本書は「オーラルヒストリープロジェクト」(http://www.ohproject.com/)の主宰者である米濱泰英氏が、山西残留事件についてまとめたものである。本書は、サブタイトルに「国共内戦に翻弄された山下少尉の戦後」とあるように、同サイトに掲載された山下正男氏の回想談をもとに執筆されている。ただ、内容は大幅に加筆されており、山下氏一個人の回想にとどまらず、山西残留事件全体を網羅した内容になっている。
山西残留事件は、日本敗戦と国共内戦という国際情勢の隙間に成立した特異な事件だったが、その規模は大きく、複雑であり、さらに事件に関与した人の間で情報の隔絶が大きかった。民間人と現役兵、残留派と帰国派、そして一兵卒と軍首脳など、立場によって様々な見方がなされてきた。事件への政府の対応が訴訟の対象となったことも、歴史事実として客観的に描かれることへの障害となった。そのため、これまで山西残留をテーマにした書籍や映画は少なからずあったが、いずれも残留事件の全体像を把握するには一長一短だった。
本書は、それら先行の証言や文献、一次史料を全て網羅し、事件に関わるあらゆる事象を事細かに描ききっている。ゆえに特定のイデオロギーや政治的立場による偏見が介在する余地なく、山西残留事件を極めて客観的に骨太に把握できている。一つの歴史的事件を描いた本として、相当の完成度を誇っていると思う。著者の米濱氏はかつて岩波勤めであったと聞く。さすが老舗敏腕編集者の仕事である。
本書の中で最も情景溢れるのは、やはり南京の宮崎参謀が第一軍首脳陣と直談判した記録を紹介した箇所だ。当時の「敗戦ボケ」した軍首脳陣の姿が目に浮かぶようである。また、元泉旅団からの受信電報の朱書きから、日本側責任者である山岡軍参謀長の心理を突いた箇所も興味深い。山岡は対ソ戦の専門家で、いつでもソ連に売られる立場にあった。心理的な負担は相当だったろう。当時の関係者の人物像をもっとも正確に表現できるエピソードを選んで挿入しているあたりに、残留事件への深い洞察が伺える。
本書によって山西残留事件は総括されたと言える。本書の登場で、山西残留事件は、今後、歴史として扱われるようになる。
史料解釈の点で二点ほど指摘しておきたい。
まず第一は、特務団の戦車隊、工兵隊、病院等の特科部隊編成への軍の関与である(本書320-321頁)。本書では1946年2月~3月にかけてのこの一連の命令を取り上げて編成を命じたとしており、「厚生省の係官たちが報告書の作成にあたって、もしこれらの資料を目にしていたならば、『軍司令官以下軍の首脳部は、終始第一軍将兵の完全な内地帰還の方針をもって指導していた』などと書くことは到底できなかったであろう」と指摘している。しかし、それは的外れな指摘だ。
確かに一連の命令は「一軍作命甲○○」として、軍の作戦命令の形式で発令されているが、その文言はいずれも「編成ヲ援助」となっており、編成そのものを命じていない。そもそも特務団は建前上は中国軍の組織であるから、日本側が編成を命じることはできない(だから特務団本隊の編成命令は「鉄道修理工作部隊」として命じたわけである)。ゆえに、ここは字義通りに解釈すべきで、厚生省の調査官は見逃したのではなく、あえてスルーしたと見るべきだ。
ただ、実際には本書が指摘するように、実質的には「編成命令」として、日本側の人員をもって編成されたことは間違いない。これは別の文書を用いることで、その虚構の一端を指摘できる。一連の命令書は、防衛研究所に所蔵されている「第一軍作命及訓示綴(S20.8.10~S21.5.1)」に収録されているが、同史料には戦犯世話部の名簿も綴じられている。そこに裁判の証人として赤星久行少佐の名前がある。ところが赤星少佐は実際には公判に出廷するのではなく、特務団戦車隊の隊長を務めていた。山岡軍参謀長が率いる戦犯世話部が、残留推進拠点だった証左であり、一連の命令が実質的には「編成命令」だった証左である。
第二は、本隊帰還時に残留者への現地除隊(もしくは脱走者としての処理)徹底を図ったという命令電報「三五一号外」についてである(本書326-328頁。本電の画像はこちらの「中国山西残留の日本兵問題」のサイトに掲載されている)。本書は、同電の最後に「本電直チニ焼却ノコト」「本電用済後焼却」の記述があることから、証拠隠滅を図った重要な証拠と指摘する。しかし見れば分かるようにこれらの記述は棒線で打ち消されている。実際には逆と考えるのが筋ではないか。
というのも、筆者も防衛研究所で一連の史料を閲覧したときから疑問に思っていたが、同電は他数点と共に、それらだけが起案用紙に手書きで書かれている。他の電報類と異なり、清書されていない、すなわち、実際に打電されたか確かではないのだ。しかも、この命令電報の内容は、軍首脳が積極的に残留を食い止めようとした、その処置の一端という意味合いを持つ。ゆえに同電はねつ造された疑いが払拭できない。
厳密に史料批判した場合、この命令電報を除外したとしても、厚生省報告書の結論に大きな影響を与えることはないと思う(本書では紹介されていない電報、命令書等でも、現地除隊や残留中止は再三指示されている)。しかし、末端まで現地除隊の徹底が図られなかった、という論点はより強調されるはずで、元残留将兵への補償になんらかの影響は与えたかもしれない。実際には「山西省日本兵残留問題についての厚生労働省の回答」で示したように、戦死者の遺族には特例で公務死亡に基づく援護措置を講じているなど、国もできる限り補償をおこなっているというのが筆者の見解である。


