事変発生当時、内モンゴルには日本軍の勢力下にある内蒙軍(李守信将軍麾下の騎兵四個師が主力)と特務機関が存在するだけで、兵力二十万と見積もられた中国軍の本格進攻を拒止する態勢にはなかった。中国側にとっては平綏線の鉄道輸送で兵力の集中が容易であり、東進して多倫―承徳方面を脅かすことで平津地方の日本軍を包囲することが可能だった。参謀本部は中国軍を刺激することを恐れ、関東軍の度重なる意見具申を拒否し、多倫以西への進出を固く禁じていたが、中央軍の北上で中国側の開戦意志が間違いないとなると、8月9日、臨参命第72号で察哈爾作戦を命じた。関東軍は内示段階の8月7日の時点で、いち早く堤支隊に張北への進出を命令、一部は航空機による空輸を行い、8月10日には張北に一応の集結を完了した。8月2日に天津を出発して約一週間で張北展開という早さであった。

堤支隊の装甲車
堤支隊は、満州駐留の第三独立守備隊から歩兵二個中隊を基幹に白城子で編成された。支隊長は堤不來貴中佐(24期)。機関銃、歩兵砲、工兵、装甲自動車の各中隊を編合し、軽装甲車4両、トラック58両、自動二輪4両の計66両の車輌を有する機械化集成部隊だった。後に歩兵二個中隊が増員されており、張北での戦闘参加時の人員は844名を数えた。支隊は対ソ防諜のため、いったん鉄道輸送でチチハル、ハルビンまで北上、その後、南下し、7月31日に天津着。翌々日の8月2日に多倫へ出発するが、途中、中国側の妨害で列車が転覆したため、急遽、承徳で受領した車輌で多倫を経て張北へ、およそ450キロもの未踏の地を走破することとなった。特務機関員による事前の地理偵察の甲斐もあって、8月8日には先頭部隊が張北に到着、翌9日には遅れていた装甲車も到着し、一台の落伍もなく集結している。熱河作戦の経験が活かされた迅速な機動進駐だ。
陸路による本隊の移動とともに、航空機による空輸が併行して行われた。まず、多倫警備のため残置していた歩兵一個中隊を張北に急派するため、満洲航空株式会社の所有機で動員編成された臨時軽爆撃隊(隊長は同社所属の石川航空兵少佐)に対し、8月9日払暁より全16機全力を以て多倫―張北間の空輸を命じた。空輸に供されたのは、主に6人乗りのスーパーユニバーサル機。武器弾薬と共に完全武装の兵士を6名ずつ乗せて、同日19時までに張北への空輸を完了した。次いで、関東軍は同日中にスーパー機6機に奉天飛行場への集結を命令。翌10日より増員部隊の空輸を開始した。堤支隊の戦闘詳報によれば、10日は独立守備隊からの64名、12日は歩兵第四連隊から抽出された大泉支隊(一個大隊)の45名と独守87名、13日には独守180名を張北に空輸している。

満洲航空のスーパーユニバーサル機。非常に安定した飛行性能を持つ機体で、作戦間の事故もなかった。主翼は木製、鋼鉄の骨組みに張布貼りという軽量な機体で、敵の対空砲火には無力だった。
空輸中の事故や敵の攻撃による損害もなく、無事に張北で集結を完了した堤支隊は、県城および飛行場の確保にあたるとともに、張北の東約90キロの平定堡への大泉支隊の展開に協力、張北―平定堡のラインで兵団本隊(混成第二旅団)の進出を援護した。大泉支隊の一部は、飛行機で下りてすぐに堤支隊のトラックで平定堡に進出するという慌ただしさで、参加将兵の苦労がしのばれる。その間、西方に布陣した内蒙軍は、中国軍主力の圧迫を抑えつつ逐次後退し、康保―張北のラインが完成した。18日、張北を守備する堤支隊と内蒙軍は、精鋭で知られる中国軍騎兵第七師(門炳岳)の攻撃を受けたが、協同して激戦の末にこれを撃退し、ここに張北を橋頭堡とした体制が確立した。これ以降、関東軍は張北―平定堡のラインより南下し、長城線を越えて張家口を攻略することとなる。9月9日、堤支隊は混成第二旅団との連名で、平綏分断とその後の戦闘での活躍を評されて感状を授与された。

内蒙軍の騎兵隊。堤支隊の成功の裏には設立間もない内蒙軍の活躍があった。
一週間の空挺作戦で展開した兵員はおよそ五百名。数としては多くないが、迅速な橋頭堡の設定により敵の第一撃を撃退することに成功し、敵に脅威を与えて兵団主力の進出まで同地を確保する任務を全うできた。当時、作戦に関与した松井大尉は、空挺作戦は事前に検討されていたわけではなく、関東軍司令部内において交わされた議論が徐々に構想としてまとまって作戦に結実したとする。ただ、空地一体型の機動作戦の発想自体がゼロから生まれたわけではない。1935年(昭和10年)に隣国ソ連で行われたキエフ機動演習では、落下傘降下と機械化部隊を統合した敵地強襲の様子が目の前で展開されて、日本を含む列国武官らの肝を抜いた経緯があり、作戦参謀の頭に強く印象づけられていたことは間違いない。すでに熱河作戦で機械化部隊の運用と兵員空輸に豊富な経験を積んでいた関東軍にとっては、チャレンジというほどに困難ではなく、実戦で試行するのに良い機会だったと言える。

