日本軍によって山西省北部を侵された閻錫山は忻口での決戦を決意する。太原攻略のためには、北の忻口と東の娘子関からしか侵攻することはできず、娘子関を日本軍が攻撃するためには、河北省や山東省に展開する中国軍から側面を攻撃される危険を冒すことになるからだ。閻は防衛陣地の築城を急ぎ、晋軍の火砲も全力を集中して日本軍との決戦を準備した。忻口守備軍の兵力は予備部隊を含めて九十七個団(連隊)で、閻錫山自ら戦闘司令所を開設して督戦にあたった。これに対して10月2日に忻口に到着した板垣兵団(北支第五師団)は、同日中に太原攻略を命じられたが、このときの兵力は実質たった五個連隊しかなかった。関東軍とともに独断で山西省に侵攻し、方面軍の支援を受けることが出来なかったからだ。しかし兵団長の板垣将軍は「一ケ師団あれば山西は片附け得る」と楽観的だったという。

忻口敵陣地に対して砲撃を行う第五師団砲兵隊の偽装陣地 (朝日新聞社,1937)

忻口総攻撃第一日目、塹壕を飛び越えて突撃する大場部隊[歩兵第四十二連隊]兵士たち (朝日新聞社,1937)

10月15日、増援に駆けつけた栗飯原部隊[歩兵第二十一連隊] (朝日新聞社,1937)
板垣兵団は、混成第十五旅団及び堤支隊等を右翼(東)に、歩兵第二十一旅団等の師団主力を左翼(西)に配置し、翌10月3日より、火砲九十五門と航空支援をもって攻撃を開始した。これに対し、中国軍は正面に十一個師、右翼に三個師、左翼に六個師の兵力を配置し、火砲九個団の支援をもって迎撃した。忻口戦は準備周到な中国軍に対して勢いに乗って山西省に侵攻した板垣兵団が大苦戦を強いられた戦いとして記憶されている。陣地に籠もる敵に対する攻撃に奇策はなく、優勢な兵力を以て攻めるしかない。劣勢の板垣兵団は戦闘開始直後から損害が続出し苦戦を強いられた。一時は日華事変始まって以来の負け戦を覚悟したようだ。戦闘は11月2日に中国軍が撤退するまでの約三週間の長きにわたって行われたが、板垣兵団の窮地を救ってくれたのは平漢線方面(第一軍)と津浦線方面(第二軍)から南進してきた北支軍だった。
閻錫山は娘子関方面を楽観視していたが責めるのは酷だ。平津地方の兵力約八万の北支軍に対して、保定から出撃した中国軍は四十万人の大兵力だった。琢州・保定から後退したとしても、徳州付近にある友軍が牽制になるはずだし、娘子関へは五個師が第一線の防衛にあたるからだ。ただし、娘子関は第一線の正面が百五十キロと広く各部隊が担任する正面が広すぎる、陣地構築が進捗していない、火砲が少ないなど、かなりの苦戦が強いられることは予想された。そして現実には友軍は牽制の役目を果たさなかったばかりか、北支軍は中国軍の裏を付いて大胆にも南の旧関方面に侵攻してきた。
![]() 井径に侵攻した日本軍 | ![]() 娘子関を突破して西進する川岸兵団 |
娘子関戦場における中国軍の兵力は、正面陣地に一個師、右翼に二個師、左翼に二個師、予備軍に三個師の体制だったが、左翼の二個師は連絡不通で戦力外だった。対する北支軍は川岸中将率いる第二十師団で、10月13日に井径に到着し先遣隊が一度攻撃を行ってからは、一端石家荘に集結後21日に出発、陣地構築が進んでいた新城関への攻撃を避けて、二個師が守備する南の旧関に対する攻撃を開始した。川岸兵団は昔陽支隊を含めて三個旅団の兵力だったが、野戦重砲兵連隊の配属を受けており、重砲三十六門という強力な火砲支援によって攻撃を行うことができた。そして攻撃隊の左翼に昔陽支隊を並進させて娘子関守備軍の背後を脅かすことで戦線崩壊を狙った。21日中に娘子関前面の雪花山陣地が陥落し、23日には旧関が突破され、戦線は崩壊した。
その後、中国軍は撤退部隊と四川からの増援軍で反撃を試みたが、日本軍の迅速な侵攻に防衛体制を築けなかった。川岸兵団は29日には平定、30日には陽泉、11月2日には太原の西約六十キロに位置する寿陽を占領した。また兵団の南を並進してきた昔陽支隊は同日昔陽を占領した。忻口の中国軍は後側面を脅かされることとなった。寿陽陥落の11月2日、忻口の中国軍は撤退を開始した。
近代戦での主目的は敵野戦軍の撃滅で城市の防衛は戦略上あまり意味がないが、日華事変における中国軍の常として、山西戦場でも省都・太原の"保衛戦"が企図された。11月4日、忻口から撤退した中国軍は太原北郊陣地への展開を命じられたが、部隊が展開を終了する前に、娘子関方面の敗軍を追撃してきた川岸兵団が太原城の東へ殺到した。太原攻略の華は、山西作戦を強引に進めた板垣将軍に持たせることになった。11月8日、板垣兵団を中心に日本軍は総攻撃を開始、同日中に城内に突入し、太原は陥落した。



