日華事変と山西省

戦後の国共内戦と日本人義勇軍の山西残留

国力を無視して南洋にも進出した日本の無謀な戦争は、1945年(昭和20年)8月、日本政府のポツダム宣言受諾による無条件降伏という形で終わりを迎えた。八年に及ぶ日中間の戦いもここに幕を閉じた。現地日本軍は武装解除され、日本に帰還することとなった。しかし、支配の基盤が大きく脅かされていた閻錫山は、中共との内戦の本格化を視野に入れ、現地日本軍の山西残留を現地軍首脳と画策する。その結果、当初は一万人近い邦人が山西省に残留、二千六百人に及ぶ日本人義勇軍が組織され、その後四年間の熾烈な国共内戦に参加する前代未聞の事態が生じた。

しかし戦局利あらず、1949年(昭和23年)年後半には、山西省は全土で中共軍に制圧される様相を呈してきた。省都太原では中共軍の包囲によって補給が途絶、城内では食糧難で人肉食も生じる事態となった。そして翌年の1949年(昭和24年)4月、太原は陥落した。閻錫山は直前に航空機で脱出、最後まで降伏せずに籠城した閻軍将兵と残留日本人が取り残された。残留将兵らは抑留され、多くは戦犯として獄につながれた。

太原陥落で中共軍に捕らわれた山西軍首脳

太原陥落で中共軍に捕らわれた山西軍首脳

中共軍の捕虜となった日本人義勇兵たち

中共軍の捕虜となった日本人義勇兵たち

戦場となった太原東方には未だに要塞や塹壕跡が残っている(1994年)

戦場となった太原東方には未だに要塞や塹壕跡が残っている(1994年)

激戦地となった牛駄塞に造園された戦没者墓苑(1994年)

激戦地となった牛駄塞に造園された戦没者墓苑(1994年)

初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000164.html