事件

歴史の闇に埋もれた陽高事件

陽高事件は、戦史研究者の秦郁彦氏が1987年に雑誌上で東條英機の戦争責任について論じたのをきっかけに知られるようになった(当該記事はのちに文藝春秋社より刊行された『現代史の争点』に収録されている)。陽高事件とは、1937年(昭和12年)9月、関東軍の察哈爾派遣兵団(兵団長は東條英機中将、以下、東條兵団)が山西省北部の町・陽高を占領した際に、非戦闘員を含む数百人を虐殺したとされる事件だ。国民政府も終戦直後に戦犯訴追のための調査を行ったが、東京裁判やBC級戦犯裁判でも訴追されることなく、歴史の闇に埋もれてしまうこととなった。

察哈爾作戦における東條英機兵団長(中央) (毎日新聞社,1937年)

察哈爾作戦における東條英機兵団長(中央) (毎日新聞社,1937年)

陽高事件と呼ばれるこの虐殺事件について、日中双方が述べる様相は大まかに一致している。戦後調査にあたった中共陽高県委党史研究室によれば、日本軍が陽高を占領した9月8日から翌9日にかけて、老幼問わず城内の男性500~600人が捕縛され、機銃掃射により殺害されたとしている。日本側の証言としては、まずは1963年に出版された畠山清行著『東京兵団Ⅰ』が挙げられる。本多旅団(混成第二旅団)に所属して陽高攻略にあたった歩兵第三連隊の湯浅連隊長の証言を紹介するかたちで、残敵掃蕩に名をかりた「男狩り」がされたとしている。男日照りとなった陽高では、その後、外省から男性を呼び入れて未亡人と集団結婚をさせた、という悲惨さだ。また、当時第四師団から動員され、湯浅部隊と同じ本多旅団に配属された野砲兵第四連隊の戦友会誌『野砲兵第四連隊並びに関連諸部隊史』も、事件について一章を割いて論じている。中国側の主張だけでなく、陽高攻略にあたった日本側関係者が認めているわけで、虐殺事件が起きたことは間違いない。

しかし、具体的な事件の経緯についてはよく分からない。というよりも、誰が虐殺を命令実行したのか、その犯人について、日本側の関係者の間では異なった主張がなされている。畠山本では、北から入城したという篠原旅団(混成第十五旅団)を実行犯として推測しているが、野四史では湯浅部隊であるとしている。そもそも野四史のように、戦友会として自らこのような不祥事を明らかにするのは珍しい。それもそのはず、野四史が陽高事件について論及したのは、事件について無関係であるにもかかわらず、終戦時に関係者が戦犯容疑で国府に拘引され迷惑千万だったからだ。野四史によれば、公文書である戦闘詳報がねつ造されていたというから話は穏やかではない。

秦氏の論もそうだが、この陽高事件は頑強な敵の抵抗によって多数の死傷者が発生したことで激高した現地部隊が敵がい心のあまり実行したものとしている。この点、本多旅団に所属する歩兵第一連隊が作成した陣中日誌「察哈爾作戦日誌」(複製)では、陽高攻略部隊は湯浅部隊とされている。9月13日付の電報(関参電第287号)では、10日までの間に判明した東條兵団による陽高攻略の死傷者数を「本多旅団戦死27(内将校1)、戦傷86(内将校5)」として、それ以外の篠原旅団などの損害は(ゼロとして)記載していない。ゆえに、死傷多数で激高云々が正しければ、それは陽高攻略を担った湯浅部隊にしか通用しない。

9月13日付の関参電第287号(アジア歴史資料センター Ref:C04012568700)

9月13日付の関参電第287号(アジア歴史資料センター Ref:C04012568700)。陽高攻略の死傷者数の報告が本多旅団についてのみ報告されていることは、篠原旅団は戦闘に参加していないことを意味する。この点で、畠山本や秦氏、それに『戦史叢書』が篠原旅団の参戦を記載しているのは誤りとなる。いずれも当時の戦闘詳報をもとに戦史を記述したはずで、野四史の史料ねつ造の主張は正しいことを傍証している。

前述の電報による死傷者数をみれば、湯浅部隊の陽高攻略はそれなりの戦だったことが分かる。野四史では、湯浅部隊は暗闇の中で梯子を城壁にかけて突入し、城内では「真くらやみで何が何やら敵味方共にわからず手榴弾の投げ合ひ」をやる混戦のなか、城門を開いて部隊主力が入城したという。野四史が大砲を「一発も射撃していない」としていることが正しければ、陽高戦は砲撃による城壁の破壊・突入路の確保といった通常の手順とは異なり、強引な攻撃方法だったようだ。湯浅部隊は陽高以降も激戦を繰り返していくが、これが二二六事件の粛軍のために損な役回りばかりさせられた、ということは良く指摘される。

ただ、激戦の後に非武装の捕虜や敗残兵、場合によっては便衣兵と誤認された住民を激高した現地部隊が殺害するという論法は、南京事件の論争でも良く持ち出される言い訳だが、軍規でがんじがらめにされていた兵士にとって、逆襲される恐れのある無益な大量殺戮を自らの意志だけで実行できるかは疑問である。単に殺害するだけでなく、遺体の処理には費用(公金)もかかる。しかも現地は蒙彊の新秩序をこれから樹立しようとしている地だ。現地部隊の暴走云々で片づけられるほど、問題は単純とは思えない。ようするに、上級司令部の関与が疑われるわけだ。

このことを示唆するのが、兵団長だった東條英機が首相時代に語ったとされる回想話だ。秦氏が指摘するように、東條は1943年(昭和18年)2月3日の夕食時の閑談で秘書官に対し、察哈爾作戦において「不穏な支那人等は全部首をはねた」と述懐したとされている。秦氏はこのエピソードを取り上げ、東條は事件の存在を認識している以上、少なくとも監督責任は逃れ得ないとする。しかしそれだけではあるまい。

当時、東條兵団と作戦行動を共にしていた蒙古軍司令の李守信将軍は戦後の自述で、察哈爾作戦では各地で捕虜虐殺が頻発していたことを証言をしている。また、このホームページでも紹介しているように、寧武でも陽高とそっくりの「男狩り」が起きたようである(→「寧武県城で起きたとされる虐殺事件」参照)。さらに徳化特務機関に在職した葛西は、陽高の前に攻略された万全県でも住民殺戮が起きたと回想している(内蒙古アパカ会編『特務機関』)。中国側の主張によれば、万全、天鎮、陽高、朔県、寧武など、東條兵団の進撃路で虐殺事件は頻発している。そして、陽高を含めてこれらチャハルにおける虐殺事件が不祥事であれば関係者の処罰が行われたはずだが、その形跡は見られない。

この点に関連して興味深いエピソードがある。それは、万全での住民殺戮を記した葛西が披露する東條についての噂話である。無辜の民を殺害?したとされる兵士を、東條が「泣いて馬蜀を斬る」として死刑に処したというのだ。すなわち、東條兵団は軍紀厳正だったというのである。『徳王自伝』を翻訳した森久男氏は「本多兵団は張家口に入城したが、三日間の無礼講が許された」としているが、中国側の調査でもこの時期に張家口において不祥事は起きていない。やはり軍紀厳正だったわけで、一連の虐殺は無法ではなく、作戦行動だったことになる。そもそも東條は前職が関東軍憲兵司令官だ。その東條が兵団では中隊レベルの運用・指揮にまで指示を出したと言われている。軍紀厳正で口やかましい指揮を行った東條が、後に「不穏な支那人等は全部首をはねた」と述懐しているのである。ようするに、「捕虜は取らぬ方針」というような命令を下し、持ち前の執拗さで隷下部隊に徹底させたのではあるまいか。

そもそも察哈爾作戦の目的は、乱暴な言い方をすれば、漢人に入植されたチャハルに山西を付けて蒙古人に明け渡そうというものだった。そして作戦は進撃に次ぐ進撃で兵站線が確保されず、各隊では慢性的な物資不足に悩まされたという。参加将兵が、一ヶ月もの間、飯を腹いっぱいに食べる機会がなかったと回想している例があるように、捕虜に支給する糧食はなく、警備に割く余剰人員もなかった。作戦自体が中央を無視して独断で行われたも同然であり、関東軍自体が早晩満州に引き揚げなくてはならなかった。その上で、作戦が行われた土地は、事変勃発時、中国全土で最も抗戦意欲の高い土地柄だった。陽高事件を記した畠山本でも、万全での殺戮を記した葛西も、共に軍民一体となって日本軍を攻撃したことが事件の要因となったと述べている。このような条件がそろえば、一罰百戒的に”不穏な支那人(漢人)”を減らそう、という安易な考えにとらわれても不思議ではない。

そして、中国側の調査報告によれば、チャハルで起きた虐殺事件の多くは第一線部隊の攻略数日後に入城してきた警備隊によって引き起こされている。ところが、陽高の場合は攻略翌朝に事件が起きており、第一線部隊による虐殺だったことは間違いない。しかも、チャハルで頻発していた虐殺事件について、唯一、陽高についてのみ当事者(しかも部隊長)の証言があることは重く見なければならない。ようするに、湯浅部隊の将兵は勇敢に戦った挙げ句、兵団司令部の命令で住民虐殺という汚れ仕事をさせられたのである。しかも、それは、兵団司令部→本多旅団長→湯浅連隊長→各中隊長という正規の命令系統によらないものだったのではないか。湯浅連隊長は全てを知っていたはずで、事件そのものについては明らかにしたが、(実行部隊を含めた)真相については口を閉ざした。部下を想ってのことだろう。

冒頭で触れたように、東京裁判やBC級戦犯裁判で陽高事件が訴追されることはなかった。陽高以外で起きた他の虐殺事件も同様である。民間人のゲリラ活動や敗残兵の平服への便衣は国際法上保護されず、処刑はグレーゾーンではあるが、それでも当時、復仇に血道を挙げていた国府が見逃すはずがなく、チャハルで起きたすべての虐殺事件が立件できなかったというのはあまりにも不自然である。その上で、畠山本と野四史によれば、終戦時、国府は湯浅部隊と野四の責任者を戦犯嫌疑で拘束して取り調べを行ったが、本多旅団長の上申書で拘引がすんなり解かれたという。そもそも本多旅団長に対して戦犯嫌疑がかけられなかった点を考えれば、やはり虐殺は正規の命令系統によらずに、兵団司令部が現場に対して命じたとしか考えられない。そして、最終的に訴追がなされなかったのは、秦氏が指摘するように、唯一と言って良い東京裁判の検察側証人だった田中隆吉が参謀として東條兵団に勤務していたことが関係していると思われる。

秦郁彦「東条英機の戦争責任」(『諸君』1987年8月号)
畠山清行『東京兵団Ⅰ』光風社,1963年
『野砲兵第四聯隊並びに関連諸部隊史』信太山砲四会,1982年
伊藤隆ほか編『東條内閣総理大臣機密記録』東京大学出版会,1990年
李乗新ほか主編『侵華日軍暴行総録』河北人民出版社,1995年
内蒙古アパカ会・岡村秀太郎共編『特務機関』国書刊行会,1990年

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000130.html