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# yama : 2006年8月 9日
コメント(8)

熊猫さま

このサイトでは、歴史に“真実”があるならば、それはパンダの柄のように黒と白ではなく、常にねずみ色であることをお伝えできればと、と思っています。
最近は更新もままなりませんが、いまは中共根拠地での阿片栽培について少し調べています。
またお越しください。

投稿者 : yama さん 2009年10月10日 22:27


 私は日中戦争について興味を持っているものです。地道に調査されている内容には感心致しました。私の「お気に入り」に追加したいと思います。

投稿者 : 熊猫 さん 2009年10月10日 15:10


初めまして
西安に住んでいます。


日華事変と山西省をみさせていただいて
山西省に大変興味を持ち
山西省を何度か訪れました。

日本人として知らない戦いが
巡りめく 思いもひと際でした。

私のブログ カテゴリーの
・日本軍の足跡
・山西省観光
貴方の情報があったからこそ
書けました。

貴重な情報を心から感謝致します。
私のブログは 一時休止していますが
また いつか 必ず
中条山を 探索しょうと思っています。

ありがとうございました

投稿者 : ekobiiki さん 2009年8月20日 09:58


你们那篇文章《嗜好犯罪的“加害体验谈”》是谁写的真是搞笑死了。
在中国,尤其是中原地区,随便拉个人问问就能找到自己亲属或者邻居受害的故事,之所以很多是传说不是亲眼所见,那是因为很多人全家都被日本人杀绝了。看来还是杀人灭口好啊,最好是斩草除根一个不留,那才叫死无对证,利索,痛快。
说那些坦白罪行的日本人都是本来就是坏蛋的人,那你就得证明所有那些人在入伍之前就没有正当职业,品格低劣,在日本就喜欢杀人放火打家劫舍侮辱妇女才行。不然你怎么就敢这么随意断言他们本来就是坏人?
通过说有些女人“还没收到邀请就脱裤子”而断言那是受国民党残兵所害,真是滑天下之大稽。为什么不能说是前面的日本兵刚过去,受到侮辱的女人已经麻木,所以一看见日本兵就知道他们想要什么,根本不需要他们做什么邀请。
凭什么因为我们是被专 制的,所以我们说的一切就都是谎言,迎合某种要求。难道就因为我们是被专 制的,所以我们的人格就应当受到质疑,我们就不应当被作为人来对待,我们就应当也被文明国家欺负吗?我们不自由,你们自由国家的人就有资格和立场也来踩一脚吗?
因为作者认为中国普通女家妇女性吸引力不足,所以日军日记里的“今天发现了打扮漂亮而且皮肤白嫩的妇女”,应当是那些慰安妇,而不是中国妇女,这,都不知道该怎么表达我所感受到的荒唐可笑。用一个现代人在现代社会形成的审美观点,来说明男性原始人怎么会喜欢上在你看来丑陋肮脏的女性原始人,这还真是创举啊。
像中国这样礼教影响这么深的国家,宣称自己被异族强奸有什么好处?我们也希望现代日本人的祖先们能够性品位高一点,放过我们中国妇女,他们虽然土,打扮不漂亮,但他们一直在过着自己的日子,我们也想知道,为什么日本人为什么要打破人家的宁静生活,使他们落入求生不得求死不能的悲惨境地?
还有,如果是慰安妇,还用得着说今天“发现”漂亮女人吗?每个地方的慰安妇不就是相对固定那么几个人吗,去哪里发现去?所谓”发现“,难道不是意料之外的收获吗?意料之中每天都看得到的那叫做“发现”吗?

投稿者 : 中国女性 さん 2009年7月13日 10:56


战死在黄河边的女相声演员
土八路译自日本网络http://shanxi.nekoyam ada.com/
有一个殒命于战场的相声演员,她是身份并不是被征召的士兵,而是作为专业相声演员在慰问中战死的,而且是个女性,她受到了嘉奖,被供奉在靖国神社,名字叫花园爱子。
1941年(昭和16年)7月25日,朝日新闻登载了一条小小的记事,记事说的是在黄河边,前往前线的慰问团遭到中国军队的攻击。在这次战斗中,13名护卫的将士战死,虽然在记事中没有谈及慰问团也出现了遇害者,但其详细情况在5天后的7月30日的记事中,被挑明了。
在标题为“携带妻子遗骨的前线慰问,来自家乡爱女的激励书信” 的那则记事里,同时还附加了坐在祭坛前面的幼小女儿的照片,其内容为:在山西省南部的一个叫做苗庄的地方,发生战斗的时候,作为吉本兴业的女相声演员花园爱子殒命,担任慰问团长的她丈夫、同为相声演员的桂金吾,忍着失去妻子的悲痛,继续在前线慰问演出。
当时在浅草,桂金吾和花园爱子是以夫妇相声而活跃于吉本兴业的艺人。歌曲和三弦都很拿手,因具有滑稽幽默味道的相声而出名。据说,他们以江户门派的技艺为武器,作为东京吉本的专属,即便在浅草,名声也叫得很响。遇难的时候,花园爱子虚岁36岁,夫妇之间有一个上小学的幼小女孩。
桂金吾和花园爱子参加的慰问团,是吉本积极地派遣到外地的、叫做“逗笑队”的陆军省派遣慰问演艺团。此外,还有一组夫妇相声、父子三人的魔术表演、一个男性口技艺人、男女一组的说唱鼓词,共计10人,他们在中国大陆的前线部队巡回演出。6月,慰问团的人们进入北平之后,就以当时警备河南省的第35师团(第二军)的部队为中心,除了在开封、新乡等城市外,好像还巡回深入到边境的驻屯地演出。这个时候,日军与撤退的中国军队隔着黄河对峙,为了准备在数个月后渡过黄河、向南发动进攻的河南作战而将部队布置在最前线。在遇难的7月22日,慰问团结束了对济源的步兵第221联队本部(小林部队)的慰问后,为了慰问还在西边的警备队(步兵220联队),据说是乘坐了四辆卡车从济源出发的。遇难时的情况,在昭和13年(1942年)朝日书房出版的山路幸雄著的《国民娱乐演艺读本》里,作为战争美谈而大肆介绍。此外,还有小岛贞二的实际从桂金吾那里采访的记述。不过,仍有必要详细报告公务的步兵第220联队,好像是准确地记录了(事件的前因后果)。
据220联队的会志记载,早晨8点半,离开济源的慰问团一行,在中午时分到达了两边为丘陵、中间呈峡谷状的高处的路段时,遭到了中国军队的伏击。当时的报道里,将遇难场所认作是山西省的南部,可实际上是河南省北部的黄河支流旁。这个时候,先头车辆遭到子弹的袭击,紧急停车,后续的车辆的人员全部跳下了汽车,在河滩疏散开来应战,与护卫慰问团的日军一个分队对应的是,配备了机关枪的200多敌人,他们被敌人包围,不断出现负伤者。只有那天坐在先头车辆助手位置的花园爱子,在抱起负伤的伺机将要下车的时候,右大腿部被两发子弹击中,不能行走,桂金吾他们把她从车上弄下来的时候,据说她已经奄奄一息了。总共才有40名的将士们,就在他们陆续地倒下去的时候,促使了慰问团的艺人们觉醒,有了精神准备。他们各自拿起战死者的武器,参加的战斗。据说他们向接近的中国兵投掷手榴弹,那种程度的激烈战斗,一直坚持到日军的救援队赶到,长达四个小时。这期间,没有得到充分救治的花园爱子因出血过多而死去了。
女相声演员战死的消息,很快就由前线传到了日本内地,花园爱子的遗体在当地被焚烧,桂金吾将遗骨放在白木箱子里,挂在胸前,在其后一个月的时间,他继续进行了预定的慰问演出。慰问演出所到之处,尽管受到了热情的招待,可是在转移的路上,汽车摇晃,每当木箱卡塔卡塔发出响声时,桂金吾似乎感到了心痛、悲伤。之所以这样说,是因为桂金吾当时作为慰问团的团长,抑制住自己的个人感情,不能对别人倾述衷肠而继续慰问。小林部队将战功奖状授予了花园爱子。在北平举行了冈村大将列席的官民共同追悼会。遗骨回归东京后,9月1日在浅草的东本愿寺,帝都相声协会举行了盛大的追悼会,参加追到会的人数据说超过了三千人。光荣战死的花园爱子,得到了八等功勋的勋章。在战后的1965年(昭和40年),她作为陆军的军属被合祭在靖国神社。据说以相声演员被供奉在靖国神社的,只有花园爱子一人。

投稿者 : 中国 山西 大同 陈尚士 さん 2009年2月26日 06:53


田代さま

「日華事変と山西省」のホームページを管理しておりますyamaと申します。ホームページをご覧いただきましてありがとうございます。ご質問いただいた件につきましてご回答申し上げます。

まず叔父様のご冥福をお祈りいたします。

ご位牌に書かれております陣没地が見つからないのは無理もございません。「遼懸」というのは戦後に「左権県」と名称変更が行われております。叔父様の陣没地を現在の行政区画で書くと、山西省左権県麻田鎮蘇公村付近となります。「蘇公村」はそのままあるようですが、小さな部落のようで、手元にある1994年版の山西省地図でも未記載でした。麻田鎮の周辺でだいたいの場所になりますが、オンラインマップに設定しましたので、下記アドレスでご覧ください。地図上にある緑色の風船のようなマークが麻田鎮の場所になります。
http://ditu.google.com/maps?f=d&saddr=&daddr=36.789972,113.520184&hl=ja&geocode=&mra=mi&mrsp=0&sz=14
&ie=UTF8&ll=36.796639,113.520699&spn=26.103065,38.320313&z=5

戦死された時の状況ですが、1943年4月20日~5月20日まで行われた「十八春太行作戦」(ヨ号作戦)に参加されていたのは間違いございません。この作戦は、山西省と河北省の省境に位置する太行山脈に籠城する国民政府軍や中共軍(八路軍)を撃滅するために行われた作戦です。作戦の詳細につきましては、防衛庁の戦史叢書『北支の治安戦2』358頁~366頁に記述がございます。

叔父様の所属はおそらく「雪兵団」と呼ばれた第三十六師団ではないでしょうか?第三十六師団はこの作戦を最後に西部ニューギニアに移動しています。十八春太行作戦は、第三十六師団をはじめとする優秀師団を南方に送った後の治安悪化の芽を摘むために行われた作戦でした。

作戦が行われた場所は地隙と断崖が連続する峻険な山岳地帯で、作戦では並々ならぬご苦労があられたとお察しいたします。場所は若干ずれますが、以下に太行山脈を訪れた際に撮影した写真を掲載してございますので、よろしければご覧ください。
http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000222.html
http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000235.html
http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000236.html

取り急ぎご報告いたします。
また何かございましたらお気軽にご連絡ください。

投稿者 : yama さん 2008年8月18日 10:14


こんにちは、私は昭和30年生まれの者です。
今年盆棚を作る時に戦死した伯父の位牌を見ましたら、
中国北支山西省遼懸蘇公村西北方にて昭和18年5月11日戦死したとありました。享年24歳でした。
名前は田代精吾、陸軍軍曹です。
ネットで場所を探したのですが見つかりません。
もし場所をご存知でしたら教えていただけないでしょうか?
またその時の戦況等時代背景も知りたいです。
宜しく御願いいたします。

投稿者 : 田代 浩 さん 2008年8月18日 08:40


解说照片的文字太小,能否再大一点。

写真の説明をした文字は小さすぎて,もう少し大きくしてくださいませんか

投稿者 : 中国山西大同  陳尚士 さん 2007年6月 4日 21:02


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