|
2008年7月 4日|
書評
本書は「オーラルヒストリープロジェクト」(http://www.ohproject.com/)の主宰者である米濱泰英氏が、山西残留事件についてまとめたものである...
2008年4月 4日|
書評
『戦争における「人殺し」の心理学』に続くデーヴ・グロスマンの邦訳第二弾が本書である(本書はローレン・W・クリステンセンとの共著)。前著では市民のみならず当の兵士...
2008年3月27日|
戦争体験談
永富博道さん
右翼の大物・頭山満の愛弟子。大学卒業後に軍属として中支の特務機関に三年間勤務、1941年(昭和16年)の徴兵後は山西省に赴任。第三十七師団、第五独立警備隊に勤務。終戦後は、民間側での残留運動の首謀者として活動。暫編独立第十総隊第三団長、上海出張処長等を歴任。山西軍上校。1949年(昭和24年)の太原陥落で中共軍に逮捕された。有罪判決を受け服役。1963年に帰国。戦後は中帰連の活動に力を注いだ。2002年に逝去された。
2008年2月 1日|
コラム
戦争
華北戦線において中国軍捕虜は、臨時の収容所で一定期間、労役に服した後、釈放(帰郷)または職業斡旋を受けた。太原では「工程隊」の名称で捕虜収容所が設置されている。捕虜として送還せず、「安居楽業ニ就カシメタル方針」ゆえである。
2007年12月29日|
書評
本書は、タイトルにあえて「毒ガス」というインパクトのある言葉を付けているように、日本軍が実際に戦場で化学兵器を使用した"不祥事"としての史実を解明することに大き...
2007年12月13日|
書評
総頁数が660頁を数える大著である本書は、"日本軍の捕虜政策"について、日清・日露戦争から第二次大戦、さらには戦後補償まで網羅したとする。しかし、最も注目されね...
2007年10月28日|
コラム
戦争
昭和14年(1939年)11月、山西省南部の黄河を見渡す風陵渡で、殷殷たる砲声が鳴り響いた。日本軍の潼関砲撃作戦である。この作戦に、日露戦争で活躍した二十八糎榴弾砲が参戦した。二十八榴が戦場で火を吹いたのは、おそらく、ここ風陵渡が最後だ。
2007年10月19日|
フリートーク
昨年に執筆いたしました『正論』の遺棄化学兵器スクープを評した記事について読者の方からのご質問がございましたので、今年5月に公になった山形シベリア史料館での政府調...
2007年8月19日|
コラム
社会
日本人の主導によって華北の占領地では都市計画が立案された。内地におけるそれと比較しても遜色のない立派なものであったが、時局から実施できたのは一部にとどまった。山西省でも実現できたのは上水道の建設ぐらいだったが、それでも住民に非常に感謝されている。
2007年8月10日|
フリートーク
実家の並びに、Yさんという大工の棟梁が住んでいた。生まれも育ちも完全な江戸っ子だった。私自身、東京生まれの東京育ちだが、実際に「べらんめえ」と言う人は、考えてみ...
2007年7月 7日|
コラム
政治
日華事変において、中共こそが救国を担ったという主張が長年にわたって流布されてきた。しかし、それは嘘である。八年間にわたる「抗日戦争」で日本軍の矢面に立ったのは国府軍で中共ではなかった。そもそも中共指導部に、日本軍に対する抗戦意欲はなかった。中共の至上命題は大陸の覇権を握ることで抗日ではなかったからだ。
2007年7月 1日|
フリートーク
第二次作戦総合戦果(出典:第一軍参謀部「第一軍作戦経過ノ概要 (第二十一章 晋中作戦)」1940年) 1940年(昭和15年)に中共軍が発動した「百団大戦」に...
2007年6月 3日|
コラム
戦争
重慶を攻略して蒋政権の屈服を目指す四川作戦(五号作戦)。秦嶺と巴山の二重の山脈越えを要する困難極まるこの作戦の主力には、山西省で山岳戦を戦ってきた第一軍が予定されていた。作戦発動を翌年に控えた1942年(昭和17年)夏、第一軍では、山岳部隊の研究と訓練が開始された。
2007年5月19日|
写真
華北戦線,1937年 手前と奥に口径70ミリの九二式歩兵砲二門が見える。写真右手には双眼鏡を構える人影と測距器を覗く人影が写っている。歩兵砲隊の陣取り方が良く...
2007年5月 9日|
フリートーク
先般、安倍総理は、慰安婦問題について、「軍の関与はあったが強制はなかった」という趣旨の談話をした。これを二枚舌だ何だと批判する向きがあるが的はずれである。そもそ...
2007年4月29日|
コラム
社会
中国大陸において、水害と旱害に並んで恐れられてきた災害が蝗害(こうがい)だ。通過した土地の草木を全て喰い尽くしてしまう蝗群の威容は、戦前に大陸に出征した日本人もよく遭遇したようで手記などで紹介されている。
2007年4月 7日|
戦争体験談
安井清さん
戦争末期の1944年(昭和19年)11月、徴兵により岡山第四十八部隊に入営。すぐに山西省中部に駐留の元泉旅団(独立歩兵第十四旅団)に配属された。初年兵教育終了後、老河口作戦に参加。終戦で残留部隊に編入され、二年間、山西省で国共内戦を戦った。1947年(昭和22年)11月に帰国。現在、岡山県に在住。
2007年3月31日|
書評
八年間にわたる「抗日戦争」において、中共こそが救国を担ったという主張が長年にわたって流布されてきた。しかし、それは嘘である。八年間におよぶ日中間の戦いで、日本軍...
2007年3月17日|
書評
関東軍で内蒙工作を担当した松井忠雄。著書『内蒙三国志』は、世に知られていなかった辺境の謀略工作について(上官である田中隆吉の不甲斐なさを含めて)、きわめて率直に...
2007年2月10日|
写真
素焼製の細菌爆弾をかたどった粘製の模型。十五年ほど前に友人がハルビン平房の旧七三一部隊跡地に行った際に購入した。土産品として売られていたという。今はすでに販売...
2007年2月 7日|
コラム
事件
防衛省の戦史史料には、駐蒙軍が1940年(昭和15年)に計画した人体実験について記された文書が存在する。この文書は、1995年に復刻出版された『極秘 駐蒙軍冬季衛生研究成績』の真贋を傍証するものだ。復刻本には、写真を含め、人体実験の全貌が恐ろしいほど克明に記されている。
写真
『侵華日軍暴行総緑』に掲載されている人体実験の写真とされるもの。1985年に雑誌『ゼンボウ』は、この写真を、昭和3年(1928年)の済南事件において中国兵によ...
2007年2月 6日|
フリートーク
9月13日付の関参電第287号(アジア歴史資料センター Ref:C04012568700) 日本軍が多数の住民を虐殺したとされる陽高事件。陽高攻略にあたった日...
2007年1月29日|
フリートーク
ラルフ・タウンゼントの著作『暗黒大陸中国の真実』についての書評(→詳しくはこちらを参照)をご覧いただいた清水様より、タウンゼントが有罪判決を受けた当時の米国司法...
2007年1月19日|
コラム
戦争
中共が抗日戦争を語るときに必ず挙げるのが平型関における戦いだ。平型関では日中両軍が激戦を繰り広げたが、日本軍と戦ったのは国民政府軍(山西軍)であって、中共が参戦したのは一局面に過ぎない。しかも「抗戦初の勝利」と中共が自画自賛する戦いは、非武装に近い補給部隊を襲撃して物資を奪ったのが実情で、戦局に資するところもなかった。
2007年1月12日|
コラム
戦争
航空機を利用して兵力を敵地に投入する空中挺進作戦。その構想は第一次大戦で生まれ、戦間期には落下傘降下を含めて各国で研究が行われたが、実際に戦場で試したのは日本軍が初めてだ。昭和12年(1937年)8月に、関東軍が内モンゴルで橋頭堡を設定するために行った、堤支隊による空地一体型の機動作戦がそれである。
2007年1月 6日|
コラム
事件
陽高事件はチャハル作戦で関東軍が山西省北部で引き起こした虐殺事件だ。しかし事件は訴追されることなく歴史の闇に消えた。東条英機の戦争責任に関連して秦郁彦氏が光をあてたが、事件の詳細は今も不明だ。
2006年12月18日|
コラム
残留問題
山西省に残留した元日本軍現役将兵の法的地位をめぐる問題について、平成18年8月16日付で厚生労働省に対し「山西軍参加者についての報告書の内容と国の対応に関する質...
2006年12月12日|
書評
著者の梨本祐平は、中国経済の専門家として、満鉄、華北政務委員会、海軍武官嘱託、華北交通に奉職し、数々の政略に携わった人物だ。東大社会科学研の田島教授がホームペー...
2006年11月28日|
コラム
事件
占領地の人心掌握と行政指導を任とした宣撫官は、職責と理想のため、日本軍と現地住民との間でしばしば板挟みとなった。彼らは当時のエピソードを回想する回顧録に、日本軍の非違行為について書き残している。
2006年11月11日|
コラム
事件
1949年(昭和24年)4月24日、中共軍による太原陥落の日、省政府地下室など市内数カ所で、近代中国で前代未聞の集団自決事件が起きた。閻錫山は"先我而死"を選んだ殉死者を「太原五百完人」として称え、台北に招魂塚を建立し、その霊を慰めた。
2006年10月23日|
書評
山西残留事件が部数の多い媒体で取り上げられるのは稀なことだ。映画「蟻の兵隊」の撮影秘話を語るというと、どうしても販促的側面を意識してしまうが、本としての出来は良...
2006年10月15日|
写真
山西省陽曲県にて。1995年。 羊の群れを連れて村の小道を歩く農民。羊は昔から中国農民にとって欠かせぬ畜産物だった。 ...
写真
山西省陽曲県にて。1995年。 農家の様子。大昔と変わらない佇まいを今も残している。 ...
写真
山西省陽曲県にて。1995年。 中国の農村には未だ機械が入っていない。ここ陽曲の農村でも、数百年前と同じく、驢馬に鍬を引かせ、人手で穂刈りを行っていた。 ...
写真
山西省陽曲県にて。1995年。 ビルが並び立つ省都太原から北へ約30キロほど行くと、このような風景が広がっている。中国では戸籍が農村と都市部で固定されているた...
2006年10月14日|
写真
第一軍司令部 山西省太原。1938年(昭和13年)に完成した。瓦葺きに車廻しのある三階建ての庁舎で、その偉容は関東軍司令部に次ぐと言われた。建物自体は現存して...
2006年10月12日|
コラム
戦争
1942年(昭和17年)5月25日、山西省東南部の山中で、八路軍参謀長の左権将軍が戦死した。左権は「抗日戦争」において前線で死亡した最高位の中共幹部だ。左権を討ったのは、八路軍の軍衣を身にまとい、敵地深く潜入した日本軍の特殊部隊「益子挺進隊」だった。
2006年9月27日|
写真
華北戦線,1937年 楼上から武器を構えて警戒する日本兵。手前の兵は小銃をかまえ、中央の兵は軽機を、奥には擲弾筒が見える。当時の歩兵小隊が装備した武器がよく分...
写真
華北戦線,1937年 小川で馬に水を飲ませる日本兵。背負った小銃が短銃身・折畳式スパイクバヨネットの四四式騎銃だから騎兵と分かる。 小銃の性能向上と機関銃の登...
写真
遼寧省撫順市。1995年。 中共が指定した戦犯容疑者が収容され、政治教育を受けた獄舎。愛新覚羅溥儀をはじめとする満州国関係者と関東軍や朝鮮軍の将兵でソ連に逮捕...
2006年9月 9日|
フリートーク
月刊誌『正論』が約半年にわたって報じてきた遺棄化学兵器"スクープ"は、きわめてお粗末なものだ。引継書に化学兵器の記載はなく、月号を経るにつれ論旨もゆがんできた。真相は複雑かつ微妙だが、けして陰謀などではない。
2006年8月18日|
コラム
残留問題
山西残留将兵に対する国の見解は自願残留であり、一部の現役将兵は軍命があったから自願ではないという。どちらが真実なのか。結論から言えば、双方ともに都合の良い部分しか言っていないのである。すなわち、真実は両者の言い分の接点にある。
2006年8月15日|
写真
1939年(昭和14年)に制式化された対戦車肉薄攻撃兵器。炸薬が詰まった円盤型の本体に四個の磁石がついており、敵戦車に接着させて点火できるように設計されている...
写真
華北戦線,1937年 写真右手に写っている兵士が両手に提げているのは飼葉桶だろうか。屋敷の前に繋がれている馬の横で珍しそうに豆タンクを眺めている姿がおかしい。...
2006年8月 6日|
写真
山西省東部の平定県附近。1997年。 切り立った岩壁や深い渓谷のある太行山脈を縫う河床には、ねずみ色の大きな河岩が所々に露出している。岩は粘土質で、さわるとボ...
写真
山西省東部の平定県附近。1997年。 山西省東部の山岳地帯の風景。断崖の高さはおよそ百メートルに達する。写真の場所は河床。ふだんは完全な涸河だが、上流で大雨が...
2006年7月31日|
写真
山西省保徳県の農村にて。1997年。 山西省自体が現代においては貧しい省と言われるが、西の山奥に位置する保徳県は、その山西省内でも最貧困県に位置づけられる。山...
2006年7月30日|
写真
山西省陽曲県の農村にて。1995年。 幼児期に足に布を巻き、場合によっては骨を砕いて足を小さくする。纏足の奇習が完全になくなったのは新中国の成立後に中共が徹底...
2006年7月26日|
写真
太原近郊の牛駝塞烈士陵園にて。1994年。 国府軍第三十軍の軍長代理の任にあった黄樵松将軍は、牛駝塞戦役を前にした1948年(昭和23年)夏、己に大勢を知り中...
2006年7月24日|
写真
写真は、1937年(昭和12年)に上海閘北における市街戦にて撮影されたもの。ナチ・ドイツ式の軍装に身を固めた国府軍兵士が土嚢を積み上げたバリケードから軽機関銃...
2006年7月23日|
フリートーク
靖国神社とA級戦犯の分祀、国立追悼施設の建設がホットな話題となっている。議論が盛り上がったのが中国の内政干渉によることは情けないが、戦没者・殉職者を網羅的に追悼...
2006年7月22日|
写真
一橋大のコレクションにある元陸軍経理学校所蔵の写真。キャプションには山西省太原で撮影とある。詳細は不明だが、太原にある紡績工場は一社だけだったから、キャプショ...
2006年7月21日|
写真
山西省太原市。2001年。 太原市では旧城壁の修復・復元が行われた。写真は市内の北にある拱極門。拱極門は明代に建設された太原八大門の一つとされる。2003年に...
2006年7月18日|
写真
photo by Mr.Nishishita 世界遺産として名高い山西省北部の大同にある雲崗石窟。日華事変において、日本軍は廃寺同然だった石仏を守り、日本人研...
写真
1937年(昭和12年)、太原攻略に向かう戦車と自動貨車の一群。検閲で戦車の砲身は消され、鉄扉に修正されている。 チャハル作戦とそれに続く太原攻略戦には、関東...
2006年7月17日|
写真
山西省保徳県の農村にて。1997年。 同行した中国人によれば、親指大の楕円形のものは品種改良されたもので、写真のものが原種の棗(なつめ)だという。地元では「野...
写真
山西省保徳県の農村にて。1997年 山西省の西に位置する保徳県は、省内で最も貧困の県のひとつとされる。嶮しい山中にあるこの農村には、未だ電気が通らず、村内には...
コラム
戦争
正論の記事で話題になった山形のシベリア史料館には、山西省を所管した第一軍の兵器引継書も保存されている。この兵器引継書を見ると、当時の様々な情況、すなわち、質の低下した帝国陸軍の実態や山西残留の片鱗などが如実に顕れている。同時に、内容は史料が本物であることを示唆している。
2006年7月16日|
写真
山西省保徳県にて。黄河。1997年。 山西省の西に位置する保徳県は、黄河を挟んで陜西省と接している。対岸の陜西省側に立つ工場群から排出される廃液のためか、母な...
2006年7月14日|
写真
山西省保徳県の農村にある小学校にて。1997年。 ...
写真
山西省東端、河北省との境に位置する山中。1997年。 娘子関に近い太行山脈の山中。断崖の高さは百メートル以上に及ぶ。日華事変初期の太原作戦で河北省から進攻した...
写真
山西省と河南省の省境に位置する三門峡ダムは、計画当時、世界第二位の規模を誇る超大型プロジェクトだった。治水と利水によって華北一帯を安寧・豊穣の大地に変え得ると...
2006年7月13日|
写真
華北戦線、1937年 背の高い薮のなかから前方を警戒する機関銃隊。射手が構えるのは握把の形状から、新型の口径7.7ミリ九二式重機関銃と思われる。銃身に保弾板が...
写真
山西省太原市。2000年。 旧城内、五一広場から東の路地に入ってすぐの場所に現存している。現在は山西師範大学が使用している。戦時中は日本軍に接収され、新庁舎が...
写真
山西省太原市。2000年。 太原の中心部にある児童公園は、戦前は新民公園と名付けられていた。埋め立てられた防空壕が残っている。戦争が終結すると、軍事施設のほと...
写真
北京郊外盧溝橋。1993年。 盧溝橋の空に浮かぶ暁の月は、その美しさから燕京八景に数えられた。石碑の揮毫は清朝の乾隆帝のものとされる。 ...
写真
北京郊外盧溝橋。1993年。 1937年(昭和12年)7月7日、北京に駐留していた日本軍は、条約に基づき、盧溝橋付近で夜間演習を実施した。その際に起きた発砲事...
写真
黒龍江省ハルビン郊外平房。1995年。 旧関東軍防疫給水部(七三一部隊)のボイラー跡とされる廃墟。 ...
写真
黒龍江省ハルビン郊外平房。1995年。 旧関東軍防疫給水部(七三一部隊)のボイラー跡とされる廃墟。 ...
写真
ハルビン市平房に残る旧関東軍防疫給水部(七三一部隊)の本庁舎。終戦から半世紀を経た1995年の時点でも、中学校の校舎として利用されていた。自国民への犯罪行為が...
2006年7月 8日|
写真
山西省太原近郊。1997年。 太原南東の高台に残る要塞跡。国共内戦における激戦地の牛駝塞にほど近い場所にある。周囲には塹壕や奄体も多数残っている。連絡壕が掘ら...
写真
東京九段の靖国神社にて。2006年春。 ...
写真
河本供述書を中心に収録した『河本大作与日軍山西「残留」』の巻頭に掲載されている写真。「押院時(収監中)」のキャプションがある。印刷や紙質が粗末なので見づらいが...
写真
戦前の中国市場向けのもので、漢語で書かれている。 「仁丹」は、創業者である森下博が日清戦争で台湾に出兵した際に、台湾兵が常用していた丸薬を知り、それをヒントに...
写真
頭山満の愛弟子。国士舘大学卒業後、特務機関員として中国に渡り、招集後は晋南の第三十七師団、第五独立警備隊に勤務。一環して情報畑に生きた。 終戦直後より山西残留...
写真
九七式曲射歩兵砲に使われた。九七迫の原型は優秀な仏ストーク・ブラン式迫撃砲で、日本以外にも米国と中国などでパテントが買われてライセンス生産がなされた。日華事変...
写真
山西省平定県七亘村。1997年。 太行山脈の山深い山村に建つ。碑文は、当時第百二十九師の副師長を務めた徐向前の筆。規模こそ小さいが、北の"平型関"と同じく、中...
写真
太原攻略戦における日本軍のラクダ隊(1937年) ラクダは軍用動物として優秀で、積載量・耐久力ともに馬を凌駕した。日本陸軍がラクダを軍用動物として認識したのは...
写真
太原解放記念館の正門。1994年。 1948年(昭和24年)10月、太原城の東の高台に位置する牛駝塞において、国府軍と中共軍との間で一ヶ月間にわたり激戦が繰り...
2006年6月29日|
コラム
残留問題
この厚生省の報告書には重要な論点が欠落している。第一に、特務団の編成は、第一軍による正規の作戦命令によっていたこと、第二に、現地除隊の趣旨が将兵に徹底していなかったことである。この二つの論点は、第一軍首脳部という公務員の関与の有無によって、国家責任を問われるべきか否かに直結する。
2006年6月14日|
コラム
社会
太原陥落後に警備を担当した山岡兵団は、兵要地誌を元原稿にした地誌を出版したほか、現地の博物館を保護し、再開後はパンフレットまで発行している。陸軍の名で博物館のパンフレットを出したのは旧軍史上他に例がないのではないか。
2006年5月19日|
フリートーク
保守派のオピニオン誌『正論』が六月号において"スクープ"と称して報じた「"遺棄化学兵器"は中国に引き渡されていた」という記事。すでに国会議員が国政の場でこの記事を取り上げるなど、話題を呼んでいる。ところがその論証は全くもってお粗末な限りで誤報並みの勇み足と言って良い。
2006年5月 5日|
コラム
戦争
中共や左翼が主張する「無人区」とは、日本軍が特定地域の住民を迫害・虐殺して"無人化"を図った蛮行とされている。しかし実情は、対敵経済封鎖の一環として行われた移住策で、住民を迫害するために行ったものではない。ただ、追われる住民にとっては悲劇だったと言える。
2006年4月12日|
コラム
こぼれ話
曹石堂さんにお会いしたのは、私が最後に山西省を訪れた2001年夏のことだから、もう五年も前になる。山西大学で日本語教師を定年退職された曹さんは、大学内にある官舎...
2006年4月 2日|
書評
「直筆ノートの発見」という宣伝文句はインパクトがあるが、それに内容が噛み合っていない印象を受けた。確かに本書が提示する米軍側の二重構造や石井四郎の小市民的素顔は...
2006年3月19日|
コラム
人物
"軍師将軍"とも言える立場で、閻錫山の「股肱の臣」として活躍した趙戴文。晩年は中共シンパとなり、閻の信頼を失って、病没するまで軟禁状態に置かれた。
2006年2月23日|
コラム
事件
日本軍の武漢への侵攻を恐れた中国軍は、1938年(昭和13年)6月、河南省の花園口で黄河を決壊させた。決壊によって流れ出た水は、河南省はおろか遠く安徽省まで冠水させた。蒋介石は自伝で犠牲者がほとんどなかったと弁明するが白々しい。犠牲者は十万人以上出たと考えるのが妥当だろう。
2006年2月 8日|
フリートーク
むかし同居していた母方の今は亡き祖父から戦前の話を聞いた。戦後起こした土建屋も酒で潰した(本当は金融引き締めが原因)、と家族に言われる酒好きで、その時も晩酌のビ...
2006年1月21日|
書評
「中国近現代史を根底から覆す衝撃の話題作」と帯にあるが、書かれていることが事実ならば中国のみならず、日ソ米英も含めた国際政治史の書き換えが必要なほどのインパクト...
2006年1月 8日|
コラム
こぼれ話
終戦時、国民党は親日政府の政治家や官僚を中心に"漢奸"への裁判を行い、重罪とされた者は処刑された。ところがそれから四年後、新中国が成立すると、終戦時とは比較にな...
2005年12月25日|
コラム
人物
日本軍の生物戦研究のキーパーソンである石井四郎将軍は、七三一部隊を離任した際、短い間だが山西省の第一軍に勤務している。山西での勤務は、彼が陸軍内に組織を立ち上げて以来、生物戦研究から距離を置いた唯一の公職だった。
2005年12月21日|
書評
地道な取材を基にして書かれたレベルの高いルポタージュだ。煽情的なタイトルに似合わず、事実とそれを基にした批判が淡々と書き記されている。内容はもちろん、文章自体も...
2005年11月26日|
日華事変と山西省
国力を無視して南洋にも進出した日本の無謀な戦争は、1945年(昭和20年)8月、日本政府のポツダム宣言受諾による無条件降伏という形で終わりを迎えた。八年に及ぶ日...
2005年11月 1日|
コラム
こぼれ話
文革を評価した親中派の論客・安藤彦太郎は、自著『虹の墓標―私の日中関係史』の中で孫東元さんとの思い出を披露している。しかしその記述は、このホームページで紹介している事実と異なっている。
2005年9月28日|
コラム
政治
1940年(昭和15年)8月、山西省を中心に鉄道や炭坑に対する大規模同時多発テロが発生した。中共が誇る「百団大戦」だ。しかし実態はテロ・ゲリラ戦を超えるものではなかった。そして中共にとっては負け戦で戦略的にも失敗だったが、スタンスとしては日華事変を通して唯一の積極的なものだった。党内におけるパワーバランスが乱れたのだ。
2005年9月11日|
コラム
戦争
日華事変で日本軍は化学兵器を使い、守勢で装備不良の中国軍相手に大きな成果をあげた。日本軍はガスの使用を厳格に管理し、最初は催涙性のみどり剤のみを許可し、ついでくしゃみ性のあか剤、一部で糜爛性のきい剤も使用された。そしてあか剤、きい剤の解禁は、いずれも山西省における実験使用が最初だった。山西省は、中国戦線における化学兵器の実験場の役割を果たしたようだ。
2005年8月25日|
コラム
社会
戦前は国府と日本、戦後は中共政府と、為政者は変わっても共通して黄河治水の要とされてきたプロジェクトがある。三門峡におけるダム建設だ。この壮大なプロジェクトは、終戦でデスクプランとして終わった日本の計画を上回る規模で、戦後に中共政府によって実行に移された。ところが堰堤完成後わずか二年で大量の土砂が堆積し、完全な失敗に終わった。
2005年8月 9日|
コラム
人物
-
コラム
残留問題
満州某重大事件(張作霖暗殺)の首謀者として知られる河本大作は後半生を経済人として生きた。満州を追われた彼が再起の地として選んだのが山西だった。山西産業株式会社社長として栄華を得たが、同時に山西は彼が終焉を迎えた地となった。
2005年8月 7日|
書評
かつて日本でも、政策の失敗で農村を不況の波が襲い、娘を身売りするなどの悲惨な話が巷に溢れたことがある。昭和初期の出来事だったが、それから30年も後に、隣の中国で...
2005年7月24日|
コラム
社会
戦時中、乾燥した山西省の各地に水をたたえた水田が誕生した。日本人によって水田の開発と水稲の普及が試みられたのだ。
2005年7月14日|
コラム
こぼれ話
1941年(昭和16年)に河南省で前線部隊を慰問中に戦死した女性漫才師・花園愛子。漫才師で靖国にまつられたのは愛子だた一人だという。
2005年6月17日|
コラム
こぼれ話
元宮様の竹田恒徳氏は、若い頃第一軍の作戦参謀として山西省に赴任していた。戦後に中国政府の招待で旅行したおり、彼はお忍びで太原を訪問している。
2005年6月11日|
コラム
人物
閻錫山(1883年~1960年)は、日本に留学した知日派で、辛亥革命に呼応して挙兵。その後山西省を拠点に勢力を誇った軍閥の首領だ。モンロー主義で他勢力の侵入を許さずに内治に力を注ぎ、内陸の山西省を優秀省に育てた。
2005年6月 6日|
書評
良書だ。帯に書かれた「中国ルポの金字塔」という自画自賛の言葉も(褒めすぎではあるが)嫌みには感じられない内容だ。中国本にありがちな著者の思い入れや偏見の強いアピ...
2005年6月 3日|
書評
米国外交官が今から70年も前に書いた中国本、という触れ込みはキャッチコピーとしては強そうだが、中身は怪本の類といって言い過ぎではない。著者は福州副領事を最後に職...
2005年5月30日|
戦争体験談
孫東元さん
日華事変直前に官費留学生として九州医学専門学校(現在の久留米大学)に留学。三年間医学を学んだのち、1940年(昭和15年)春にいったん帰郷。太原市内の桐旭医科専門学校で講師を務める。
終戦直前に復学。終戦を久留米で迎える。翌年学位を取得して卒業。産科医として太原に帰郷した後は、医科学校で教壇に立ったのち、閻錫山の侍従医に。1949年(昭和24年)中共軍による太原陥落を市内で迎えた。その後「反動的」として長年迫害を受けた。
2005年5月22日|
コラム
社会
現在も太原市内で国営の紡績工場として操業している山西針績廠は、戦前に設立された民間の紡績工場が母体となっている。
2005年5月21日|
フリートーク
自他共に認める歴史好きの人でも、一次史料にまで手を伸ばすのには遠慮する人も多いようだ。実際に史料を収蔵している場所では平日利用が原則なので、私のように本業(サラ...
2005年5月12日|
コラム
戦争
戦争を知らない世代は第二次大戦でも大砲を馬が牽いていたと聞いて意外に感じるが、中国戦線では馬だけでなくラクダ(駱駝)も使われていた。
2005年5月 8日|
フリートーク
戦争は悲惨だ。特に非武装の一般市民の犠牲は痛ましい。中国戦線では多くの一般市民が犠牲になったと言われる。元日本兵でも殺人や暴行を行ったという加害体験を告白する人...
2005年5月 5日|
コラム
戦争
日華事変の勃発で満州から山西に派遣された独立混成第一旅団(酒井旅団)は国軍初の機械化部隊だった。中国戦線に派兵された日本戦車隊は総じて「鉄牛奮戦」と賞賛されている。ところが山西の地では、賞賛どころか現地で悪評が噴出したという。戦車の用兵を誤ったからだ。
2005年4月29日|
コラム
戦争
1937(昭和12)年の山西戦場における勝敗を決めたのが忻口と娘子関での戦争だ。両地で太原攻略を目指す日本軍とこれを阻もうとする中国軍との間で激戦が繰り広げられた。
2005年4月28日|
フリートーク
私の手元に4枚のセピア色の写真がある。戦時中に内モンゴル(内蒙)で撮影されたらしいその写真は気味の悪いものだ。その写真は広漠たる草原を背景に、処刑されたのか、首...
2005年4月18日|
フリートーク
中国で反日デモが頻発している。在留邦人が怪我をし、北京、上海、瀋陽では外交公館に危害が加えられた。中国は日本の謝罪と賠償要求を拒否し、責任は"過去の歴史を反省し...
2005年4月16日|
フリートーク
中国山西省に古来から伝わる武術を日本で教えているクラブ(心意倶楽部)があり、そこのホームページで興味深いことが書かれていた。戴氏心意拳というその武術は、山西省の...
2005年3月25日|
コラム
社会
山西省北部の街・大同にある雲崗石窟は、信仰や宗派を問わず訪れた人すべてを感嘆させる素晴らしい遺跡だ。この雲崗石窟は戦前の日本人と深い馴染みがあった。
2005年3月21日|
書評
著者である別宮氏には、本書の他にも日露戦争を題材にしたものがある。この本を読んだ人は思うだろうが、あの"通説"が実は正しくなかったとすると、では何を基準に本を選...
2005年3月12日|
コラム
戦争
日華事変初期の山西作戦は成り行きで決まった作戦だった。関東軍と板垣兵団の独断専行に引きずられたが、武藤ら参謀本部の関東軍シンパも関与していた。
2005年3月 9日|
コラム
人物
戦争体験談で紹介している李献瑞さんの父である李成林(李樹森)将軍は、愛国者ゆえ、政治の世界では不遇の人生を送った。しかし国府、中共ともにその偉勲を認めている。
フリートーク
警察庁と法務省の統計によると、中国人は在留外国人の24.1%、不法残留外国人の15.3%しかいないのに、道交法や入管法違反などの特殊犯を除く外国人刑法犯の50....
2005年2月26日|
戦争体験談
王亮さん
1943年(昭和18)冬、中共党員としてゲリラ活動中に兄と仲間四人とともに日本軍に発見され、左肩を撃たれて全治一ヶ月の重傷を負った。女性一人は左腕を撃たれ、兄は銃剣で刺された。
戦争体験談
王亮さん
同年11月、村に討伐に来た日本兵に村民二人とともに至近距離から撃たれた。全治四ヶ月の重傷。残り二人は喉と頭部を撃たれて亡くなった。
戦争体験談
王亮さん
1940年(昭和15)2月、沁源県の自宅で長兄の結婚式を行っていた日に、親戚女性三人が日本兵に乱暴され、王さん自身は兄弟とともに約二週間の使役に狩り出された。
2005年2月24日|
フリートーク
中学生の頃、京都嵐山にあった軍事博物館を参観したことがある。柳の葉がそよ風に揺れる風流な初夏の町並みのなかに、その博物館は高い木々に囲まれてひっそりとあった。古...
2005年2月19日|
コラム
こぼれ話
新しい支配層として日本人がやってきたとき、生きるために、より良い生活を得るために日本語を一生懸命勉強した人たちは、その後の人生を完全に破壊されてしまった。
コラム
こぼれ話
ホームページを見たというNさんからメールが来たのは9月のことだ。山西省で戦死したという叔父の詳細が知りたいという。Nさんは家系図を整理している際に、N叔父の墓標...
コラム
こぼれ話
戦争体験談で紹介している李樹徳さんは、戦前から中共に入党した功績のある者のはずだった。しかし戦後、彼の働きは忘れ去られた。彼の名誉回復がなされたのは1987年だ。
コラム
社会
太原郊外に誘致された華北窒素は、日窒が技術の粋を集めた巨大プロジェクトだった。完成すれば中国最大の化学プラントになると言われたが、その夢も終戦とともに潰えた。
コラム
戦争
七七事件発生時、私は湖北省政府主席の任にあった。8月、蒋介石は南京で開催した会議において、軍事委員会の下に六つの部署設置を決定した...
コラム
人物
閻錫山の忠臣として太原陥落の殿(しんがり)を務めた王靖国は、非転向を貫いて五十九歳で獄死した。
コラム
政治
1936年(昭和11年)の中共による山西侵入と全国的な国共合作の機運のなかで、山西省でもいよいよ「容共」への圧力が高まった。犠盟会の設立で妥協した閻錫山は、日華事変で思わぬしっぺ返しをくらう。
コラム
政治
同胞たちよ、九・一八以来、我が国は八百余万平方里もの土地を失った。喪失した土地は、あろうことか十七個分の山西もしくは十八個分の山東、安徽なら十九、福建なら二十三...
コラム
戦争
戦争体験談で李樹徳さんが参加した黒龍関の戦闘では、日本軍が催涙ガスを使用した。S13吉県作戦に参加した第百八師団では、事前にガス教育が行われていた。
コラム
事件
寧武で日本軍が四千人以上に上る住民と避難民を殺害したとされる寧武虐殺。しかしその主張を裏付けるものはない。敗残兵による掠奪や暴行、それに入城後に警備を担当した日本軍による便衣狩りが合わさって話が膨らんだのではないか。
コラム
戦争
「七亘大捷」は平型関につぐ中共軍の勝利とされる。しかし実情は平型関と同じく、非武装に近い補給部隊への奇襲攻撃で、その戦功もあまり大きなものではない。
戦争体験談
馮炳梅さん
1938(昭和13)年の初春、日本軍に接収された紡績工場に女子養成工として入所。終戦までの七年間、「女工哀史」を彷彿とさせる苦しい労働環境のなか勤務した。
戦争体験談
劉展さん
中学校在学中に犠牲救国同盟の活動に参加した。1938(昭和13)年3月、故郷の村に日本軍が来たが、村の老人一人が亡くなり、村は焼かれた。
のち、中共に入党すると、閻錫山軍に地下工作員として潜入した。終戦時には山西軍太原工作隊としていち早く太原に入城した。
戦争体験談
李庭章さん
1940(昭和15)年、十七歳のときに犠牲救国同盟に参加し、のち中共に。代県での活動中、日本軍に攻撃され逮捕される。その際、同行中の恩人が亡くなった。捕虜として連行される途中に隙をみて脱走に成功した。
戦争体験談
徐一貫さん
1943(昭和18)年秋、沁水県で中共党員として活動中に日本軍の攻撃を受けた。銃剣で負傷し逮捕される。その際、少女一人を含む村人と党員の計五人が亡くなった。捕虜として移送中に集団で脱走に成功した。のち、遊撃隊を指揮してゲリラ戦を戦った。
戦争体験談
李樹徳さん
李樹徳さんは中陽県で中共党員としての偽装暴動後に日本軍に捕まり、太原にある第一軍の捕虜収容所「工程隊」に収監された。この際、李さんは同じく捕虜として工程隊に収...
戦争体験談
李樹徳さん
1939(昭和14)年冬、臨汾市郊外で起きた黒龍関の戦闘で小隊を率いて参加した。中共入党後、 「晋西事件」では中陽県で偽装暴動を企画、中共根拠地へと向かう途中に日本軍に捕まり、太原の捕虜収容所「工程隊」に収容された。
釈放後は中共党員としての身分を隠して親日政府の軍司令部に参謀将校として所属、終戦後は閻錫山軍に参加した。
戦争体験談
李夜冰さん
李さんの故郷、石門村は日華事変前に共産党支配下に入った「老解放村」。日華事変以降は敵性地区内の中共拠点として日本軍の討伐を受け、その度に村から避難した。 19...
戦争体験談
李夜冰さん
李さんの故郷、石門村は日華事変前に共産党支配下に入った「老解放村」。日華事変以降は敵性地区内の中共拠点として日本軍の討伐を受け、その度に村から避難した。
1942(昭和17)年より中共の抗日学校に入校。日本軍の討伐を避けて移動を続ける学校生活のなか画を学ぶ。勉強のかたわら、農作業や地雷製作なども行った。同学も数名、命を落とした。
戦争体験談
李献瑞さん
祖父と父ともに辛亥革命に参加した政府高官の家に生まれる。日華事変が勃発すると、太原から介休県、隰県、大寧県へと疎開。同年秋に日本軍が寧武を占領した際には祖父母...
戦争体験談
李献瑞さん
祖父と父ともに辛亥革命に参加した政府高官の家に生まれる。日華事変が勃発すると、太原から介休県、隰県、大寧県へと疎開。同年秋に日本軍が寧武を占領した際には祖父母...
戦争体験談
李献瑞さん
祖父と父ともに辛亥革命に参加した政府高官の家に生まれる。日華事変が勃発すると、太原から介休県、隰県、大寧県へと疎開。同年秋に日本軍が寧武を占領した際には祖父母が亡くなる悲劇にみまわれた。
1938(昭和13)年秋、父が要職を退くと一家で疎開先から太原に帰郷するが、自宅は傀儡政府に接収されていた。中学校卒業後に太原日語専科学校で日本語を学び、のち終戦まで、日本資本の華北窒素肥料股イ分有限公司に勤務した。
日華事変と山西省
太原陥落二ヶ月後の1938年(昭和13年)1月、日本軍は山西省中南部への進攻を開始、山西省、河北省、河南省からの北、東、南の三手で中国軍を挟撃した。2月には臨汾...
日華事変と山西省
1937年(昭和12年)7月7日、北平(北京)郊外廬溝橋で、日中両軍の間で武力衝突事件が発生した。現地では停戦協定が成立したが、圧倒的な軍事力を背景に自信を持っ...
日華事変と山西省
1924年(大正13年)、国民政府では第一次国共合作が成立、翌年に孫文が死去すると、国民政府内部での勢力争いが顕在化してくる。翌1926年(昭和元年)、蒋介石が...
日華事変と山西省
明治維新以降「富国強兵」につとめ、日清・日露戦争を勝利してアジアの強国に成長した日本は朝鮮半島を手に収め、中国にも権益を得て、否応なく大陸と関係を深めていく。こ...
日華事変と山西省
山西省は中華民族発祥地のひとつ。襄汾丁村人遺跡と陽高許家窟で発見された古代人の人骨は、それぞれ旧石器時代中期十万年前までさかのぼる。この時期、すでに汾河両岸と雁...
日華事変と山西省
山西省は、中国内陸部に広がる黄土高原に位置する内陸省。北は万里の長城に沿って内蒙古自治区、東は太行山脈をはさんで河北省、西と南は黄河に沿って陜西省、河南省と接し...
|