
第一軍の兵器引継書の表紙(左)と署名(右)。
一時は兵力十万人の大勢を誇った第一軍も、戦争末期になると優秀師団を南方にとられ、質・量ともに逐次低下していった。最終的に第一軍は、第百十四師団(114D)、独立混成第三旅団(3MBs)、独立歩兵第十旅団(10iBs)、同第十四旅団(14iBs)、旅団規模の第五独立警備隊(5WBs)の計五個兵団、兵力約六万人で終戦を迎えた。
終戦によって、第一軍は国府軍第二戦区司令長官の閻錫山を受降主管として武装解除を行うこととなった。この兵器引継書は、武装解除に際して兵器の員数を確認する目録であり、第一軍隷下の五個兵団と軍直轄部隊、太原野戦兵器支廠、それに終戦時に駐蒙軍から転属となった第四独立警備隊(4WBs)の計八区分で記録がなされている。第四独警の転属は、駐屯地の大同が第二戦区の所管であること、すなわち日本は北部山西省を蒙彊政権に割譲したが、中国側にとっては山西省の所管であったこと、そして北部の鉄道輸送は途絶し、大同地区の将兵は太原経由での帰還となったことなどによる。
兵器引継書は、昭和二十年九月十八日の日付で、第一軍司令官澄田将軍の名で「本冊ノ通引渡ヲ了ス」とある。実際には、残留者で組織する特務団用の兵器や、鉄道沿線の分哨などで警備をそのまま継続して行うための兵器などは引き続き装備していたはずである。また、独歩第十四旅団のごときは、中共軍の妨害により北上終結が困難なため、山西軍との協同作戦を行っていたぐらいで、九月の時点で武装解除は完了していなかった。「引渡ヲ了ス」の文言は額面通りに受け取れず、ゆえに本引継書は"すべて"を記したものとは思えない。事実、目録を一目見て気になるのが引継数量の少ないことだ。例えば、三八式小銃の実包で、第一軍全体で総計580万発しかなく、歩兵一人あたり携行定数の120発程度しか弾薬の備蓄がなかったことになる。しかも軽機の弾薬も含めてだ。嘘にもほどがあろう。残留のため、隠匿または帳簿から消したと思われる。

兵器引継書の目録部分。兵団及び軍直、兵器支廠の八区分で引き継ぎされる弾薬の員数が記載されている。
目録からは、当時の質の低下した帝国陸軍の姿も映し出す。終戦時の第一軍には、重砲が一門もなかったことが分かる。第五独警や兵器支廠で「十五榴」や「十加」などの重砲弾が引き継がれているが、両者とも重砲を装備していないので砲なし弾だけのはずだ。第五独警の方の重砲弾は老河口作戦のために集積されたものかもしれない。引継書が示すのは、山西にはすでに口径75ミリ以上の野山砲より強力な重火器がなかったということだ。さすがに空襲を受けるため野戦高射砲はあったらしく、「七高榴弾」は軍直轄部隊で引き継ぎがされている。
押収兵器の弾薬についての記載もある。モーゼル大型拳銃や口径7.92ミリの智式軽機関銃のほか、口径77ミリの一四式七糎七野砲も使われていたことが分かる。「チェッコ機銃」の名で日本将兵の間で恐れられた智式軽機関銃はもちろん、七粍七野砲もカタログ値では主力の九〇式野砲に並ぶ性能を誇った。これらの外国製兵器はいずれもその優秀さから、国軍兵器として準制式化したものだった。
品目に「三一山砲榴弾」とあるのは、日清戦争の時に登場した三一式山砲(三十一年式速射山砲)に使う通常弾のことだ。第百十四師団と第五独警で引き継ぎがされている。この大砲は駐退機・複座機を備えていないために、一発撃つ毎に砲架がガラガラと数メートル後退する代物だった。戦線の拡大で大砲が足りなくなり、倉庫から引っ張り出して前線に送った。古すぎて操作が分かる者がいないため、ご苦労にも陸軍歩兵学校などから教員を派遣して教育につとめていた。第百十四師団は独歩編成の治安師団で、おそらく軍に師団がひとつもないと格好がつかないために、旅団で済むところを背伸びして師団にしたのが実情であろうが、山西省で唯一の師団であることはかわりない。編成時にこんな骨董品を受領した師団幹部は内心忸怩たるものがあったのではないか。
この点、一貫して匪情の悪い北部の警備にあたった独立混成第三旅団は、並みの"独混"と違い、自動車隊の配属も受けていた装備優秀な兵団だった。引継書でも旧式兵器はゼロとなっている。しかし、当時の関係者によれば、独混三旅でも末期の補充兵は竹の水筒に木の弁当箱、竹鞘のゴボウ剣を下げ、現地生産の北支十九式小銃が支給されたという。末期の厳しさはどこも似たりよったりといったところか。
最後に、この第一軍の兵器引継書も、正論の"スクープ"で紹介されたその他の引継書と同様に、化学兵器の引き継ぎを示唆する記載はない。そして、残留日本軍はその後の戦いで、「今までとっておいた化学弾」を中共軍に対して使用した旨の複数の回顧談があることを付言しておく。

