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山西残留は、このホームページでも紹介しているように、現役将兵の処遇についてだけを見ても複雑な事情がある。本書で描かれているのは奥村氏の言い分に沿った「史実」である。しかしそのスタンスは別として、読み物としてはおもしろく、映画を見たくさせる。ようするに書籍としての作りが良いのだ。出版氷河期が叫ばれ、編集の手間をかけない安っぽい本が氾濫するなかで、やはり老舗(岩波)ならではの仕事の良さを感じさせる。
ところが読後感がスッキリしない。何ともチグハグな印象を受けるのである。それを最も強く感じさせるのが、奥村氏の心情と、池谷監督の映画制作に対する姿勢だ。ともに、日本の「加害」に密接に関連する。
映画「蟻の兵隊」では、奥村氏が体験した戦時中の「刺突訓練」が取り上げられているほか、山西省内で起きたとされる婦女暴行事件の被害女性が出演する。そもそも戦後の山西残留をテーマとしている以上、戦前の出来事を持ち出すのであれば、それなりに説得力のある関連性が劇中に描かれていなくてはならない。"残留を強要された「蟻の兵隊」は、戦前にも刺突訓練のような汚れ仕事をさせられた"という含意なら(史実としての是非はともかく)理解もできよう。しかし、部隊も場所も日時も無関係で、奥村氏が全く関与していない婦女暴行事件は突出している。
実際は、同じ事件での他の被害女性と奥村氏が知り合いで、日本における賠償請求訴訟を支援していたという関係があるようだ。しかし、映画で取り上げるだけの理由は描かれておらず、筋違いの印象は否めない。そしてその疑問は本書を読んでも解消されない。結局、映画の筋書きに、「日本軍兵士(=蟻の兵隊)は被害者であったが同時に加害者でもあった」というような論理を無理にでも押し当てたとしか感じられないのだ。二十年前であれば受け入れられたが、今では時代遅れでいかにも古くさい。
そして、もともと人間の心は複雑であるなどと言えば陳腐だが、奥村氏の心情がチグハグな読後感を与えるという指摘はあり得る。彼は長年、中国貿易に携わった日中友好人士であり、過去の戦争を「日本帝国主義による侵略戦争」、「中国人民による抗日戦争」としてのみ捉える古典的な左翼思想の持ち主だ。ところが、自身が体験した山西残留事件そのものが、そのような単純な見方を揺さぶる。山西残留は親日的な土壌がなければ成立し得ず、様々な事情はあるが、総じて両国の有為な青壮年が互いに手を取り合って己の人生を賭けたことに違いはないからだ。その上で、彼はラディカルな中国帰還者連絡会のメンバーではない。帝国陸軍兵士としての矜持にもこだわる人物である。奥村氏は、過去の戦争や中国への想いについて自身の立ち位置も含めて整理がついていないのではないか。ただ、チグハグな印象を与えるのは氏の発言内容だけでなく、純粋に文章構成にも見られる。編集による作用を示唆している。
そして池谷監督に対しては、彼こそが反日映画としての筋書きを作った張本人として批判される。ところが本書で池谷氏は、現地でなぜ中共軍戦没者を慰霊するのに戦友を慰霊しないのかと奥村氏に噛みついたと告白している。単純な中国の御用聞きではないわけで、このような監督が陳腐な反日映画を作りたかったとは思えない。ようするに、プロジェクトを進める過程で、中共と日中友好組に配慮せざるを得なかったところが大きかったのだ。本書の共著者である酒井氏は奥村・池谷両氏の橋渡しをした人物だ。日中友好協会事務局長を務め、本書の発言部分からも古いタイプの親中派人士であることが伺える。映画制作に必要な協力(現地における撮影許可から資金や便宜の供与)を得るために、中国側の論理が決定的に作用したであろうことは想像に難くない。
池谷氏は衆目を集めるドキュメンタリーを撮るための手段として、政治的スタンスにこだわる考えはないのだろう。政治に興味がなく、自身がテーマとする中国に関連して、「蟻の兵隊」や「延安の娘」(前作)といった、政治に翻弄される個人の生き様にこそ興味があったようだ。そのような池谷氏が奥村氏の人生と個性をスケールアップして映画にしようとしたとき、もし中国側への配慮が全く必要なかったのならば、自身の立ち位置に揺れる奥村氏の姿を軸に、より深く濃い、反日と揶揄されることもない骨太の映画を作ることが出来たのではないか。そのときこそ、刺突訓練や婦女暴行事件といった負の部分も生きたはずだ。事実が反日的であることと、その捉え方が反日的であることは、似ているようで天と地との差がある。一方は史実の叙述であり、一方はプロパガンダだからだ。関係者にはそれが区別できなかった。
池谷氏は奥村氏との関係を「共犯関係」とまで表現しているが、そこまで胸を張って言えるほど、映画で両者の思い入れが表現されたとは思えない。様々な妥協が消化不良を招いた。本書ではその片鱗を窺うことができる。


