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[戦争]
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華北戦線において中国軍捕虜は、臨時の収容所で一定期間、労役に服した後、釈放(帰郷)または職業斡旋を受けた。太原では「工程隊」の名称で捕虜収容所が設置されている。捕虜として送還せず、「安居楽業ニ就カシメタル方針」ゆえである。
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昭和14年(1939年)11月、山西省南部の黄河を見渡す風陵渡で、殷殷たる砲声が鳴り響いた。日本軍の潼関砲撃作戦である。この作戦に、日露戦争で活躍した二十八糎榴弾砲が参戦した。二十八榴が戦場で火を吹いたのは、おそらく、ここ風陵渡が最後だ。
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重慶を攻略して蒋政権の屈服を目指す四川作戦(五号作戦)。秦嶺と巴山の二重の山脈越えを要する困難極まるこの作戦の主力には、山西省で山岳戦を戦ってきた第一軍が予定されていた。作戦発動を翌年に控えた1942年(昭和17年)夏、第一軍では、山岳部隊の研究と訓練が開始された。
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中共が抗日戦争を語るときに必ず挙げるのが平型関における戦いだ。平型関では日中両軍が激戦を繰り広げたが、日本軍と戦ったのは国民政府軍(山西軍)であって、中共が参戦したのは一局面に過ぎない。しかも「抗戦初の勝利」と中共が自画自賛する戦いは、非武装に近い補給部隊を襲撃して物資を奪ったのが実情で、戦局に資するところもなかった。
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航空機を利用して兵力を敵地に投入する空中挺進作戦。その構想は第一次大戦で生まれ、戦間期には落下傘降下を含めて各国で研究が行われたが、実際に戦場で試したのは日本軍が初めてだ。昭和12年(1937年)8月に、関東軍が内モンゴルで橋頭堡を設定するために行った、堤支隊による空地一体型の機動作戦がそれである。
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1942年(昭和17年)5月25日、山西省東南部の山中で、八路軍参謀長の左権将軍が戦死した。左権は「抗日戦争」において前線で死亡した最高位の中共幹部だ。左権を討ったのは、八路軍の軍衣を身にまとい、敵地深く潜入した日本軍の特殊部隊「益子挺進隊」だった。
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正論の記事で話題になった山形のシベリア史料館には、山西省を所管した第一軍の兵器引継書も保存されている。この兵器引継書を見ると、当時の様々な情況、すなわち、質の低下した帝国陸軍の実態や山西残留の片鱗などが如実に顕れている。同時に、内容は史料が本物であることを示唆している。
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中共や左翼が主張する「無人区」とは、日本軍が特定地域の住民を迫害・虐殺して"無人化"を図った蛮行とされている。しかし実情は、対敵経済封鎖の一環として行われた移住策で、住民を迫害するために行ったものではない。ただ、追われる住民にとっては悲劇だったと言える。
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日華事変で日本軍は化学兵器を使い、守勢で装備不良の中国軍相手に大きな成果をあげた。日本軍はガスの使用を厳格に管理し、最初は催涙性のみどり剤のみを許可し、ついでくしゃみ性のあか剤、一部で糜爛性のきい剤も使用された。そしてあか剤、きい剤の解禁は、いずれも山西省における実験使用が最初だった。山西省は、中国戦線における化学兵器の実験場の役割を果たしたようだ。
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戦争を知らない世代は第二次大戦でも大砲を馬が牽いていたと聞いて意外に感じるが、中国戦線では馬だけでなくラクダ(駱駝)も使われていた。
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日華事変の勃発で満州から山西に派遣された独立混成第一旅団(酒井旅団)は国軍初の機械化部隊だった。中国戦線に派兵された日本戦車隊は総じて「鉄牛奮戦」と賞賛されている。ところが山西の地では、賞賛どころか現地で悪評が噴出したという。戦車の用兵を誤ったからだ。
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1937(昭和12)年の山西戦場における勝敗を決めたのが忻口と娘子関での戦争だ。両地で太原攻略を目指す日本軍とこれを阻もうとする中国軍との間で激戦が繰り広げられた。
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日華事変初期の山西作戦は成り行きで決まった作戦だった。関東軍と板垣兵団の独断専行に引きずられたが、武藤ら参謀本部の関東軍シンパも関与していた。
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七七事件発生時、私は湖北省政府主席の任にあった。8月、蒋介石は南京で開催した会議において、軍事委員会の下に六つの部署設置を決定した...
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戦争体験談で李樹徳さんが参加した黒龍関の戦闘では、日本軍が催涙ガスを使用した。S13吉県作戦に参加した第百八師団では、事前にガス教育が行われていた。
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「七亘大捷」は平型関につぐ中共軍の勝利とされる。しかし実情は平型関と同じく、非武装に近い補給部隊への奇襲攻撃で、その戦功もあまり大きなものではない。
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