例えば、中国軍には軍政部直轄の学兵隊という撒毒を任務とする化学戦部隊が存在し、日華事変では河北省の石家荘に一時待機していたが、その規模は一個中隊程度で実力も手作業で撒毒する程度だったと分析されている。また中国軍は各師団に直属部隊として化学兵器小隊の配置を進めていたが、事変勃発時に配備が完了していたのは中央軍を中心とした一部だけだったようだ。攻撃兵器としてソ連をはじめ各国からガス騨を購入していたほか、河南省ではイペリットガス工場も建設していた。しかし接収時点でのイペリット製造量はたった35トンと実験プラントの段階だった。当時新聞で騒がれたように、中国軍は催涙性の塩化ピクリンガスや、窒息性のホスゲンガスを一部使用したが、日本軍の損害がほとんどなかったようにその使用は局所・少数で、ガス騨の性能自体も劣っていた。中国軍から押収した75mmガス砲騨を調査した日本軍の結論は、所要の性能を発揮できるか疑問というものだった。防御兵器として防毒面を各国から大量に購入し、一部では国内生産も行っていたものの、絶対数が不足していた。山西軍捕虜への尋問で、防毒面が一個中隊に24個しか配備されていなかったという記録がある。しかもこれら防毒面の性能は低かった。ドイツから輸入したものを含めて、催涙性ガスのみどり剤は防げても、くしゃみ性ガスのあか剤には無力だった。もちろん、糜爛性ガス対策の防毒服や軍馬用防毒面などの装備もなく、日本軍のきい剤(イペリット、ルイサイト)は中国兵が着る厚手の防寒服も浸透できるとされた。このように装備不良でかつ守勢の中国軍に対する化学兵器の使用は、大きな成果をあげることが期待された。

日本軍に押収された中国軍の防毒面(二六式軍用面具)
ただ事変当初、陸軍中央はガス使用について慎重だった。催涙性のみどり剤については、平津地方の掃蕩戦を開始する7月28日の臨命第421号を最初に使用許可を出したが、それも華北に限っており、華中での使用は公式には許可していない。加えて一線部隊からはあか剤使用申請が相次いだが、これらも全て却下している。例えば忻口で板垣兵団が対峙した中国軍には防毒面が支給されており、みどり剤では不十分だった。板垣兵団は10月下旬に方面軍を通じてあか剤の使用申請を行ったが参謀本部から却下されている。陸軍中央はガスの奇襲性の保持と欧米諸国からの批判を避けるためにその使用を厳格に管理する必要を感じており、特に上海、南京といった国際都市のある華中でのガス使用にはことのほかナーバスになっていた。
ところが中国がさかんに国際社会でプロパガンダを行っても、使用されたのが催涙ガスだったためか欧米諸国の反応は鈍かった。華北戦線で中国軍の化学戦能力の実態が明らかになり、あか剤の効果がきわめて大きなことが分かると日本軍はその使用を検討するようになる。1938年(昭和13年)4月、参謀本部はそれまで公式には使用を禁止していたあか剤について、大陸指第110号で山西省における実験使用を北支那方面軍と駐蒙兵団に指示した。山西省が選ばれたのは山奥で外国人が少なく、化学兵器の使用が秘匿しやすかったからだ。「勉メテ煙ニ混用シ厳ニ瓦斯使用ノ事実ヲ秘匿シ其ノ痕跡ヲ残ササル如ク注意スルヲ要ス」と、秘匿について特に注意を促している。
北支那方面軍には軽迫撃砲用のあか騨1万発、あか筒4万個が交付され、第一軍の隷下部隊ではガス教育が実施された。山西省では同年7月の晋南粛正戦における第二十師団があか剤本格使用の最初の例だ。総攻撃開始直後の二日間で、第二十師団は一万個に及ぶあか筒を集中使用し、大きな成果を挙げた。山西省での効果を確認した陸軍中央は、あか剤の解禁に踏み切る。同年8月、参謀本部は北支那方面軍に対して、占拠地域内安定確保のためのあか剤使用許可を出し、華北では山西省のみに限定されていたあか剤使用が解禁された。同時に華中や華南でもあか剤の使用許可が出され、四ヶ月後の同年12月には大陸指第345号で在支全軍に対して全面的解禁がなされた。

防毒面の装着訓練を行う日本軍(1939年)
1938年(昭和13年)10月、教育総監部は、これら中国戦線での化学戦の経験を元にまとめた「事変ノ教訓第五号」で、次のように作戦におけるガスの有用性を総括している。
「防護装備不完全ナル敵ニ対シテハ縦ヒ戦闘ノ経過中特種煙ノ少量ヲ使用スルトキニ於テモ敵就中其ノ後方部隊ニ精神的効果(恐怖心)ヲ及ボシ退却ノ動機ヲ作為シ以テ寡兵克ク堅固ナル陣地ニ拠ル衆敵ヲ突破シ得ルコトアリ」
さて、日華事変の化学戦について争点となるのが、致死性ガスの使用についてだ。日本軍は欧米諸国からの批判を避けるために致死性ガスの使用には慎重で、糜爛性のきい剤などは汚染性というガスの特質からその使用は計画性が必要だった。左翼による"毒ガス"キャンペーンに対し、日本政府は戦時中にあか剤以上に毒性の強いガス(糜爛性のきい剤など)は使われていないとしている。ところが近年発掘された史料では、明確にきい剤の使用を指示している。1939年(昭和14年)5月に出された大陸指第452号がそれで、参謀本部は北支那方面軍に対して、山西省の僻地に限定したきい剤の実験使用を指示している。あか剤の実験使用の際と同じく、世界の目が届きにくい山西省を選び、特に「第三国人ニ対スル被害絶無ナラシムルト共ニ彼等ニ秘匿スルコトニ関シ遺憾ナカラシム」と厳に秘匿保持を指示している。

大陸指第452号
この大陸指第452号がきい剤の使用を裏付ける証拠であるか否かについては異論がある。例えば永江論文では、昭和14・15年度の北支那方面軍弾薬消費数量表にきい剤の記載がないことを指摘し、実際に使用されたか疑問とする。しかし指示では秘匿を最優先していることから、数量表に記載しなかったことは考えられる。そして吉見が提示するように、航空機によるきい剤(投下爆弾)の消費は記録が残っており、それに対応すると思われる戦時中の中国側(国府)の告発がある。1939年(昭和14年)7月に華北で66発の50キロきい騨が消費されているが、国府は同時期に山西省南部で糜爛性ガスが投下されたと主張しているのだ。華北できい騨が配備されていたのは、山西省運城と河南省彰徳の二箇所だけだった。
また、左翼が鬼の首を取ったように取り上げる翁英作戦についても永江論文は疑問を提示する。独立山砲兵第二連隊の「翁英作戦戦闘詳報」では、1939年(昭和14年)12月から翌年1月にかけて華南で行われた作戦で「黄B騨」294発を射耗したことになっている。永江は、他部隊が催涙剤のみを使用していること、「赤B騨」10発の使用量に対して数が多すぎるなどの点で、輸送力の不足から廃棄処分した可能性を指摘する。確かに同連隊は作戦間に駄載具を13も亡失しているから、この主張は説得力を持つ。ただ永江の主張に拠るとすれば、使用許可が出ていないきい剤(騨)を作戦に搬出すること自体が不自然であり、しかもそれを「射耗」した旨を公式記録に残すだろうかという疑問は残る。
これに対して吉見は、件の史料をきい剤使用の証拠と位置づけ、「華南でも『きい剤』の実験使用を許可する参謀総長の指示が下されていたものと思われる」と踏み込んだ主張をしているが証明のしようがない。確かに、1939年(昭和14年)10月に「支那派遣軍総司令官ニ対シ特種煙及特種騨ヲ使用スルヲ得ル件」という表題の大陸指第575号が出されていてタイムリーで怪しいが、本文が失われていて詳細は不明だ。ここは致死性ガスであるきい剤の使用は山西省における実験使用のみが行われた疑いがあるとしか言えない。
山西省におけるきい剤の使用についての明確な記録は残っていないが、吉見によれば、第三十六師団関係で二点ほど疑わしい記録があるという。第一が、1940年(昭和15年)春の春季晋南作戦において、山砲兵第三十六連隊が「一時瓦斯」と「持久瓦斯」を混合して使用し、中国軍に対して大きな成果をあげたという記録だ。持久瓦斯はきい剤を指すと考えられ、秘匿のため、一時瓦斯(あか剤)や発煙筒と混ぜて使用されたものと思われる。第二が、同年6月に歩兵第二百二十四連隊が澤州(現在の晋城)付近の討伐において迫撃砲で「撒毒」したと記録しており、迫撃砲のきい騨が使用されたと考えられるという。
山西省におけるきい剤の実験使用が命じられて一年後の1940年(昭和15年)7月、在支全軍に対して大陸指第699号が出された。「支那派遣軍総司令官及南支那方面軍司令官ハ左記ニ拠リ特種煙及特種騨ヲ使用スルコトヲ得」とするこの指示には、使用に際して二つの条件が明示されている。ガスの使用について厳重に秘匿すべきことと、「雨下」は行わない、というものだ。この後者の「雨下」について吉見らは、あか剤以上に毒性の強い致死性ガスの全面使用許可を意味するものに他ならないと指摘する。

大陸指第699号
「雨下」とは航空機から液体状の化学剤を散布する方法を指すが、あか剤は常温では固体で、点火・発熱してガス状になる性質から雨下は出来ないからだという。しかし、日本軍の主要化学剤のうち、あか剤とみどり剤(一号)以外はすべて常温液体のもので、これには催涙性のみどり剤(二号)も含まれる。論拠としては弱い。
この点は、農薬散布を想像すれば分かりやすい。ガス雨下は、一定の大きさの滴粒で散布が可能な化学剤を使用し、撒毒地域の上空をおおむね高度100メートル内外で低空飛行する必要がある。防空兵器を装備している可能性のある敵部隊へのガス攻撃は投弾に任せて、雨下自体は敵の経路を遮断するなどの目的で、効力が持続する化学剤を撒毒することが任務となる。事実、日本軍の「瓦斯防護教範」でもガス雨下を持久瓦斯の撒毒と定義しているから、日本軍における「雨下」とは、糜爛性のきい剤を航空機で散布することを意味する。ゆえに大陸指第699号は、それまで山西省での実験使用のみを指示していたきい剤を、「雨下」を除く撒毒や投弾で使用する許可を在支全軍に対して発したものと見て良いと思う。この指示が出された以降にきい剤の使用を記している例は多数判明しており、きい剤以外の致死性ガスの使用記録は見つかっていない。
きい剤の大規模使用の例は、1941年(昭和16年)10月、華中の宜昌で包囲下にあった第十三師団が五日間にかけてきい騨1000発、あか騨1500発を使用した例で、これは習志野学校の先例集に載っているものだ。これ以外にはきい剤の大規模使用の例はない。これは、きい剤の使用許可が出た1940年(昭和15年)の段階で、中国軍主力は完全に大陸奥地に撤退し、中国に駐留する日本軍は管内での小規模作戦のみに従事するのが主だったことによるのだろう。管内警備におけるきい剤の使用だが、山西省について言えば、1942年(昭和17年)2月の冬季山西粛正作戦において、第三十六師団が黎城県北部から武郷県東部にかけての中共根拠地できい剤300キログラムを撒毒した例がある。同時期に中共から国府に対し、屋内の備品にまで"毒ガス"を塗布していった旨の報告が残っているから、撒毒の事実としては間違いないだろう。
きい剤の使用については日本軍が終戦前に記録の隠滅を図ったということもあるが、実際には使用の際の報告が義務づけられていたこともあり、習志野学校の先例集など、現存史料程度と大差のない規模・頻度ではなかったか。あか剤に比べてきい剤の使用には、事前の教育にも手間がかかる。全ての部隊に使用が許可されていたのではなく、各軍司令部の自由判断できい剤使用部隊の指定があったと思われる。ちなみに終戦前の1944年(昭和19年)に実施された一号作戦(大陸打通作戦)の時には、米軍の化学兵器による反撃を恐れ、すでに陸軍中央から使用中止の命令が下されていたようで、化学兵器は使用されなかったようだ。
日本軍の化学兵器使用について東京裁判では不問に付された。国際法の点からも、また米軍の化学戦戦略の点からも訴追が断念されたからだ。よって日本軍の化学戦についても明らかにされることはなかった。日本政府はあか剤以上の強毒性ガスは使われていないとしているが、これまで見てきたように糜爛性のきい剤使用については言い逃れできないのではないか。政治的なプロパガンダを恐れてとのことだろうが、すでに半世紀も前の出来事であり、国際法上もなんら責を問われるものでもないのだから隠すこともなかろう。

