祖父と父ともに辛亥革命に参加した政府高官の家に生まれる。日華事変が勃発すると、太原から介休県、隰県、大寧県へと疎開。同年秋に日本軍が寧武を占領した際には祖父母が亡くなる悲劇にみまわれた。
1938(昭和13)年秋、父が要職を退くと一家で疎開先から太原に帰郷するが、自宅は傀儡政府に接収されていた。中学校卒業後に太原日語専科学校で日本語を学び、のち終戦まで、日本資本の華北窒素肥料股イ分有限公司に勤務した。
李さんの故郷、石門村は日華事変前に共産党支配下に入った「老解放村」。日華事変以降は敵性地区内の中共拠点として日本軍の討伐を受け、その度に村から避難した。
1942(昭和17)年より中共の抗日学校に入校。日本軍の討伐を避けて移動を続ける学校生活のなか画を学ぶ。勉強のかたわら、農作業や地雷製作なども行った。同学も数名、命を落とした。


1940年(昭和15)2月、沁源県の自宅で長兄の結婚式を行っていた日に、親戚女性三人が日本兵に乱暴され、王さん自身は兄弟とともに約二週間の使役に狩り出された。
同年11月、村に討伐に来た日本兵に村民二人とともに至近距離から撃たれた。全治四ヶ月の重傷。残り二人は喉と頭部を撃たれて亡くなった。
1943年(昭和18)冬、中共党員としてゲリラ活動中に兄と仲間四人とともに日本軍に発見され、左肩を撃たれて全治一ヶ月の重傷を負った。女性一人は左腕を撃たれ、兄は銃剣で刺された。
1939(昭和14)年冬、臨汾市郊外で起きた黒龍関の戦闘で小隊を率いて参加した。中共入党後、 「晋西事件」では中陽県で偽装暴動を企画、中共根拠地へと向かう途中に日本軍に捕まり、太原の捕虜収容所「工程隊」に収容された。
釈放後は中共党員としての身分を隠して親日政府の軍司令部に参謀将校として所属、終戦後は閻錫山軍に参加した。


中学校在学中に犠牲救国同盟の活動に参加した。1938(昭和13)年3月、故郷の村に日本軍が来たが、村の老人一人が亡くなり、村は焼かれた。
のち、中共に入党すると、閻錫山軍に地下工作員として潜入した。終戦時には山西軍太原工作隊としていち早く太原に入城した。
1940(昭和15)年、十七歳のときに犠牲救国同盟に参加し、のち中共に。代県での活動中、日本軍に攻撃され逮捕される。その際、同行中の恩人が亡くなった。捕虜として連行される途中に隙をみて脱走に成功した。


1938(昭和13)年の初春、日本軍に接収された紡績工場に女子養成工として入所。終戦までの七年間、「女工哀史」を彷彿とさせる苦しい労働環境のなか勤務した。
日華事変直前に官費留学生として九州医学専門学校(現在の久留米大学)に留学。三年間医学を学んだのち、1940年(昭和15年)春にいったん帰郷。太原市内の桐旭医科専門学校で講師を務める。
終戦直前に復学。終戦を久留米で迎える。翌年学位を取得して卒業。産科医として太原に帰郷した後は、医科学校で教壇に立ったのち、閻錫山の侍従医に。1949年(昭和24年)中共軍による太原陥落を市内で迎えた。その後「反動的」として長年迫害を受けた。


戦争末期の1944年(昭和19年)11月、徴兵により岡山第四十八部隊に入営。すぐに山西省中部に駐留の元泉旅団(独立歩兵第十四旅団)に配属された。初年兵教育終了後、老河口作戦に参加。終戦で残留部隊に編入され、二年間、山西省で国共内戦を戦った。1947年(昭和22年)11月に帰国。現在、岡山県に在住。
右翼の大物・頭山満の愛弟子。大学卒業後に軍属として中支の特務機関に三年間勤務、1941年(昭和16年)の徴兵後は山西省に赴任。第三十七師団、第五独立警備隊に勤務。終戦後は、民間側での残留運動の首謀者として活動。暫編独立第十総隊第三団長、上海出張処長等を歴任。山西軍上校。1949年(昭和24年)の太原陥落で中共軍に逮捕された。有罪判決を受け服役。1963年に帰国。戦後は中帰連の活動に力を注いだ。2002年に逝去された。


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