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1940年(昭和15)2月、沁源県の自宅で長兄の結婚式を行っていた日に、親戚女性三人が日本兵に乱暴され、王さん自身は兄弟とともに約二週間の使役に狩り出された。
同年11月、村に討伐に来た日本兵に村民二人とともに至近距離から撃たれた。全治四ヶ月の重傷。残り二人は喉と頭部を撃たれて亡くなった。 1943年(昭和18)冬、中共党員としてゲリラ活動中に兄と仲間四人とともに日本軍に発見され、左肩を撃たれて全治一ヶ月の重傷を負った。女性一人は左腕を撃たれ、兄は銃剣で刺された。 |
北風の吹く1944年(昭和19年)1月下旬のことだった。15歳になっていた王さんはこのとき中国共産党に入党し、共産青年団員として活動に参加していた。
この時期、付近では討伐にやってきた日本軍と中共軍との間で比較的大きな戦闘が行われており、王さんは同じく中共に参加していた二兄の王隆さん(当時30歳)と親戚の女性の李改香さん(当時30歳)、さらに村の党支部書記である王龍さんとその妻・妹の計6人で、日本軍が設定した立入禁止区域(中国側では「無人区」と呼ばれる(*1))を移動していた。戦火から逃れるためだ。
出発して数時間が経ち、一行は山の中腹あたりの比較的標高の高いところまで避難してきた。そこでしばらく休憩をとることにした。向かいの山では戦闘があるようで、銃声や大砲の音が響いてくる。
しばらくすると、戦況が思わしくないのか、向かいの山から日本軍が撤退してきた。山といっても黄土高原の山岳地は森林はなく、遠くからでも良く見渡せる。逃げる間もなく、王さんたちは三人の日本兵に見つかってしまった。
「我們是老百姓」
日本兵は王さんたちを見つけると小銃を突きつけ、中国語で「おまえら八路軍か?」と聞いてきた。「無人区」は立入禁止だから、怪しまれても無理はない。王さんは努めて冷静を装いながら、日本兵に良民証(*2)を差し出し、「我們是老百姓(私達はただの農民です)」と答えた。
日本兵は王さんの差し出した良民証を検査するかと思いきや、いきなり小銃を向けると、ためらうことなく引き金を引いた。バンッという大きな銃声とともに左肩にガツーンと衝撃が走ったかと思うと、王さんは気を失って倒れてしまった。日本兵の撃った弾は、王さんの左肩にあたって肩を貫通したのだった。

肩の銃創痕を見せる王さん。(山西省太原,1994年)
小銃騨で腕を落とした李改香さん
この時点で肩を撃たれた王さんは気絶してしまったため、この後の詳細な経過は、意識を取り戻した後に、王さんが二兄の王隆さんなどから聞いたという。
王さんの肩から出た弾は、そのまま王さんの後ろにいた李改香さんの左腕の付け根部分にあたった。弾が命中した衝撃で、李さんの腕は付け根から吹き飛ばされてしまった。李さんはその傷がもとで二カ月後に亡くなった(*3)。
撃たれた瞬間、気を失って倒れた王さんを見て、二兄の王隆さんは王さんが殺されたと思ったようだ。逆上した二兄は、そばにあった大きな石を持ち上げてその日本兵を打ち殺そうと投げつけた。石は日本兵の上半身には届かず、足にあたった。
石を足にぶつけらた日本兵は、小銃に着剣してあった銃剣で二兄を刺した。銃剣で腹を刺された二兄は重傷であったが、幸いして死には至らなかった。冬で重ね着をしていたのが幸いしたようだった。ほかの三人は危害を加えられずに無事だった。
中共の仲間の手で村に連れ帰られた王さんは、前回撃たれたときと同じように、漢方薬で手当をしてもらった。前回は傷が直るのに腹が二カ月、足が四カ月かかったが、今回は驚くほど早く、二週間ほどで直ったという。
8月15日
1945年(昭和20年)、農歴の7月頃、区政府青年団主席として中共の活動を行っていた王さんは、その日、柏子鎮にある長姉の家にいた。このとき、長姉の家は八路軍の招待所になっていた。あの結婚式の日、日本兵によって自分の娘を乱暴された母親は、自宅を八路軍に提供していた。
昼食をとっていたとき、八路軍の兵隊が息せき切って家に駆け込んできた。そして王さんたちに向かって言った。「戦争に勝った!天皇が自らラジオで無条件降伏を宣言した!」。王さんはそれを聞いて喜びとともに、長い八年間を思い、感無量の気持に浸った。
終戦から一年後、王さんは、区政府青年団から山西南部へと派遣され、その後、汾陽地区、孝義地区などへ派遣された。日本の敗戦で喜ぶ間もなく、国民党との国共内戦が開始されていた。
叔父一家の悲劇
1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)の終戦までの八年間、王さんは九歳から十七歳の多感な青春時代を戦火の下で過ごしてきた。これまで見てきたように、王さん自身も二度、死の淵に立ち、親族も危険な目に遭ってきたが、このほかにも、母の兄にあたる叔父一家九人が日本軍に殺される痛ましい事件があったという。

ちょうど、王さんが腹を撃たれて瀕死の重傷を負ったのと同じ1940年(昭和15年)、農歴の10月20日頃のことであったという。叔父が住んでいた水泉坪村に日本軍がやってきた。逃げ遅れて日本軍に捕まった叔父一家は、自宅内で麻縄で縛られ、一人一人が銃剣で刺された後、戸に衝立をされて火を放たれたという。火が消えた後、家の中で見つかった遺体は、黒焦げで誰が誰だか判別ができなかったという。一家十人のうち九人が亡くなり、助かったのは息子ひとりだけだった。彼はその日いなくなった一家の牛を探しに家を離れていて難を逃れたという。

