきたことを知った。あの晩の出発間際、閻錫山は私にどこへ避難するかを告げずに行ってしまったが、意識せずにここで彼と出会うことになったのだ。
私は彼に会うと昨夜の経過を概説した。彼は私に「太原はどれくらい持ちこたえられると思うか?」と聞いてきた。私はこう答えた。「分かりません。むしろ私が心配するのは、昨晩か今日のうちに城外の部隊が問題なく陣地で配置に就けるか否かであって、守城はその次の問題です」。すると彼は言った。「宣生(傅作義の雅号)は守城戦で有名だ。あの年、彼は優勢な火力と数倍の兵力を誇る奉軍から、瀦州を二ヶ月にわたって守りきった。私は城内に半年以上持ちこたえられる量の糧食と弾薬を備蓄し、太原の命運を彼に託したのだ」。私もかつての傅作義による瀦州防衛には感服している。しかし、今はあのときから十年も経ち、時代は変わった。しかも敵は勢いを益々増してきている日本軍である。瀦州のときと同じようにうまくいくだろうか。心の中では懐疑的であっても、それを口に出すのは都合が悪い。
閻錫山は私にここに留まって共に問題解決にあたって欲しいと言う。一晩休んで、翌日私は彼に娘子関から撤退してきた部隊を収容に行く旨を伝えた。彼は何も言わずにトラック一台と乗用車一台を按配してくれた。翌日朝早く、私は交城県から汾陽、孝義を経て介休県へと向かうために村を出発した。途中、二度も敵機に遭遇したが、幸いにも発見が早く、いち早く車を道路脇の溝に寄せて敵機の機銃掃射をかわすことができた。機銃掃射には遭ったものの、人も車も損害を受けなかった。
汾陽、孝義の村人たちまだ太原の情況を知らず、市場のにぎやかな往来は以前のままだった。一方、介休に着くと、ここの情況はすでに太原とあまり変わらないものとなっていた。同蒲線のあの大きな駅舎は、直前に敵機の攻撃を受けて破壊され燃えていた。駅に停車していた列車も爆撃を受けてめちゃめちゃに破壊され、兵士の遺体は見るも無惨だ。駅員はみな避難していて、北方沿線の情況を聞こうとしても聞く相手がいない。
夕暮れどきになって、私は連絡が途絶えていた護衛隊を探し出すことができた。彼らは楡次が失陥したときに徒歩で介休まで撤退してきたのだった。彼らが言うには、指揮所の人員は彼らより先に列車で南下したとのことだ。この二百人の護衛隊は、この時点で私が把握していた唯一の部隊だった。私は彼らとともに介休と離石の間にある小村で一夜を明かし、翌日に出発した。そして正午ごろ、離石城から北へほど近い道路のそばの長距離電話が引いてある小村に到着した。私はここで部隊の収容を図ったが、ここまで撤退してくる将兵は皆ばらばらにはぐれた者ばかりで将校の引率もなく、結集することはできなかった。
明らかなことは、娘子関方面の部隊はその多くが昔陽より和順方面に南進するか、楡次より太谷あるいは沁県へと南進して行ったということだ。鉄道は敵機による爆撃の対象となるため、彼らはそれを避けたのだ。私は電話で各方面と連絡をとるとともに、閻錫山に東部方面の情況を報告し、併せて太原城の情況を聞こうと考えた。このとき、閻の声はとても低く、おまけに五台訛がひどくて聞き取りにくかった。やむなく最後には、彼に代わって参謀処長の楚溪春に受け答えしてもらうしかなかった。楚溪春によれば、太原城は11月8日に陥落したとのことだ。私が太原城を離れて四日目、すなわち太原城は四日間しか持ちこたえられなかったのだ。もちろんこのことは閻錫山にも蒋介石にとっても意外だった。私だってそう長くは持ちこたえられないとは思っていたものの、こんなにも早いとは思っても見なかった。閻錫山はこのときすでに交城から隰県の大麦郊に移っており、その後の彼の行動について私は詳しいことは分からない。
ここで太原会議後の情況と北郊の戦闘、それにその他もろもろの情況について記そう。これらはすべてその後しばらくして彼ら自身が私に直接話してくれたものだ。
太原会議は深夜に至っても結論が出ず、閻錫山は彼の幕僚らとともに密かに避難した。そして私も電気が消えて真っ暗ななかを狼狽しつつ太原を後にした。その経緯は既に記した通りである。のちに孫連仲が私に話してくれた内容によれば、彼の場合、暗闇のなかをようやく城門にたどり着いたが、そのときには守城部隊は早くも城門を封鎖してしまっていたという。守城兵をさんざん説得し、ようやく障害物をどかして開門させ、城外に出ることが出来たという。もともと彼の部隊は、太原東方一帯の陣地が構築されていた高地に配置される予定だった。しかし時間がなく、部隊をどれほど収容できたかすら分からない状態のなかで、陣地を占領して敵と抗戦するなどとても出来なかったのは言うまでもない。やむなく彼は身近な人間を連れて汾河を渡河し、河西の山地をあちらこちら逃げ回ることとなった。彼は忻口より退却してきた部隊に出会ったが、この部隊も北郊の陣地を占領して抗戦することなく、西北に向かって四散していったという。また、孫軍第三十八師第八十九旅の旅長だった侯鏡如によれば、第三十軍と彼の部隊は指定された太原以東の陣地を占領する前に敵の圧迫を受けて南へ撤退したという。そして当時、忻口会戦に参加していた裵昌会師は、その晩から開始された陽曲附近の陣地構築を援護する命令を受けたものの、そこへ到着する前に南へ潰走することになった。これらの話からも、北郊陣地に拠る太原防衛計画は、あの晩の混乱からもともと実行不可能であったことが分かる。敵は北と東から太原城へ直攻して太原は陥落、華北戦場での最大の敗北を形作ることになったのである。
私は霊石に数日間滞在したものの、部隊を収容することもできず、毎日南京へ電話で報告する以外には何もできることはなかった。私は電話で銭大鈞に山西の戦局がこのような情況である以上、たとえこのままここに留まっても何も変化は期待できない。南京へ帰還させてもらいたいと言った。銭大鈞は私に、閻錫山が君に言いたいことがあるそうだという。彼は私の指揮によって娘子関方面の作戦が失敗し、それが忻口会戦に不利な影響を与えたと考えているのだ。もちろん、このような私に責任をなすりつけるような閻錫山の言い方には同意できなかったが、敢えて弁明しようとも思わなかった。銭大鈞は私に同情し、蒋介石に南京帰還の願いを伝えると言ってくれた。しかし同時に閻錫山の同意も必要だと言う。私は霊石では何もできることはないと見て、遂に臨汾に退くことにした。臨汾は晋南の比較的大きな町であり、山西省政府と綏靖公署の関係者が集合する場所だ(但し閻はまだ到着していなかった)。ここには衛立煌も撤退してきた。しばらくして、私は蒋介石の許可と閻錫山の同意を得て、専用列車に乗って山西から南京へ帰還した。以後の山西の情況については知る由もない。
出典:全国政協晋綏抗戦編写組編『晋綏抗戦』中国文史資料出版社、1994年(258-274頁)

