中共や左翼が主張する「無人区」とは、日本軍が特定地域の住民を迫害・虐殺して"無人化"を図った蛮行としているものだ。例えば、元日教組中央委員を務めた仁木ふみ子が「無人区」について書いた本のタイトルは『無人区 長城線のホロコースト』といった具合だ。確かに中共のゲリラ活動に手を焼いた日本軍は、華北において一部で無住地帯と呼ばれる工作を実施している。しかし実際は満州における集家工作を参考にした移住策で、指定地域の住民を強制移住させ、域内の立ち入りを禁止することにより、敵根拠地の壊滅と経済物資の取得途絶を目的としていた。住民を迫害するために行ったものではない。中共自身、かつては「無人区」が強制移住策であったとしていた。政治的な意図で論難しているに過ぎない。ただ、住民にとっては負担が大きく、その意味では悲劇であったことは確かだ。
無住地帯の設定は満州との国境に近い蒙彊で開始され、関係資料では1939年(昭和14年)末頃からその存在を確認できる。華北においてこれらの工作が本格化したのは、1941年(昭和16年)6月に北支那方面軍が「華北対敵経済封鎖大綱」を策定し、国府軍や中共軍の敵地に対する経済封鎖を開始してからだ。方面軍の施策では、敵地区に対する遮断壕の構築、物流制限線の設定などとともに、中共根拠地に対する遮断地帯を設定するとしており、これが一部で「無住」といった言葉で表現されている。華北においては、河北省の冀東道長城線に沿う地区、山西省の五台山付近で長大な無住地帯が設定されたという(経済封鎖月報,S17.8)。いずれも中共のゲリラ活動が活発な地域だ。
対敵経済封鎖の施策自体はあくまでも中国行政の所管で、特務機関の指導の下に、密輸品の取締りや遮断壕の工事など実作業にあたった。一方で、遮断線の設定や立入禁止措置等、警備計画の内容は各兵団に委ねられていた。そのため、各地で運用が異なっている上、無住地帯という名称自体も用語として決まったものではない。その点でも中共側の「無人区」に合わせて議論するのは少し無理がある。
一般的には、敵根拠地を囲むようにして壕や石垣による遮断線を設定し、その先の土地では人の居住と往来を禁止、農作物の栽培や家畜の飼育等も禁止した。無住地帯内の住民に対しては期限内退去を促した。満州における集家工作では、代替集落の建設や移住費用の補填などの補償を伴ったが、華北においても冀東地区で農作物の買上げなど、不十分ながら補償があったという(27D長沢氏回想)。そして実際の警備だが、厳重かつ苛烈だったと言われる。これは華北においては軍事作戦としての性格が強いことによる。
そもそも、戦場にいる兵士に、動く標的が何かを確認させる軍隊は存在しない。近代歩兵戦は、肉眼で敵兵か否か(人か動物かすら)識別できない距離での狙撃の応酬であり、戦場では全ての遮蔽物(住民の家屋など)を破壊・焼却し、動く標的に対して無差別に攻撃を行った。一般市民がいないはずの無住地帯でも、そのような仮借ない攻撃が行われたはずで、これが住民の側から見ると、儘滅作戦(三光作戦)と非難される所以である。例えば、五台山付近を所管していた独立混成第三旅団管内で宣撫官を務めた吉田は、「例の有名な"儘滅作戦"と称して敵性ありと判断される村落をことごとく家屋、畜類はもとより住民までも殺戮し、焼き払ってしまって、敵地区との間に無人地帯を設定するというかつてそれまでに経験したことのない"大作戦"に大号令がかかっていた頃で、支那側は震えあがっていた」と回想する。また、実際に山西省東部を所管していた独立混成第四旅団では、封鎖線を無断通過した者は「其ノ敵性アルト否トヲ論セス直ニ捕獲押収シ若クハ銃殺ス」というような運用方針を定めていた。当ホームページで紹介する戦争体験談(王亮さん)にも、中共ゲリラとして問答無用で射殺しようとした例がある。
しかし、仮に無住地帯で住民に被害が及んだ例があったからと言って、中共の主張するように不当・不法なものであったとは言えない。イデオロギーではなく、まずは戦争のルール・手続きを踏んでいるかどうかで判断すべきである。戦時国際法の観点から見れば、無住地帯に居る住民へは退去勧告と不十分であっても補償が行われている以上は適法と言って良い。似たような仕組みとしては、陸戦における交戦地区宣言、すなわち戦闘地域からの一般市民の退去勧告に類する。この場合、退去もしくは非武装化を実行するのは、当該地域を実効支配する者の責任だから、中共が一般市民を退去させるか、非武装化を実施しなくてはならない論理となる。もちろん、現実にそのようなことは行われなかった。
その上で、日本軍は無住地帯の設置や攻撃前に、吉田の回想のように仮借ない攻撃を行うことをアナウンスした。それは、良民の間で妄想じみた恐怖として伝搬していき、日本軍もそれを望んだ。離村が進むからだ。だから、そのようなアナウンスは割り引いて考える必要があろう。多くの日本軍将兵が、中共軍相手の攻撃では「空室清野」が徹底しており、空撃に終わったと回想しているように、実態としては無住地帯内で犠牲になった人命はあまり多くなかったのかもしれない。そして、無住地帯で被害を被った者の多くは、敢えて禁令を破る中共ゲリラや密売人などの脱法者であり、そういった意味では良民の被害はなかったと言える。
ただ、敵地に居住しているといっても、当時の中共の支配は匪賊による略奪と似たり寄ったりだった。そのような過酷な状況にある住民が追い打ちをかけられ、不十分な補償で家を追われることは悲惨だ。そして、退去に応じなかったり、中共が退去を許さなかったりで、戦火に巻き込まれるなどした例も一部であったと思われる。しかし、それは史実的な観点からは、ある意味で些末なことである。戦争そのものが無慈悲なのである。
攻め手である日本軍兵士自身も一般市民だ。政治的信条に基づかなくとも、一般市民である彼らが同じ良民の被害に心を痛め、悔悛の情を込めて回想することは自然なことだ。それと政治的なプロパガンダとは区別されねばならない。
北支那方面軍参謀部「経済封鎖月報(第一巻)」1942年(みすず『現代史資料(13)』所収)
独立混成第四旅団「作命甲第一二七号別冊」(戦史叢書『北支の治安戦<2>』所収)
吉田回想(興晋会編『黄土の群像』1983年所収)
長沢回想(産経新聞2003年6月26日東京朝刊掲載)