
(出典:『戦史叢書55 昭和十七、八年の支那派遣軍』,57頁)
この四川作戦において、黄河の渡河と並んで作戦上の課題となるのが、山岳地帯の突破であった。四川と陜西との間に横たわり、古より蜀の地にとって天然の要害として機能してきた秦嶺と巴山の二重の山脈越えである。作戦では、進攻兵団が西安附近の占領と併せて、黄河渡河後にそのまま南下して秦嶺山脈を越え、巴山山脈の隘路口である広元まで、一挙に三百キロもの山岳地帯を突破することが求められていた。この困難極まる山岳戦を担う進行兵団の主力には、山西省で戦ってきた第一軍が予定されていた。
そもそも列島全体が山国である我が国では、平時の部隊演習に山地行軍が求められた。欧州諸国で見られたアルプス猟兵のような特別な山岳部隊は必要とされず、戦時には駄馬編成を充てるなどして対応してきた。第一軍の第三十六師団(雪)、第三十七師団(冬)、第四十一師団(河)の各兵団も駄馬・山砲編成で戦ってきており、特に前年の中原会戦における山岳突破力は高く評価されていた。ところが四川作戦においては従来の延長では対応不十分と考えられた。
というのも、秦嶺山脈は標高三千メートル級の山々が連なる高山地帯であり、巴山山脈は標高は二千メートル級だが、桟道(断崖に架けられた空中木道)で知られるような峻険な地形である。四川と陜西を結ぶ自動車通行可能な道路は、日華事変中に国民政府が開通させた川陜公路一本のみであり、それ以外の山越えの公路や馬車道は限られ、路外での車輌の通行は不可能、徒歩行軍でさえ断崖絶壁で行く手を阻まれた。しかも、当時の兵要地誌では、秦嶺の最高峰である太白山が標高四千メートル以上とかなり高く見積もられており(実際は3760メートルで富士山程度)、日本軍にとって未体験の高山病対策や高地に適した炊事法なども必要と考えられた。そこで第一軍では北支那方面軍とともに、昭和17年(1942年)夏頃より、特別な山岳部隊の編成を含めた山岳戦の研究と教育訓練を開始した。

雲海に浮かぶ秦嶺山脈
(Photo by World Wide Fund for Nature)
研究内容は、山岳部隊の編成と装備、山岳地における機甲部隊の運用法、空中補給や空地連携、高山地帯における衛生などだったが、日本陸軍で山岳戦の研究が本格化したのは、南方戦局が悪化した翌年の昭和18年(1943年)からで、手本となるような先行研究に乏しかった。山岳戦について最も豊富な経験と実力を有していたのは第一軍自身という状況下で、その研究はほとんど手探り状態からの開始を余儀なくされたようだ。第一軍では隷下兵団の在隊者のうち、山岳経験者からヒアリングを行って研究の端緒としたという。
主力となる徒歩の山岳部隊については、第三十六師団で試験的に山岳大隊を編成してその運用が研究された。当時の関係者(友近1A高級参謀、笹井1A情報参謀)によれば、この山岳部隊は小諸兵連合部隊の性格を持たせ、駄馬はいっさい使用せず、全部が臂力搬送で対応するものだったという。この試験運用で得られた成果を前提に、同年11月~12月、第一軍は実戦(中共軍の討伐)を兼ねた大規模な山岳演習を山西省の五台山附近で実施した。この演習での部隊編成については詳しい史料が残っている。
それによると、山岳部隊は一個歩兵大隊に、投射小隊一と大隊作業班一を付して編成が予定された。投射小隊とは、迫撃砲で錨綱を断崖上に投射する四門編成のチームで、大隊作業班は、断崖を登攀してルート開拓や偵察にあたる将校を長とする計五名のクライミングチームである。演習では、このような山岳部隊を、第三十六、三十七、四十一の各兵団から二個大隊づつ編成し、計六個大隊の参加を予定した(第四十一師団はすでに第十二軍に転属していたが、この演習に参加している)。このほかに、機甲部隊の山岳突破に関する研究として機械化集成部隊が二個大隊と、迅速な路修のための訓練として乗車工兵が一個連隊、空地連携訓練のために飛行隊が参加することとされた。
一般兵(徒歩行軍の山岳兵)の個人装備については、小銃手の場合、背嚢と後盒と雑納を除く通常装備の外に、水筒、登山杖、綱(長さ十米中径六粍)、小十字鍬もしくは小円匙、地下足袋、防寒装備等を携行し、リュックサックに収納または装着するものとされた。背嚢ではなくリュックサックとしたのは収納容量の問題だろう。地下足袋は難路通過用である。綱(ロープ)が十メートルと短いのは、各人つなぎ合わせて使用するためだが、径が六ミリと細いから補助用で、登攀用には別に十ミリロープが用意されたはずである。また、防寒装備の内訳で防寒外套に打ち消し線が付けられており、機動性の点からか異論が出たようである。

昭和19年(1944年)11月に教育総監部が制定した『山嶽地帯行動ノ参考』に収録されているロープとフットワークの解説図。
同教範はポケットサイズだが、クライミングの技術解説も収録された本格的なものである。おそらく、国軍として初めての、そして唯一の本格的な山岳教範と思われる。
(出典:『山嶽地帯行動ノ参考』附録85頁、同89頁)
大隊作業班は、このほかに携行資材として麻索投射具と個人登攀装備を装備するものとされた。麻索投射具の詳細については不明だが、専用の機材ではなく、擲弾筒で錨綱を打ち上げる方法などで対応したと思われる。登攀装備については、確保索、岩鶴嘴、岩鉄槌、岩釘、バネ環、作業帯、背負袋、鈎棒、掛綱という内訳になっており、断崖にハーケン類を打ち込んで登攀する本格的なクライミングが想定されていたことが伺える。ゆえにメンバーはクライミングの技能を有する者で編成されたと思われるが、岩壁の人工登攀が黎明期(登山自体が金持ちの趣味)だったこの時代に、一個大隊に五名ものクライミング経験者がいたとは考えづらい。実際には投射具を使用するので、登山経験者か運動神経に優れた者を充てることで対応可能だったのかもしれない。ただ、陸軍戸山学校にクライミングの技術指導をしていた藤木九三は、当時、華北派遣の内命を受けていたと回想している。詳細は明らかにしていないが、話の筋から四川作戦に関する任務であることは間違いない。クライミングの実技指導が予定されていたと思われる。

昭和18年(1943年)8月に木曽駒ヶ岳で行われた山岳演習の様子。垂直に近い断崖を、分解した砲身(重さ100kg近い)を担いで登攀している。
木曽駒での演習は山頂に駄馬隊も登頂するという前代未聞の演習だった。制空権のないニューギニア山岳戦を想定した演習だった。
日本陸軍での山岳戦研究は、昭和18年(1943年)から本格的に開始され、この木曽駒をはじめ、穂高、八ヶ岳など、各地で幾多の戦技登山演習が実施された。
それら成果は、翌年11月の『山嶽地帯行動ノ参考』制定に結実した。
(出典:「峻険に挑む戸山学校部隊」アサヒグラフ昭和18年8月25日号所収)
演習が行われた五台山付近は、秦嶺山脈に比べて標高で一千メートルほど低いが、同じように地隙と断崖の連続した峻険な地形で、冬季の気温も零下二十度以下に下がる。厳冬期に行われた本演習は、相当の厳しさだったと思われる。その結果についてはつまびらかではないが、関係者が総じて「自信を深めた」と回想していることから、成功裏に終了したと言えるだろう。
四川作戦は、昭和18年(1943年)春の発動を目指して作戦準備が発令され、予算措置も講じられたものの、最終的にはガダルカナル島での敗退を契機とする南方戦局の悪化によって中止のやむなきに至った。現地への正式な中止命令は、五台山付近での演習前後にもたらされた。秦嶺・巴山の山越えに向けて注力してきた第一軍にとっては夢潰え、気勢をそがれた形となった。赴任時に重慶攻略を公言して、五台山演習も統裁した吉本貞一軍司令官の落胆は察するに余りある。
四川作戦は南方戦局のために中止となったが、山岳訓練は皮肉にも南方で活かされることとなった。第四十一師団は東部ニューギニアに、第三十六師団は西部ニューギニアに、同じく山西省で長らく戦い、進攻兵団に予定されていた第二十師団も東部ニューギニアに投入されている。山西の地で戦った歴戦の将兵の多くが、ニューギニアにおける過酷な山岳戦に参加を余儀なくされた。最後まで山西に残った第三十七師団は、一号作戦で大陸を縦断し、華南の山嶺を越えてタイで終戦を迎えている。

