[ フリートーク ]

英国へ渡る嵐山の豆タンク

中学生の頃、京都嵐山にあった軍事博物館を参観したことがある。柳の葉がそよ風に揺れる風流な初夏の町並みのなかに、その博物館は高い木々に囲まれてひっそりとあった。古都で戦車や大砲を見ようという酔狂な人は少ない。博物館を訪れたそのときも、参観者は私と幼い妹の二人だけだった。

京都嵐山美術館という名のその博物館には、海軍の戦闘機「零戦」をはじめ、陸軍の戦闘機「疾風」、戦艦陸奥の主砲ほか、大小様々な銃器・大砲が陳列されており、旧軍の博物館としては日本でも有数の充実した展示内容だった。そのなかに戦車もあった。旧軍戦車の顔とも言える豆タンク「九五式軽戦車」だ。

嵐山にあった豆タンクは、南洋から里帰りしたもののようだが、動力部やキャタピラなど、保存状態は良かったように思う。灰茶色のくすんだ車体の色が記憶に残っている。小さい小さいと言われても所詮は戦車の端くれ、前面に立つと意外に圧迫感があった。しかし「今日はもう誰も来ないよ」という受付のおばさんの黙認のもと、車体に上がってハッチから中を覗くと、車内のあまりの狭さに驚いた。当時それほど身体は大きくなかった中学生の私でも、ほとんど身動きがとれないではないかと思われる狭さなのだ。砲弾の装填などの運行作業を、この狭い空間内で行うには身体が小さくなければつとまるまい。実際、戦車兵は小柄な人が選ばれたという。

いざとなれば機銃弾も貫通してしまうほどの薄い装甲に囲まれた狭い車内。油と汗と火薬の鼻をつく臭い、行軍中の振動と前車のあげる土埃。作戦行動が終わったときには顔は真っ黒で、身体の節々も痛んだだろう。夕暮れが迫り、涼しい風が頬をなでるなか、豆タンクで戦地を駆けめぐった人たちの苦労を思った。

時は流れ、嵐山美術館も経営難から縮小を余儀なくされ、一度は移転先の和歌山県白浜のゼロパークで公開を再開したものの数年で閉鎖。豆タンクは海辺の潮風を浴びて朽ち果てるのを待つ身となっていた。そんななか、この豆タンクが遠く海を隔てた英国へと送られることが決まった。東京のさるミリタリーショップのオーナーの尽力で、あの大英博物館にリース供与されることが決まったという。クラシックカーなどと同じく、この豆タンクも現地で丁寧にレストアがなされ、状態によっては走行可能になるかもしれないという。日本生まれの豆タンクが祖国から離れることは寂しいが、戦争の記憶を後世に伝える貴重な存在として、古いものを大切にする英国人の手で生かしていって欲しい。それは豆タンクにとっても、亡き戦車兵の人たちにとっても喜ばしいことに違いあるまい。


華北戦線,1937年 写真右手に写っている兵士が両手に提げているのは飼葉桶だろうか。屋敷の前に繋がれている馬の横で珍しそうに豆タンクを眺めている姿がおかしい。...
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# yama : 2005年2月24日
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