
河本大作(1882年~1953年)
1940年(昭和15年)秋に満炭を追われた河本は、しばらく浪人暮らしを余儀なくされる。当時、北支那方面軍司令官だった妹婿の多田駿を中心に、関係者は河北省の開欒炭坑を河本に斡旋しようとしていたようだ。一説によれば、炭坑社長の話には鮎川の差し金との噂があり、河本が断ったという。真偽はどちらにせよ、炭坑社長の話は流れて、その次にやってきた話が山西産業だった。
山西産業株式会社は、軍管理経営を行っていた各種36工場を傘下に持つ国策会社で、そのほとんどは戦前に閻錫山が創設した西北実業公司を接収したものだった。傘下の業種は、炭坑、鉄鋼、電気、機械、化学、紡績、食品等、50種以上の多方面にわたり、山西産業はこれらを統合運営する一大コンツェルンだった。満鉄よりは規模が小さいが、省内独立が可能なほど経営範囲は広かった。傘下の各企業は太原占領後から日系企業を中心に経営を委託していたが、統制経済の進展によって統合運営の必要性が高まり、1942年(昭和17年)に委託経営企業13社と北支那開発株式会社の出資によって会社を設立、4月から営業を開始した。初代社長は、山西経営の筆頭財閥である大倉鉱業の太田文雄が就任したが、わずか五ヶ月後の同年9月には病気を理由に辞任している。河本は太田社長の後任として山西に赴任した。
河本の社長就任に尽力したのは第一軍参謀長を務めていた花谷正少将と言われている。河本と花谷は共に満州事変で暗躍した同志であり、親分子分の関係だった。支那通の岩松軍司令官(河本赴任直前に離任)の支持もあり、軍の強力な統制の下での山西経営と、民間で閻錫山工作を進めることが出来る人物として、河本に白羽の矢がたった。河本と閻は、反蒋戦に破れた閻が大連に逃れていた時代に面識があったという。
第一軍では、"大東亜建設"に寄与し、また規模を拡大して閻錫山工作の推進剤にするため、軍による山西財界への統制強化を目論んでいた。すでに会社設立直前に、新会社(山西産業)は人事を含め全て第一軍の指示の下に経営を行っていくべき旨を花谷参謀長の名で示していたという。一民間企業に対して随分と乱暴な話だが、これこそが山西産業の立場を示していた。当然、それまで「自由進出」の機運で投資を行ってきた財界とは軋轢を生じることとなった。花谷はかねがね側近に「財閥勢力を山西から一掃」することを放言して憚らなかったという。初代太田社長の辞任はこの流れで理解される。そして後任社長として太原に来た河本は、就任直後から人事権を行使して大倉を中心とした財界出身幹部を抑え込み、満炭から呼び寄せた仲間や退役軍人で上層部を固めていった。
河本の経営手腕については良く分からないが、山西産業は独占企業であるうえ、軍の意向に沿って経営を続ける限り物動による資材割当も優先的に取り扱われたので、経営の才覚をそれほど必要としない殿様商売だったと言える。どこの資料から引っ張ってきたのか明らかでないが、防衛庁の戦史叢書では河本が「大いに手腕を発揮」して「発足一年後には150万円の利益をあげた」と書いている。しかし大倉の資料では昭和17年度の営業収支が実質ベースでも613万円だから誇らしげに書くほどのものではない。経営の実務は大倉出身で技術屋の高橋鉄造が仕切っていたが、河本とはしっくりいっていなかったという。ただ、高橋は敗戦後の河本の残留につきあっているから、深刻な対立があったとまでは思えない。そして、河本の軍との強力なコネは、占領地における企業経営には最大の強みだった。河本は月に一度は北京に出張して、方面軍司令部や北支那開発、華北交通などと折衝を持ち、全ての問題は河本の一言で解決したという。
社長業とともに山西における河本のもう一つの顔が謀略家としての顔だ。それは戦時中には閻錫山工作であり、終戦後は日本人残留の首謀者の一人として名指しされる。
閻錫山工作について言えば、第一軍が進めていた対伯工作がこの年5月の安平会談で破談に終わっており、北支那方面軍からうち切り命令が出された状況下では第一軍として表だって活動はできなかった。民間レベルでの"自発的活動"として、会社資金を工作の原資に流用して継続していくことが求められた。河本は社長就任直後より閻の太原事務所を通じて接触を保ち、翌年の1943年(昭和18年)に第一軍の笹井参謀の提議で決まった経済協力では、双方の軍用物資の生産や交換の任にあたる「五人理事会」または「三委員会」と呼ばれる経済委員会の理事長を自ら務めている。また閻の側近である彭士弘、賈英雲の二人を山西産業の社外重役に招いている。彭は終戦後に経理専務重役となって会社の接収処理にあたった人物だ。
戦時中の閻側との接触は、皮肉にも終戦で支配者としての立場が入れ替わった時にその力を発揮することとなった。終戦一週間前には閻側から河本をはじめ澄田軍司令官らに、ソ連の対日参戦と日本のポツダム宣言受諾交渉が伝えられ、終戦を見据えた進駐・接収について実務折衝が開始されたという。そして終戦前から、日本人の残留についての非公式のやりとりが行われたという。山西産業では、河本が接収後の同社最高顧問に就任し、戦前より規模も技術水準も拡充した同社工場の運営に必要な人材のリクルートが終戦直後から行われた。西北実業建設公司と名を変えた山西産業全体では、日本人職員の半数が解雇・帰国となったが、もう半数の職員は終戦前と同じ待遇で留用されることとなったという。その数は職員の家族を含めて1200人という。河本の供述によれば、60人前後の主任技術者を中心に、傘下各工場での操業継続を図ったという。彼らへの勧誘が具体的にどのような経緯で行われたかは不明だが、河本が部下に残留を説得したことは本人も認めている。
総勢5600人という日本人の山西残留。民間人は3000人(うち山西産業だけで四割を占める)を数えたが、この残留事件に河本が具体的にどのように関与したかは明らかではない。獄中での河本の供述でも他の収監者による供述でも、彼が部下を勧誘した以外に残留事件を推進した具体的活動について証言している者はいない。河本が山西残留に賛成していたのは間違いなく、軍は誰それが、じゃあ民間は河本が、という形で首謀者らと謀議を図ったことは考えられる。しかし偽の軍命まで出して武装部隊を残留させた軍関係者に対し、民間人の残留は(多少の圧力はあっても)あくまでも自発的意志の範囲を越えることはなく、中共の主張のように河本を残留の首謀者(責任者)の一人と決めつけることはできない。河本が民間人の山西残留に及ぼした影響力は、日本人居留民会長を務めており、残留民間人の多くが山西産業社員ということからもシンボル的存在として人々に意識されていた程度ではないか。
実際、獄中での彼の言動などをみると、満州時代からの実績を自負する経済人として、山西の地で資源開発を続けたいという思いが強かったようだ。彼は西北実業の最高顧問として終戦後も経営に関与したが、獄中での供述では、次第に中国側(閻側)が日本側からの経理上の意見を尊重しなくなり、さらに国共内戦の戦局悪化で資源開発よりも兵器生産に傾倒していったことを不満として、最高顧問を辞任して帰国することを考えたと述べている。実際には、1949年(昭和24年)1月に澄田軍司令官らが閻錫山の用意した航空機で包囲下の太原を脱出したときに河本はこれを断っている。残留を呼びかけた部下や日本人居留民を裏切って自分だけ帰国することはできないという思いからだが、中共とも資源開発で提携ができるのではないかと期待していたふしがある。今さら河本の心中を推し量る術はないが、そもそも張作霖爆殺で天皇陛下から敵視された河本にとって、日本に居場所があるはずもなかったのではないか。
1949年(昭和24年)4月、中共軍の総攻撃で太原は陥落した。河本と残留日本人にとっては二度目の敗戦だった。戦前は山西産業、戦後は西北実業と呼ばれた工場群は、今回も無傷のまま中共軍に引き渡された。河本は他の日本人残留者と共に太原城内小東門に近い政治犯収容所に収監された。
義弟の平野零児によれば、日本人は約10名ずつに分けられたが、河本を含む数名だけは中国人房に一人ずつ分けて入れられたという。重要犯扱いだったのだろう。そこは八畳ほどの広さに十数人が押し込まれ、身動きもできない狭さで、端に追いやられた河本の居場所は戸板を渡しただけの便壺の上だったという。日本人は天気の良い日に房の外で日光浴をしながら虱取りをするのが日課だったが、元来潔癖だった河本は同室の中国人からうつされるために諦めていたのか、洗濯も日光浴もせず、両足のくつ下からは虱の行列が見えたという。そしてこのような獄中生活の唯一の息抜きが、夕食後のマルクス勉強会だったというから、その辛苦がしのばれる。

河本の自筆供述書とされるもの
収監されて半年後の1950年(昭和25年)1月、河本は"山西A級"と呼ばれた他の残留首謀者たちとともに北京監獄へと送られた。北京行きの前、河本は"話せば分かる"中共の大物と会見して、資源開発に協力できることを期待していたという。しかし、中共との提携などは夢の話で、二年と半年あまりして1952年(昭和27年)秋に戦犯容疑者として太原に戻ってきたときには、「頭髪は真っ白になり、痩せて体がひとまわりも小さくなっていた」(大西健談)という。
その後、戦犯容疑の取調が開始され、朝の洗面と用便以外はいっさい取調室の外に出ることを許されない過酷な尋問が行われた。翌年夏になると河本の衰弱は目に見えてひどくなり、それまで担当していたマッチ箱貼りの労役も外され、日がな一日、外で硬い椅子に座って日光浴をして過ごすようになったという。真っ白な頭髪とのび放題にのびたあごひげが、その精気のなさとともに仙人のような印象を与えたという。この死を目前とした悲惨な姿は、河本供述書を収録した『河本大作与日軍山西「残留」』に掲載されている(わざわざ"巻頭"に掲載する底意地の悪さには気分が悪くなる)。1953年(昭和28年)8月25日、河本大作は太原監獄で息を引き取った。枯木の倒れるような死だったという。
終戦直後に国府も取調をして、戦犯の嫌疑なしとしている点と同じく、中共の河本に対する嫌疑も張作霖暗殺や満州事変での容疑ではなかった。あくまで山西残留の首謀者としての訴追が目的だった。しかし、すでに述べたように、山西残留に関して河本を訴追できるような具体的事実の提示はない。中共が捕らえた日本人のなかでも河本は最大の大物であり、無罪放免することは考えられなかったのだろう。当初から他の日本人とは異なる劣悪な待遇を行っており、取調の名目で故意に死に至らしめたと非難されても仕方あるまい。
最後に余談だが、収監されたときの河本は無一文だった。派手な芸者遊びで散財したとも言えるが、私腹を肥やしたり公金を使って遊ぶことは生涯なかったという。中共の取調でも全くの文無しだったのがなかなか理解されなかったという。遺骨は東郷寺に安置されているが、墓代も親友である出光佐三の世話による。

