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コラム
こぼれ話
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SさんとHさんのこと―"対日協力者"の戦後
終戦時、国民党は親日政府の政治家や官僚を中心に"漢奸"への裁判を行い、重罪とされた者は処刑された。ところがそれから四年後、新中国が成立すると、終戦時とは比較にならない遙かに大規模で苛烈、そして長期的な嵐が"対日協力者"たちを襲った。
山西省で私が出会ったSさんとHさんは、戦前に日本語を習った人だった。二人とも、日本人が新しい支配者としてやってきたとき、十代の若さで日本語を学んでいた。二人に出会って驚いたことが二つある。ひとつが、今でも日本語を忘れていないということ。青春時代の経験がいかに大きなものかを感じさせられた。ふたつめが、日本人と関係を持った彼らが、戦後に"対日協力者"として過酷な人生を課され、今でもその重荷を背負っているということだった。
Sさんは、中学卒業後に治安関係の日本語学校に入校、卒業後に日本軍や親日政府の警備隊に通訳として勤務していたという。Hさんの方は戦前の話を聞く機会がなかったが、同じように親日政府で日本語を使う仕事をしていたようだ。二人に会った当時、Sさんは日本語学校の講師をしており、Hさんは戦後勤めた公安関係の職場を退職して、老後の生活を送っていた。
日本語学校で講師をしていたSさんは普段日本語を教えていることもあり、日常会話がまったく不都合なく話すことが出来た。初めて会ったとき驚いたのが、外国人が日本語を話す際のイントネーションの癖が全くなかったことだ。大きくハキハキした声で快活にしゃべるその日本語は、田舎のお爺さんと話しているような錯覚さえ覚えた。一方のHさんは、戦後日本語を話す機会がなかったためにあまり流暢ではなく、私と話す際には中国語を基本に、時たま日本語を挟む程度だった。しかしSさんと同じように、たまに出てくる日本語は、やはり中国の戦後世代が話すのとは異なり、日本人のそれだった。人生で最も多感な時期に日本人から直接吸収した言葉が、六十年経た今でも彼らの身体の中で生き続けていた。
SさんとHさんは互いに面識はなかった。これからも互いが会うことはないだろう。しかしふたりには日本語以外に共通項があった。少なくとも私にはそう感じさせた。戦後の猛烈な迫害を生き延びた人間の共通の姿がそこにあった。その点で言うと、戦争体験談で紹介している孫東元さんも同じだと思う。失礼なのを承知で言えば、彼らは共に精神を病んでいたと思う。戦後に"対日協力者""右派分子"として受けた迫害が精神を蝕んだのだ。
日本語を話すとき、Sさんは突然大声になり、人が話す暇を与えずに延々と話続ける。戦前の話になると、声はより大きくなった。一度だけ、日本語学校や警備隊での想い出話が出た。当時自分をかわいがってくれた日本人との想い出を、控えめだが楽しそうに、静かな口調で話してくれた。彼が唯一大声で話さなかった日本語だ。
Hさんも随分とおかしな行動をする人だった。戦後に中共によって取調を受けた際に坦白(タンパイ=自白)した供述を基に自分が書いた論文をコピーしてくれたが、人通りの多い街中でキョロキョロと尾行を気にするそぶりを見せながら私にそのコピーを渡すと、スパイまがいに、人に見られてはいけないから早く隠せという。そしてこのことは絶対に他人にしゃべってはいけないと、不気味な笑いで念を押すのだった。
その後、ふたりが共に政治犯収容所での強制労働をはじめ、日本とのつながりのために、いかほどの迫害があったかを人づてに聞いた。新中国の成立後、「階級の敵」として殺された人の中には、他人より少し持ち物や土地が多かったというだけの人も多くいたという。"対日協力者"とされた彼らへの迫害がいかに苛烈だったかは想像するに余りある。そして今の生活が苦しいことも知った。老齢になっても経済的に困窮している点で、迫害は続いていると言って良い。
青春時代の想い出を楽しく話してくれた彼らの顔を思い出し、割り切れない思いにかられた。彼らにとって、戦前の青春時代は、中共治下にあっては恥ずべき、誤った時代であると断罪されているのだ。もし私が彼らと同じ老齢に達したとき、楽しかったはずの青春時代が為政者の都合によって全否定されるだけでなく、人生・実生活を悲惨の淵に追いやるものであったならどうだろうか。
歴史の波に翻弄されてきた中国人は独特の歴史観を持つと指摘する人がいる。風に飛ばされる木の葉のような自分の運命を達観しているという。あまりにも無慈悲な言葉だ。"達観"できる人などいない。本当の苦しみを負わされた人は収容所で力尽きる前に自殺するか廃人となるのだ。生きて帰ってきたSさんやHさん、孫東元さんは、強い人間だったのかもしれない。しかし彼らも精神を蝕まれて、かろうじて生きてきた、というのが実情なのだ。
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# yama : 2006年1月 8日