山西省は年間降水量が平均330~600ミリという乾燥地帯だが、上流から流れ込む河川を利用して灌漑さえされていれば水稲は不可能ではなかった。実際に日華事変前にも省内では灌漑の進んでいた北部の桑乾河や中部の汾河一帯に稲田があったという。例えば『山西農業と自然』という研究書には、大同附近の桑乾河沿岸で畑作の前の土壌改質に水稲が利用されていることが報告されている。それは洪水時に濁流を導入して泥土を堆積させ、水稲栽培を数年続けて土壌の脱塩を行うことで蔬菜栽培地として利用するのだという。反対に黄河流域は地下水脈で井戸水利用が主だったために灌漑が進んでおらず、稲田はなかったようだ。

山西省の農村における耕作地の風景。
小川の渓谷に沿うように段々畑が設けられている。(山西省保徳県,1997年)
中国大陸における米作は華中のデルタ地帯が中心で、山西省を含む華北では稲田は全耕地面積の6.0%とわずかだったため、米のほとんどは域外からの輸入に頼っていた。しかも中国で生産される米の多くは南京米と呼ばれた長粒種だったから、華北に日本軍が派兵されると、日本人が好んで食べるうるち米は朝鮮や内地から全量を輸入することになった。ただこの時期はまだ域外からの米輸入に支障はなかったので、北支那方面軍でも現地での米の生産拡大は緊急の課題とはなっていなかったようだ。例えば、内地で米の配給制が開始された1939年(昭和14年)に、北支那方面軍が朝鮮軍に対し、山西省における水田開発用として、わざわざ冷害に強い種を指定して種籾1.5トン分の発送を要請しているが、これも自給体制の確立を想定したものとは言えそうにない。その後に実験田の設置など具体的な処置がとられた記録が残っていないからだ。おそらく、朝鮮から中国にかけた広い範囲で深刻な旱魃に見舞われ、省内では例年の48%の収穫しか見込めないという危機的状況(種籾を食べ尽くした)での緊急輸入の部類に入るのではないか。山西省を含む華北で水田開発と水稲普及への取り組みが真剣に始まったのは、太平洋戦争が始まって米だけでなく、総じて物資全般の現地自活が要請されるようになってからだ。
1942年(昭和17年)1月に北支那方面軍がまとめた「軍需糧秣現地自活率強化ニ就テ」という文書では、精米の現地自給率を昭和16年度の十分の一から昭和17年度は十分の二へと引き上げることを目標に掲げている。この当時でもたとえ南京米だとしても華北で自給率が十分の一あったとは少し驚きだが、需給予定表からはさらに厳しい状況が伝わってくる。
別の資料だが、山西省内(晋北12県を除く)の米生産量は籾ベースでたった約12トンで、しかもこれは精米への歩留まりの悪い陸稲を含めた量だ。現在でも籾から精米への歩留まりは75%ほどだから、技術も低い当時では精米量は良くて7~8トン程度だろう。この数値は1939年(昭和14年)の調査結果から導いたもので、その後1942年(昭和17年)まで米作の奨励は行われていないから、農業人口の増加などを考えても、米生産量の変化はあまりなかったと見て良い。それに対して昭和17年度に山西省で取得すべき米の需要量は3000トンという量だった。これでも第一軍の兵力10万人からすると随分控えめな量なのだが、省内自給など夢の話であることが分かる。しかも、第一軍が野戦貨物廠に集積していた供給可能な精米の量(調辨総量)は1000トンで、すでに差し引き2000トンの不足となっていた。内地からの輸入がすぐに途絶することはないが、危機感を抱いた第一軍は各県新民会を通じて山西省内での水田開発を積極的に進めることとなった。

省内における水田の畔造りの様子

試験田における苗取りの様子
1942年(昭和17年)、第一軍は経済統制令を発して米の自由売買を制限するとともに、各県新民会を通じて畑から水田への転換を積極的に進めた。終戦までの間に省内全体で実際にどれくらいの土地が水田になったかは資料がないため明らかではないが、運城、臨汾、路安、介休、楡次、太原、晋祠等で開発が行われたようだ。例えば臨汾では同年に三年間で1500ヘクタールの水田開発が計画され、初年度500ヘクタールの開発に第一軍から連銀券で51万元の工事費が支出されたという(笠回想)。航空写真を基に用排水路が設けられ、水を引き入れて小麦畑が水田に変えられた。種籾には冷害に強い陸羽132号など内地の高品位種が取り寄せられて植えられた。秋の収穫期を迎えた臨汾の試験田では「眼界一面が黄金色に塗り変えられ見事」な風景が出現したという(村瀬回想)。
水田開発と同時に内地から農業指導者を招いた技術教育も行われた。満蒙開拓団の内原訓練所出身者を中心とした30名の日本人技術者が山西省に渡り、山西省農作改善指導班として、1942年(昭和17年)と翌1943年(昭和18年)の二回、各地で指導にあたっている。当時省内では主に直播栽培が行われていたので、収穫量の増大が見込める移植栽培の教育や、籾の固い内地米のための高度な脱穀技術の指導などが行われた。その後、1944年(昭和19年)には省内の指定地域に内地から優良農村を定着させるモデル事業も開始され、最初のケースとして晋祠に発案者の村瀬夫妻が移り住んだ。夫人も田植え仕事に汗を流したという。半世紀以上も前に、辺境の山西にモンペ姿の日本女性が田植えする姿が実際に見られたのだ。
このようにして第一軍は自給自足体制の確立のために、水田開発による水稲の普及と農業改善を進めた。しかし折からの統制経済の進行で必要資材の調達もままならず、治安の悪化もあり、水稲の普及はあまり芳しくなかったようだ。それでも、仮にうまくいったとしてヘクタール当たり1トンの収穫量と考えると、初年度の臨汾の試験田でも500トンの収穫となるから、自給体制の確立にはそこそこ寄与できたようにも思える。終戦当時の第一軍兵力は約6万人で、軍の一線部隊では米に不自由したという話は聞かない。ただ、山西省でも中国政府に勤める邦人職員が高梁などの雑穀の配給だけで栄養失調に悩まされたという。

