[ コラム 社会 ]

文化活動に力を入れた山岡部隊

1940年(昭和15年)~1944年(昭和19年)にかけて、東京の出版社から『山西省大観』という本が出版された。六分冊のその本は、すでに当時は蒙彊政権の統治下にあった晋北13県を含めた山西省全域105県について、各県毎に歴史・経済・宗教・文化・風俗習慣を詳しく紹介した地誌だった。


『山西省大観』の表紙。写真の第六巻は総論と題され、省誌としての内容をもつ。

『山西省大観』巻頭に掲載されている山岡重厚将軍の題字。

この『山西省大観』は、監修に参謀本部とあるように兵要地誌の調査結果を元原稿にしたものだ。兵要地誌を元に本を出版する例は稀にあったようだが、この本は現在でも戦前期山西省の基礎資料として高い価値を持っているように、中国一省の地誌としては稀に見る内容充実した大部だった。装丁もしっかりしており、今も国内各地の図書館で収蔵されているのをみても刷り部数もそこそこあったようだ。当時としてはとても珍しいことだ。

おもしろいのは中部地方の一、二巻と北部地方の五巻、それに総論の六巻に、"陸軍山岡部隊"が編者として記されている点だ。兵要地誌の調査にあたった部隊だが、他の地域の調査にあたった組織名が書かれていないのを見ても存在感をアピールしている。

山岡部隊とは、1937年(昭和12年)末の太原陥落後に侵攻部隊にかわって警備についた第百九師団で、師団長は山岡重厚将軍が務めていた。山岡将軍は高知県出身の陸士15期・陸大24期、陸軍省軍務局長を務めたエリート官僚だったが、無類の刀好きという点と、余人をして真似できないその"型破り将軍"ぶりが旧軍のなかでも際だっていた人だ。実は山岡部隊名による出版物は他にもある。「山岡部隊本部内山西文化保護会」なる名で『太原博物館案内』というパンフレットも発行しているのだ。


『太原博物館案内』

パンフレット自体はタイプ打ちされた解説文が載る10ページほどの小冊子で、出版も現地のみのようだが、陸軍の名で博物館案内を出したのは旧軍史上他に例がないのではないか。

パンフレットで紹介されている太原博物館は当時城内にあった文廟で、辛亥革命後の1919年から山西省教育図書博物館として開館されていた由緒ある博物館だった。閻錫山治世下の1933年からは民衆教育館として利用されていた。古典籍を中心に収蔵していたが、戦争の混乱で一部に被害が出たようだ。戦後に国府が掠奪文物の返還を日本政府に求めた際の目録に数点の文物が被害に遭ったと記載されている。


博物館前の路地。今も往時の面影を残している。(2001年)

パンフレットの序文には「即ち我山岡兵團此地に入城するや、旬日を出でずして『山西文化保護會』を組織し、散佚湮滅せんとする文物を保護し、山西文化の再興に力を致せり」とある。外務省の記録でも、山岡部隊が「博物館ヲ假設シテ書籍、古物、標本類ノ散佚防止ニ努力シタ」とあり、その業績はあの雲崗石窟保護にも並び賞賛されるところだという。大したものだ。山岡部隊の手で復興された太原博物館は、国共内戦や文革の荒波を生き、今も旧城内で公立の山西省博物館として運営されている。

ちょうどパンフレットが出版された1938年(昭和13年)8月は山西省公署が成立した頃で、初代省長には閻錫山の側近の蘇体仁が就任している。彼は教育に熱心だった閻の下で山西大学予科学長を務め、のちに華北政務委員会教育総署督辨に就任する文教出身官僚だった。博物館の整備とパンフレットの出版という一連の活動も、この人事と関係ありそうだ。ただ、新政府に関する政務一般は太原特務機関の所管で、山岡部隊はあくまで太原警備が任務だったから直接の関係はない。山岡将軍が師団長として太原にいたのは1937年(昭和12年)末からのおよそ1年間だが、その間部隊は作戦らしい作戦をほとんど行っておらず、任地では相当に暇だったと思われる。当時師団には宣撫班が配属されていたこともあり、山岡将軍は所管違いも気にせず首をつっこみ、好きな(?)文化方面ということで精を出したのかもしれない。

そう考えると、前出の『山西省大観』についても山岡色が反映されていそうだ。第1巻の表紙をめくると山岡将軍の揮毫が目に飛び込んでくるのは良いとして、わざわざ編者に山岡部隊名を冠しているところを見ると山岡将軍の強い意向があったのではないかと勘ぐりたくなる。ただ出版がどのように進められたかの経緯は判然としない。出版元の生活社は東京の小さな出版社で、他にもあまり売れそうにない中国関係の専門書を多数出版していた。

揮毫の後には澤田茂参謀次長の推薦の辞があり、そこには「山西省各縣別の貴重なる地誌として同地の建設に寄與するところ少なからぬものと信じて...」とある。第1巻が出版されたのは1940年(昭和15年)で、最後の第6巻が終戦前年の1944年(昭和19年)だ。立派な書籍をこの時期に全巻刊行した点を考えると、閻錫山の懐柔工作(対伯工作)の流れで、現地への投資誘致などの目論みがあったのかもしれない。

日華事変で動員された陸軍の中では、珍しく文化活動に力を入れた山岡部隊。強烈な個性を持つ山岡将軍のキャラクターゆえと感じるが、残念ながらそれについて書き記した資料は今の所ない。山岡将軍は回顧録を出していたようだが、一年ほど方々で探したものの見つからなかった。その山岡将軍だが、1938年(昭和13年)末に中国から帰国、翌年初めに召集解除で軍を引退している。その後、靖国刀匠会の会長を務めた。戦後は刀の目利き本を出版している。旧軍人のなかでもこれほどストレートに趣味に生きた人も珍しい。


陸軍山岡部隊編、参謀本部監修『山西省大観』生活社,1940年~1944年
山岡部隊本部内山西文化保護会『太原博物館案内』1938年
外務省文化事業部「北支那ニ於ケル史蹟ノ現状並其ノ保存ニ就テ」1939年
中華民国政府教育部発行,外務省特殊財産局訳『中華民国よりの掠奪文化財総目録』(復刻版)不二出版,1991年

山西省北部の街・大同にある雲崗石窟は、信仰や宗派を問わず訪れた人すべてを感嘆させる素晴らしい遺跡だ。この雲崗石窟は戦前の日本人と深い馴染みがあった。
# yama : 2006年6月14日
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コメント(4)

在文化活动倾注了力量的山冈部队

土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/

从1940年(昭和15年)到1944年(昭和19年),由东京出版社出版的《山西省大观》这部地方志书籍,共分六册。晋北的13县当时已经处于蒙疆政权统治之下,包括晋北在内的山西省全境的105个县,各个县的历史、经济、宗教、文化、风俗习惯,该书都做了详细介绍。

这是《山西省大观》的封面,照片的第六卷题有总论,具有作为省志的内容。

这是刊登在《山西省大观》卷首的山冈重厚将军的题字。

就像这部《山西省大观》写着的那样,“监修:参谋本部”,它是把兵要地志的调查结果作为原始书稿的志书。以兵要地志为材料而出版书籍,似乎很稀少,可这部书即使在当今,作为战前时期山西省的基础资料,就像它所具有很高的价值那样,从中国一省的地方志来看,是罕见的、内容充实的大部头书籍。装订也很结实牢靠,即使今天翻看收藏于日本国内各地的图书馆的该书,印刷的数量也似乎刚够使用。在当时来说,这是非常珍贵的。

有趣的是,在山西中部地方的一、二卷,北部地方的五卷,还有总论的六卷里, “陆军山冈部队”是作为编者而加以记载的。这支部队虽然是承担兵要地志调查的,可也担当了其他领域的调查,即使其组织名称没有被书写在上面,看到这些内容后引起的共鸣,也会觉得他们的调查确存在。

所谓的山冈部队,就是1937年(昭和12年)底,太原陷落后,转变为进攻部队、担任警备的第109师团。山冈重厚将军担任师团长的职务,他出生于高知县,毕业于陆军士官学校15期,陆军大学24期,他是曾经担任过陆军省军务局长的精英官僚。他无与伦比的爱刀和别人不能够模仿的“破例将军”的样子,即使在旧军队里,也是标奇立异的。实际上,以冈山部队名义出版的,还有其他书籍。以“山冈部队本部内山西文化保护会”名义出版的,还发行了《太原博物馆指南》的小册子。

《太原博物馆指南》

小册子本身是打印出来的,文字解说大约记载了10来页。出版发行也好像仅仅在当地,不过,以陆军的名义刊行博物馆的指南,在旧日军的军史上,也是没有其他例子的吧。

小册子介绍的太原博物馆,就是当时位于城内的文庙。博物馆是具有这样来历的,从辛亥革命后的1919年起,该庙就作为山西省教育图书馆而开馆。从阎锡山治世下的1933年开始,文庙被作为民众教育馆而加以利用。该庙以收藏古典书籍为中心,好像由于战乱一部分书籍出现了毁坏。战后,国民政府要求日本归还其掠夺的文物的时候,在目录上记载着遭到了毁坏的数处。

在小册子的序言里写着:“于是,我山冈兵团入城到达此地,不出10天的功夫就组织了‘山西文化保护会’,保护将要逸失湮灭的文化,致力于山西文化的再兴”。外务省的记录也写着:山冈部队“临时设置博物馆,努力防止书籍、古物、标本之类的物品失散”,据说其业绩受到了赞赏,与那个云岗石窟的保护相提并论。真了不起啊!由山冈部队复兴的太原博物馆,在国共内战和文革的怒涛中,幸存下来,今天仍在旧城内作为山西省博物馆而经营运作着。

小册子出版的1938年(昭和13年)8月,正好是山西省公署成立的时候,阎锡山的亲信苏体仁就任首任代省长。苏是一个热心于教育的阎的部下,曾经担任山西大学的预科校长,后来,就任于华北政务委员会教育总署督办,苏是文教出身的官僚。博物馆的筹备完善和小册子的出版,这一系列的活动似乎都与这个人事有关系。只是有关新政府的一般政务,为太原特务机关所管辖,山冈部队说到底是担任太原的警备,所以,他(与苏体仁)没有直接的关系。山冈将军作为师团长呆在太原的时间,是始于1937年(昭和12年)底的大约一年的时间,这个期间,几乎没有进行过像样的作战,我想,山冈在任职地是有相当多的闲暇时间的。当时,师团里往往配备有宣抚班(译者注--关于宣抚班请看博文),也许山冈将军没有把其所管辖事情的差异放在心上,而埋头致力于其所喜欢的文化事业方面了。

这样看来,关于前述的《山西省大观》,也似乎反映了山冈的特色。翻开第一卷的封面,跳入眼帘的就是山冈将军挥毫所题的大字,这从恰当的方面来看,特意在编者的位置上,冠以山冈部队的名称,这里边是不是具有山冈将军的强烈意向呢?这是我的胡猜乱想。只不过是,出版书籍是怎样运作的?其原委还不清楚。原出版社为生活社,它是东京的一个小小出版社,在其他方面,还出版了很多似乎不怎么畅销的、与中国有关的专业书籍。

在山冈将军题词的后边,还有泽田茂参谋次长的推荐词,那上边写着:“我相信,作为山西省各县珍贵的地方志,有不少内容是有助于当地建设的”。第一卷的出版时间为1940年(昭和15年),第六卷出版时间为战争结束的前一年,即1944年(昭和19年)。在这个时期出版了优秀的图书,若是从这一点来考虑到的话,那么,这就是对阎锡山进行的怀柔工作的变迁,也许有为当地招商引资的意图等。

在因日中事变而动员的陆军里,山冈部队是少见的在文化活动倾注了力量的部队。这就是我感到山冈将军具有强烈个性的原因,不过,遗憾的是,有关记载这方面的资料现在还没有发现。山冈将军好像出版过回忆录,我尽管在各个方面进行了一年多的探索,可还是没有找到这本书。这位山冈将军在1938年(昭和13年)底。从中国回国了,第二年年初,因解除征召而复原,从军队中隐退了。其后,担任靖国神社刀匠会的会长。战后出版了鉴别刀的书籍。即使在旧军人当中,就这么一直生活在趣味当中的人也是罕见的。

投稿者 : 匿名 さん 2009年3月 4日 22:13


yama さん:
您好。日军占领大同期间,曾出版过叫做《蒙疆大同》的地方性志书,我没有看到过这本书,听说是记述大同事情的一本好书,是日本人写的,我也不清楚作者叫什么名字。

如果您能搞到这本书或其复印件的话,能不能给我寄来,(请寄挂号信)我非常想读一读这本书,中文版或日文版的都行。麻烦您了,拜托您了。

邮政编码037017

中国
山西省大同市
同煤集团第三职工医院

陈尚士

投稿者 : 中国 山西 大同 陈尚士 さん 2009年3月 1日 11:18


堀さま
幼子を連れての生活と帰国は大変なご苦労があったこととお察しいたします。当時の中国は衛生状態が悪く、在留邦人の乳幼児死亡率が高かったうえ、終戦後の太原残留では子女の就学など生活環境が良くありませんでした。また、昭和23年引揚げですと、太原は中共包囲下にあって鉄道は途絶、乗船地である天津までは飛行機だったのではないでしょうか。戦前山西にゆかりのある堀さまにご覧いただき励みになります。またお越しください。

投稿者 : yama さん 2008年4月10日 17:11


私の父は堀日露男と言いまして太原で私は生まれまして、S23年に最後の引揚者でした。長男も他界してこんな手に取る程貴重な資料があるなんて分かりませんでした。
参考になりました。有難うございます。さっそく今夜は仏壇に両親に手をあわせます。

投稿者 : 堀光男 さん 2008年4月10日 16:52


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