[ コラム 戦争 ]

日華事変における化学戦

日華事変が勃発したとき、中国軍も化学戦の準備は進めていたが、その実力は日本軍に比べて赤子同然だった。日華事変では、化学戦の調査研究のために野戦化学実験部が各地に派遣されたが、同部がまとめた報告書では、中国軍は攻撃能力はおろか防御能力も不十分であるとされている。

例えば、中国軍には軍政部直轄の学兵隊という撒毒を任務とする化学戦部隊が存在し、日華事変では河北省の石家荘に一時待機していたが、その規模は一個中隊程度で実力も手作業で撒毒する程度だったと分析されている。また中国軍は各師団に直属部隊として化学兵器小隊の配置を進めていたが、事変勃発時に配備が完了していたのは中央軍を中心とした一部だけだったようだ。攻撃兵器としてソ連をはじめ各国からガス騨を購入していたほか、河南省ではイペリットガス工場も建設していた。しかし接収時点でのイペリット製造量はたった35トンと実験プラントの段階だった。当時新聞で騒がれたように、中国軍は催涙性の塩化ピクリンガスや、窒息性のホスゲンガスを一部使用したが、日本軍の損害がほとんどなかったようにその使用は局所・少数で、ガス騨の性能自体も劣っていた。中国軍から押収した75mmガス砲騨を調査した日本軍の結論は、所要の性能を発揮できるか疑問というものだった。防御兵器として防毒面を各国から大量に購入し、一部では国内生産も行っていたものの、絶対数が不足していた。山西軍捕虜への尋問で、防毒面が一個中隊に24個しか配備されていなかったという記録がある。しかもこれら防毒面の性能は低かった。ドイツから輸入したものを含めて、催涙性ガスのみどり剤は防げても、くしゃみ性ガスのあか剤には無力だった。もちろん、糜爛性ガス対策の防毒服や軍馬用防毒面などの装備もなく、日本軍のきい剤(イペリット、ルイサイト)は中国兵が着る厚手の防寒服も浸透できるとされた。このように装備不良でかつ守勢の中国軍に対する化学兵器の使用は、大きな成果をあげることが期待された。


日本軍に押収された中国軍の防毒面(二六式軍用面具)

ただ事変当初、陸軍中央はガス使用について慎重だった。催涙性のみどり剤については、平津地方の掃蕩戦を開始する7月28日の臨命第421号を最初に使用許可を出したが、それも華北に限っており、華中での使用は公式には許可していない。加えて一線部隊からはあか剤使用申請が相次いだが、これらも全て却下している。例えば忻口で板垣兵団が対峙した中国軍には防毒面が支給されており、みどり剤では不十分だった。板垣兵団は10月下旬に方面軍を通じてあか剤の使用申請を行ったが参謀本部から却下されている。陸軍中央はガスの奇襲性の保持と欧米諸国からの批判を避けるためにその使用を厳格に管理する必要を感じており、特に上海、南京といった国際都市のある華中でのガス使用にはことのほかナーバスになっていた。

ところが中国がさかんに国際社会でプロパガンダを行っても、使用されたのが催涙ガスだったためか欧米諸国の反応は鈍かった。華北戦線で中国軍の化学戦能力の実態が明らかになり、あか剤の効果がきわめて大きなことが分かると日本軍はその使用を検討するようになる。1938年(昭和13年)4月、参謀本部はそれまで公式には使用を禁止していたあか剤について、大陸指第110号で山西省における実験使用を北支那方面軍と駐蒙兵団に指示した。山西省が選ばれたのは山奥で外国人が少なく、化学兵器の使用が秘匿しやすかったからだ。「勉メテ煙ニ混用シ厳ニ瓦斯使用ノ事実ヲ秘匿シ其ノ痕跡ヲ残ササル如ク注意スルヲ要ス」と、秘匿について特に注意を促している。

北支那方面軍には軽迫撃砲用のあか騨1万発、あか筒4万個が交付され、第一軍の隷下部隊ではガス教育が実施された。山西省では同年7月の晋南粛正戦における第二十師団があか剤本格使用の最初の例だ。総攻撃開始直後の二日間で、第二十師団は一万個に及ぶあか筒を集中使用し、大きな成果を挙げた。山西省での効果を確認した陸軍中央は、あか剤の解禁に踏み切る。同年8月、参謀本部は北支那方面軍に対して、占拠地域内安定確保のためのあか剤使用許可を出し、華北では山西省のみに限定されていたあか剤使用が解禁された。同時に華中や華南でもあか剤の使用許可が出され、四ヶ月後の同年12月には大陸指第345号で在支全軍に対して全面的解禁がなされた。


防毒面の装着訓練を行う日本軍(1939年)

1938年(昭和13年)10月、教育総監部は、これら中国戦線での化学戦の経験を元にまとめた「事変ノ教訓第五号」で、次のように作戦におけるガスの有用性を総括している。
「防護装備不完全ナル敵ニ対シテハ縦ヒ戦闘ノ経過中特種煙ノ少量ヲ使用スルトキニ於テモ敵就中其ノ後方部隊ニ精神的効果(恐怖心)ヲ及ボシ退却ノ動機ヲ作為シ以テ寡兵克ク堅固ナル陣地ニ拠ル衆敵ヲ突破シ得ルコトアリ」

さて、日華事変の化学戦について争点となるのが、致死性ガスの使用についてだ。日本軍は欧米諸国からの批判を避けるために致死性ガスの使用には慎重で、糜爛性のきい剤などは汚染性というガスの特質からその使用は計画性が必要だった。左翼による"毒ガス"キャンペーンに対し、日本政府は戦時中にあか剤以上に毒性の強いガス(糜爛性のきい剤など)は使われていないとしている。ところが近年発掘された史料では、明確にきい剤の使用を指示している。1939年(昭和14年)5月に出された大陸指第452号がそれで、参謀本部は北支那方面軍に対して、山西省の僻地に限定したきい剤の実験使用を指示している。あか剤の実験使用の際と同じく、世界の目が届きにくい山西省を選び、特に「第三国人ニ対スル被害絶無ナラシムルト共ニ彼等ニ秘匿スルコトニ関シ遺憾ナカラシム」と厳に秘匿保持を指示している。


大陸指第452号

この大陸指第452号がきい剤の使用を裏付ける証拠であるか否かについては異論がある。例えば永江論文では、昭和14・15年度の北支那方面軍弾薬消費数量表にきい剤の記載がないことを指摘し、実際に使用されたか疑問とする。しかし指示では秘匿を最優先していることから、数量表に記載しなかったことは考えられる。そして吉見が提示するように、航空機によるきい剤(投下爆弾)の消費は記録が残っており、それに対応すると思われる戦時中の中国側(国府)の告発がある。1939年(昭和14年)7月に華北で66発の50キロきい騨が消費されているが、国府は同時期に山西省南部で糜爛性ガスが投下されたと主張しているのだ。華北できい騨が配備されていたのは、山西省運城と河南省彰徳の二箇所だけだった。

また、左翼が鬼の首を取ったように取り上げる翁英作戦についても永江論文は疑問を提示する。独立山砲兵第二連隊の「翁英作戦戦闘詳報」では、1939年(昭和14年)12月から翌年1月にかけて華南で行われた作戦で「黄B騨」294発を射耗したことになっている。永江は、他部隊が催涙剤のみを使用していること、「赤B騨」10発の使用量に対して数が多すぎるなどの点で、輸送力の不足から廃棄処分した可能性を指摘する。確かに同連隊は作戦間に駄載具を13も亡失しているから、この主張は説得力を持つ。ただ永江の主張に拠るとすれば、使用許可が出ていないきい剤(騨)を作戦に搬出すること自体が不自然であり、しかもそれを「射耗」した旨を公式記録に残すだろうかという疑問は残る。

これに対して吉見は、件の史料をきい剤使用の証拠と位置づけ、「華南でも『きい剤』の実験使用を許可する参謀総長の指示が下されていたものと思われる」と踏み込んだ主張をしているが証明のしようがない。確かに、1939年(昭和14年)10月に「支那派遣軍総司令官ニ対シ特種煙及特種騨ヲ使用スルヲ得ル件」という表題の大陸指第575号が出されていてタイムリーで怪しいが、本文が失われていて詳細は不明だ。ここは致死性ガスであるきい剤の使用は山西省における実験使用のみが行われた疑いがあるとしか言えない。

山西省におけるきい剤の使用についての明確な記録は残っていないが、吉見によれば、第三十六師団関係で二点ほど疑わしい記録があるという。第一が、1940年(昭和15年)春の春季晋南作戦において、山砲兵第三十六連隊が「一時瓦斯」と「持久瓦斯」を混合して使用し、中国軍に対して大きな成果をあげたという記録だ。持久瓦斯はきい剤を指すと考えられ、秘匿のため、一時瓦斯(あか剤)や発煙筒と混ぜて使用されたものと思われる。第二が、同年6月に歩兵第二百二十四連隊が澤州(現在の晋城)付近の討伐において迫撃砲で「撒毒」したと記録しており、迫撃砲のきい騨が使用されたと考えられるという。

山西省におけるきい剤の実験使用が命じられて一年後の1940年(昭和15年)7月、在支全軍に対して大陸指第699号が出された。「支那派遣軍総司令官及南支那方面軍司令官ハ左記ニ拠リ特種煙及特種騨ヲ使用スルコトヲ得」とするこの指示には、使用に際して二つの条件が明示されている。ガスの使用について厳重に秘匿すべきことと、「雨下」は行わない、というものだ。この後者の「雨下」について吉見らは、あか剤以上に毒性の強い致死性ガスの全面使用許可を意味するものに他ならないと指摘する。


大陸指第699号

「雨下」とは航空機から液体状の化学剤を散布する方法を指すが、あか剤は常温では固体で、点火・発熱してガス状になる性質から雨下は出来ないからだという。しかし、日本軍の主要化学剤のうち、あか剤とみどり剤(一号)以外はすべて常温液体のもので、これには催涙性のみどり剤(二号)も含まれる。論拠としては弱い。

この点は、農薬散布を想像すれば分かりやすい。ガス雨下は、一定の大きさの滴粒で散布が可能な化学剤を使用し、撒毒地域の上空をおおむね高度100メートル内外で低空飛行する必要がある。防空兵器を装備している可能性のある敵部隊へのガス攻撃は投弾に任せて、雨下自体は敵の経路を遮断するなどの目的で、効力が持続する化学剤を撒毒することが任務となる。事実、日本軍の「瓦斯防護教範」でもガス雨下を持久瓦斯の撒毒と定義しているから、日本軍における「雨下」とは、糜爛性のきい剤を航空機で散布することを意味する。ゆえに大陸指第699号は、それまで山西省での実験使用のみを指示していたきい剤を、「雨下」を除く撒毒や投弾で使用する許可を在支全軍に対して発したものと見て良いと思う。この指示が出された以降にきい剤の使用を記している例は多数判明しており、きい剤以外の致死性ガスの使用記録は見つかっていない。

きい剤の大規模使用の例は、1941年(昭和16年)10月、華中の宜昌で包囲下にあった第十三師団が五日間にかけてきい騨1000発、あか騨1500発を使用した例で、これは習志野学校の先例集に載っているものだ。これ以外にはきい剤の大規模使用の例はない。これは、きい剤の使用許可が出た1940年(昭和15年)の段階で、中国軍主力は完全に大陸奥地に撤退し、中国に駐留する日本軍は管内での小規模作戦のみに従事するのが主だったことによるのだろう。管内警備におけるきい剤の使用だが、山西省について言えば、1942年(昭和17年)2月の冬季山西粛正作戦において、第三十六師団が黎城県北部から武郷県東部にかけての中共根拠地できい剤300キログラムを撒毒した例がある。同時期に中共から国府に対し、屋内の備品にまで"毒ガス"を塗布していった旨の報告が残っているから、撒毒の事実としては間違いないだろう。

きい剤の使用については日本軍が終戦前に記録の隠滅を図ったということもあるが、実際には使用の際の報告が義務づけられていたこともあり、習志野学校の先例集など、現存史料程度と大差のない規模・頻度ではなかったか。あか剤に比べてきい剤の使用には、事前の教育にも手間がかかる。全ての部隊に使用が許可されていたのではなく、各軍司令部の自由判断できい剤使用部隊の指定があったと思われる。ちなみに終戦前の1944年(昭和19年)に実施された一号作戦(大陸打通作戦)の時には、米軍の化学兵器による反撃を恐れ、すでに陸軍中央から使用中止の命令が下されていたようで、化学兵器は使用されなかったようだ。

日本軍の化学兵器使用について東京裁判では不問に付された。国際法の点からも、また米軍の化学戦戦略の点からも訴追が断念されたからだ。よって日本軍の化学戦についても明らかにされることはなかった。日本政府はあか剤以上の強毒性ガスは使われていないとしているが、これまで見てきたように糜爛性のきい剤使用については言い逃れできないのではないか。政治的なプロパガンダを恐れてとのことだろうが、すでに半世紀も前の出来事であり、国際法上もなんら責を問われるものでもないのだから隠すこともなかろう。


吉見義明『毒ガス戦と日本軍』岩波書店,2004年
永江太郎「日本軍の化学兵器の研究開発と支那事変初期の運用に関する軍事的考察」(『日本学研究(7)』金沢工業大学,2004年)
粟屋憲太郎・吉見義明編『毒ガス戦関係資料』不二出版,1989年
吉見義明・松野誠也編『毒ガス戦関係資料Ⅱ』不二出版,1997年

本書は、タイトルにあえて「毒ガス」というインパクトのある言葉を付けているように、日本軍が実際に戦場で化学兵器を使用した"不祥事"としての史実を解明することに大き...
戦争体験談で李樹徳さんが参加した黒龍関の戦闘では、日本軍が催涙ガスを使用した。S13吉県作戦に参加した第百八師団では、事前にガス教育が行われていた。
# yama : 2005年9月11日
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在日中事变中的化学战
土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
日中事变爆发的时候,中国军队虽然也推行了化学战的准备工作,但其实力与日军相比,如同婴儿一般。在日化事变中,(日本)为了进行化学战的调查研究,野战化学实验部被派遣到各地,在该部总结的报告书里认为,中国军队别说攻击能力了,就连防御能力也很不充分。
例如,中国军队存在着以撒毒为任务的化学战部队,就是军政部直属的学生兵,在日华事变中,一般分析认为,尽管某个时期他们在河北省的石家庄等待时机,不过,其规模也就是一个中队的水平,实力也是以手工作业来撒毒的水平。另外,在中国军队的各个师,作为直属部队虽然也配置了化学武器小队,但在事变爆发时,配备完毕的,也仅仅好像是以中央军为中心的一部分。作为攻击武器,虽然从以苏联为首的各国购入了瓦斯弹,除此以外,在河南省也建设了芥子气工厂(译者注:一种靡烂性毒气)。不过,在(日军)接收的时候,芥子气的产量仅仅为35吨,还处于实验设备的阶段。就像当时报纸嚷嚷的那样,中国军队使用了一部分催泪性苦味酸盐瓦斯以及窒息性光气瓦斯,不过,就像日本军队几乎没有遭受损失那样,也是在局部少量使用,瓦斯弹本身性能也差。日军调查了从中国军队那里扣押的75mm瓦斯炮弹,其结论就是能否发挥必要的性能还存在着疑问。作为防御武器,(中国)从各国购买大量防毒面具,虽然其国内也生产一部分,但数量绝对不足。审问俘虏的山西阎军就有这样的记录:一个中队仅仅配备24套防毒面具。而且这些防毒面具的性能低下。包括从德国进口的在内,即使能够防御催泪性瓦斯的绿剂,而对于喷嚏性瓦斯的红剂还是无能为力。当然,也没有针对糜乱性瓦斯氯剂的防毒服以及军马用防毒面具的设备等,一般认为日军的黄剂(芥子气、路易斯毒气),也能够渗透中国士兵穿得较厚的棉衣。就这样对装备不良的、而且采取守势的中国军队使用化学武器,期待取得更大的战果。

这是被日军缴获的中国军队的防毒面具(26式军用面具)
不过,在事变的初期,陆军中央对于毒气的使用还是慎重的。对于催泪性的绿剂,在开始于7月28日的平津地区的扫荡战中,最早发出了允许使用的“临命第421号”命令,不过,那也仅限于华北,在华中还不允许正式使用。加之一线部队相继申请使用红剂,这些也都被驳回。例如,中国军队在忻口与板垣兵团对峙,这些部队配发了防毒面具,凭绿剂攻击是很不充分的。10月下旬,板垣兵团通过方面军进行了红剂的申请,但被参谋本部驳回了。陆军中央为了保持毒气的奇袭性和避免来自欧美各国责难,对于毒气的使用,感到有必要严格地管理,特别是像上海、南京这样的国际都市存在的华中,在毒气的使用上,就变得格外敏感。
可是尽管中国在国际社会进行了大肆宣传,可使用的也许是催泪瓦斯吧,欧美各国的反应并不强烈。在华北战线,中国军队的化学战能力的实际情况变得明朗了,日军悉获了红剂极其巨大的效果后,就开始探讨它的应用。1938年(昭和13年)4月,参谋本部就此前曾禁止使用的红剂,以“大陆指第110号”令,向北支那方面军和驻蒙兵团发出了关于在山西省的实验使用的指示。之所以选择在山西省,是因为深山里外国人较少,易于隐匿化学武器的使用。还特别催促注意隐匿:“努力混用在烟尘里,严密地隐匿使用瓦斯的事实,要注意做到不留下其痕迹”。
北支那方面军(得到了)交给的轻迫击炮用红弹一万发,红筒4万个,在第一军隶下的各部队实施了培训。在山西省,第20师团在同年7月进行的晋南肃清作战中,正式使用了红剂为其最早的战例。在总攻开始之后的两天里,第20师团集中使用的红筒多达1万个,取得了巨大的战果。陆军中央确认了红剂在山西省的效果后,下决心解除禁止使用红剂的禁令。为了确保占领地区的稳定,同年8月参谋本部对北支那方面军发出了允许使用红剂的命令,在华北,解除了仅限定于在山西省使用的禁令。同时,还发出命令,即使在华中以及华南也可以使用红剂,四个月后的同年12月,以“大陆指第345号”的命令,对在华的全军发出了全面性的解禁命令。


这是着装防毒面具进行训练的日军(1938年)
1938年(昭和13年)10月,教育总监部将中国战线的这些化学战经验,总结成了“事变的教训第五号”,就作战时毒气的有用性作了如下的概括:“对于防护装备不齐全的敌人,在纵深战斗的过程中,在使用了即使少量的特种烟雾时,对敌人,尤其对其后方部队起到了精神上的打击(恐惧心),伪作为退却的动机,往往能以寡兵突破众敌居险固守的阵地”
关于日中事变的化学战,成为争论点的就是有关致死性毒气的使用。日军为了避免来自欧美各国的责难,在致死性毒气的使用上是慎重的,从其污染性这一毒气特性来看,靡烂性的黄剂等的使用,是必须要有计划性的。对于由左翼诱导的“毒瓦斯”政治性的选举运动,日本政府认为,战争期间并没有使用比红剂毒性更强的瓦斯(糜烂性黄剂等)。可是,根据近年发掘的史料来看,却明确地指示使用黄剂。1939年(昭和14年)5月发出的“大陆指第452号”,就是如此,参谋本部对北支那方面军指示:限定于山西省的偏僻地方,实验使用黄剂。这同实验使用红剂时一样,选择了世界的耳目难以到达的山西省,还特别指示,要严加隐匿,“对于第三国的人员,绝对不能伤害,同时要对他们隐匿,关于此事不要留下遗憾”。

大陆指第425号
关于这个“大陆指第425号”,是不是证实使用了黄剂的证据,还存在着异议。例如:在永江的论文里指出,昭和14、15年度(1939、1940年),北支那方面军的弹药消耗数量表并没有黄剂的记载,实际上是不是使用了呢?他认为还存在着疑问。但是,因为隐匿是最优先作的事情,这可以考虑没有记载在数量表上。这样一来,就像吉见提示的那样,由飞机投下的黄剂(投下的炸弹)的消耗却留下了记录,一般认为,与此对应的中国方面(国民政府)也有战争期间的检举揭露。1939年(昭和14年)7月,在华北消耗了66发50公斤的黄弹,可同一时期的国民政府主张是,在山西省南部投下了糜烂性瓦斯。在华北配备黄弹的地方,仅仅有山西省的运城和河南省的彰德这两个地方。
另外,就提出的翁英作战,左翼也如获至宝,永江的论文就提示了疑点。在独立山炮兵第二联队的“翁英作战战斗详报”里,从1939年(昭和14年)12月到翌年的1月,在华南进行的作战中,发射消耗了294发“黄B弹”。永江指出:其他部队只使用了催泪剂,对于使用了10法“红B弹”的数量,从数目过多等方面来看,从运输力不足来看,有可能是进行的废弃处理。该联队的确在作战期间丢失了13匹驮载工具,所以这个主张是具有说服力的。不过,如果依据永江的主张的话,那么,把还不允许使用的黄弹拿到战场的本身就很难自圆其说,而且,把 “发射消耗”了那些毒弹的意旨会保留在正式的记录里吗?这也留下了疑问。
对此,吉见把上述的史料放到了作为使用黄剂证据的位置上,虽然深思熟虑地主张“即使在华南,一般认为参谋总长下达了允许实验使用‘黄剂’的指示”,但他没有证明的方法。1939年(昭和14年)10月,的确发出了标题为“对支那派遣军司令官的文件---能够使用特种烟以及特种弹”的大陆指第575号文件,这既适合时宜又挺特别,可是正文遗失了,详细情况不明。这里只能说,作为致死性瓦斯的黄剂,在山西省仅仅有被实验使用的嫌疑。
关于在山西省黄剂的使用情况,并没有留下明确的记录,但是,按照吉见的见解,据说第36师团参与了其中,大约有两处可疑的记录。第一,记录了1940年(昭和15年)春天的春季晋南作战,山炮兵第36联队将“临时瓦斯”和“持久瓦斯” 混合使用,对中国军队取得了巨大的战果。持久瓦斯被认为指的是黄剂,为了隐匿,一般认为,是将临时瓦斯(红剂)和发烟筒混起来使用的。第二,记录着同年6月步兵第224联队,在泽州(现在的晋城附近)讨伐时,用迫击炮“撒了毒”,据说可以考虑为使用了迫击炮的黄弹。
在山西省实验使用黄剂的命令发布以后,一年之后的1940年(昭和5年)7月,对驻支全军发出了大陆指第699号令。在作为“支那派遣军总司令官以及南支那方面军司令官,根据下边的记录,可以使用特种烟和特种弹”的这个指示上,明示了使用时的两个条件。关于瓦斯的使用,应该严格保密,就是不要进行“下雨”。 吉见等人指出,关于后者的“下雨”,无非指的是,意味着全面允许使用毒性极强的、红剂以上的致死性瓦斯。
大陸指第699号
所谓的“下雨”,说的是由飞机布撒液体状化学剂的方法,可红剂在常温下是固体,所以从点火、发热之后变为瓦斯性状的性质来看,下雨是不可能的。但是,在日军的主要化学剂里边,除红剂和绿剂(一号)以外,全部是常温液体的东西,这东西里也含有绿剂(二号),作为论据是软弱无力的。AAA这一点如果想象成布撒农药就容易理解了。下瓦斯雨,就是使用滴粒具有一定大小的、能够布撒的化学剂,在撒毒的上空,有必要大致以100米的高度低空飞行。对有可能装备了防空武器的敌军进行瓦斯攻击,全凭投弹,下雨本身的目的,就是截断敌人的路径等,其任务就是播撒效力持久的化学剂毒气。事实上,即使在日军的“瓦斯防护教范”里,也将下瓦斯雨定义为持久瓦斯的撒毒,所以日军所谓的下雨,就意味着由飞机布撒糜烂性的黄剂。因此,我认为大陆指第699号可以看成是,向驻支那的全体军队发布了命令,即此前指示的只能在山西省实验使用的黄剂,可以以除去“下雨”之外的其他方式使用,如撒毒、投弹等。这个指示发布以后,记载使用黄剂的例子,已经判明了很多。而黄剂以外的致死性瓦斯的使用记录还没有被发现。
大规模使用黄剂的例子是1941年(昭和16年)10月,在华中的宜昌,处于包围下的第13师团,在长达5天的时间里,使用了黄弹1000发、红弹1500发,这是记载于习志野学校的先例集里边的内容。除此以外,没有大规模使用黄剂的例子。这一事例是允许使用黄剂的命令发出的1940年(昭和15年)的那个阶段,中国军队的主力已经完全撤退到大陆的腹地,留驻在中国的日军,只是在其管区以内进行了小规模的作战,这是由于当时主要从事的瓦斯作战的缘故造成的吧。在警备管区内的黄剂使用,就山西而言,在1942年(昭和17年)2月的冬季山西扫荡作战时,第36师团在从黎城县北部到武乡县北部的中共根据地,有撒毒的事例,撒了300公斤的黄剂。这是因为保留着同一时期的、中共向国民政府的报告书,报告书的主旨为就连室内的办公用品也涂污了“毒瓦斯”,作为撒毒的事实是不会有错的吧。
关于黄剂的使用,日军在战争结束前就图谋消灭记录,虽然发生了这样的事情,但实际上使用时的报告却往往被付予了义务,习志野学校的先例集等,与现存史料相比,其规模、程度没有显著的不同。与红剂相比,在使用黄剂的时候,事先的培训也是要花费功夫的。一般认为,并不是所有的部队都被允许使用,而是根据各军司令部的自由判断,指定使用黄剂的部队。顺便说一句,战争结束前的1944年(昭和19年),在实施的一号作战(打通大陆作战)的时候,好像因惧怕美军使用化学武器反击,陆军中央已经下达了停止使用的命令,化学武器似乎没有再被使用。
关于化学武器的使用,东京审判的时候置之不问。虽然日本政府认为,红剂以上的强毒性瓦斯没有被使用,可是,就像到现在为止看到的那样,关于糜烂性黄剂的使用,是不能避而不谈的吧。据说是恐惧政治上的宣传,不过那是长达半个世纪之前的事情了,因为在国际法上,也丝毫不会被追究责任,所以也就不要隐藏了。

投稿者 : 中国山西大同 陈尚士 さん 2008年4月 3日 07:00


井上様

「翁英作戦戦闘詳報」は、私も原本を閲覧したことはございません。東京目黒にある防衛研究所が保管しており、目録は見た憶えがあります。公開していればどなたでも閲覧は可能ですが、もしかしたら現在は非公開かもしれません。詳細は防衛研究所戦史室03-3792-1093(直通)にお問い合わせください。親切に教えてくれます。

この史料が取り沙汰されるのは強毒性ガス(きい剤=びらん剤)の使用についてで、その辺については吉見義明『毒ガス戦と日本軍』(岩波書店,2004年)などでも触れていると思いますので、目を通されてみてはいかがでしょうか。

さらに何かご不明な点等ございましたらお気軽にご連絡ください。

投稿者 : yama さん 2007年1月19日 02:39


よろしかったらお教えねがいます。

終戦時、佐倉の第52軍直轄・第8砲兵司令官をしていた原田鶴吉少将は私の祖母の弟です。ですから、私の大叔父にあたります。
彼は、独立山砲兵第二連隊が編成されたときに中佐として初代の連隊長に任ぜられ、以来、長く中国大陸を転戦していたようです。
大叔父はとっくの昔に亡くなりましたが、このたび、化学戦に絡んでこの連隊名が出てきて驚いております。「翁英作戦戦闘詳報」の存在も初めて知りました。
出来ればこの資料に目を通したいのですが、どうすればよろしいでしょうか。

投稿者 : 井上 さん 2006年6月 6日 14:18


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