日本軍の討伐
王さんが長兄の結婚式の日に使役に連行されてから一年近く経った1940年(昭和15年)の11月末、日本軍が王さんの村から約2キロ東にある好村に来たとの知らせが入った。この時期、中共軍の「百団大戦」(*1)で悪化した治安を回復するために、日本軍は大規模な討伐作戦を行っており(*2)、住民の受ける被害も増えていたから、日本軍の接近に村民一同緊張した。しかし、すぐ夜になるために日本軍は好村(*3)で宿営するらしく、とりあえず様子を見ることになった。
次の日の朝、王さんは夜が明ける前に起きて、五兄の王昭さん(当時15歳)とともに村を出た。また使役に連行されてはかなわないので、日本軍を避けるため、まだ暗いうちに山のなかへ避難した。山のなかを歩いてしばらくすると陽があがってきて、夜も徐々にあけていく。山の麓に着ついたときには、朝もやを通して村が一望できた。
(*1)「百団大戦」は日華事変を通じて軍事面で中共が唯一とった積極策だった。インフラへのテロを主体とし、日本側に大きな被害が生じた。詳しくは、こちらのコラム「百団大戦」の政治背景を参照。
(*2)復員局編「北支那方面軍作戦記録」によれば、この時期に王さんの暢村付近で作戦を実施していた部隊として最も可能性の高いのは、10月19日開始の第二期晋中作戦の第二次作戦に参加した、第四十一師団所属の歩兵大隊。この大隊が、呂梁山への使役の際の北平鎮駐屯部隊(白方大隊)と同一かは分からない。前掲書では「…第四十一師団ノ歩兵一大隊ハ洪洞東方地区ヨリ 夫々沁源及郭道鎭(沁源北方約二〇粁)附近二向ヒ求心的二攻撃前進セシカ 大ナル敵ト遭遇スルコトナク 沁河一帯ノ共産軍根拠地ヲ覆滅セリ 次テ各部隊ハ反転シ 一二月三日作戦ヲ終了セリ…」とあるから、この大隊所属の部隊が王さんの村に来たのなら、駐屯地に戻る途中に寄ったものと考えられる。
(*3)現在の行政区画では、王さんの村から東へ約二キロの場所に好村という村は確認できない。
火事?
山麓に着いて村を見おろすと、あさもやのなか、村から煙の上がっているのが見えた。村の住民はみな山のなかに避難しているから炊事の煙ではない。どこかの家が避難するときに火の始末を忘れて火事になったのかもしれない。村には年寄りと治安維持会の数人を残して誰もいなかったから火事なら大変だ。五兄は王さんを残して村へすっ飛んで帰っていった。後からこの火は、村に来た日本兵がつけたものと分かった。
五兄が山を降りていってしばらくすると、入れ替わるように日本軍が山のなかに入ってきた。王さんはあわててさらに山の奥へと逃げることにした。逃げる途中、同じ暢村に住んでいた雀書子さん(当時40歳)と王全管さん(当時19歳)のふたりの男性に出会った。ふたりとも日本軍が山に入ってきたために、山の奥へと逃れてきたのだった。王さんはふたりとともに更に奥へと進んでいった。しばらくすると、村に通じる谷を見下ろせる場所に洞窟があり、三人はそこに隠れることにした。
「花姑娘、花姑娘!」
洞窟のなかでしばらく待ち、日本軍の気配を窺っていると、全管さんがもう安全ではないかと言う。彼はさっき日本兵が女性を三人連れて谷をおりて行ったのを見たからだ。そこで三人は谷におりて道に出て、歩いて村に引き返すことにした。しかし、谷を降りて道にでてしばらく歩いていると、突然、王さんたち三人の前に数人の日本兵が現れた。逃げるまもなく王さんたちは捕まってしまった。
すると、そのうちの二人の日本兵が王さんたちに小銃を向けて、なにやら言っている。中国語で「花姑娘、花姑娘!」と言っているようだった(*4)。どうも王さんたちに女性のいるところまで案内させようと考えているらしい。
王さんたちは逃げてくる途中に女性には会わなかったので、女性が山のなかのどこに隠れているか知る由もなかったが、まごまごしていると撃たれるかもしれず、仕方なく三人は女性がいる場所に案内するかのように、もと来た道を引き返していった。王さんを先頭に雀さん、その次に全管さん、一番後ろに二人の日本兵が続くという順番で、山道をあがっていった。
(*4)「花姑娘」hua gu niang(フォア グーニャン)と発音する。本来、「姑娘」は一般に未婚の若い女性を指し、「花姑娘」は妓女を指す。日本兵は若い女性の意味で使った。
「ゴーシテヤル!ゴーシテヤル!」
なるべくゆっくり歩いて時間を稼ごうとする王さんたちに、彼らはしきりに小銃でこづきながらせき立てる。これから一体どうしたらよいか、一番先頭を歩く王さんは不安を募らせながらも、とにかく前に進んでいった。
しばらく坂を上がっていると、日本兵が王さんたち三人を呼び止めた。王さんは何だろうと歩みをとめて後ろを振り返った。すると、いきなり一人の日本兵が小銃を構えたかと思うと、全管さんの後頭部に向けて引き金を引いた。パンッという乾いた銃声が響いた瞬間、弾は全管さんの頭を貫通して彼の顔半分を吹っ飛ばした。さらに弾は、そのまま前にいた雀さんの首にあたった。一発の銃弾で、一瞬のうちにふたりがその場に崩れ落ちた。
びっくりして立ちすくむ王さんに日本兵が近づき、王さんを突き倒した。王さんは、ちょうど左足を折り曲げて、足が左腹の前にくる形で俯せに倒れた。すぐ後ろで日本兵が「ゴーシテヤル!ゴーシテヤル!(殺してやる!殺してやる!)」と言っている声が今でも耳に残っている(*5)。そしてその言葉が終わるか終わらないかのうちに銃声がした。その瞬間、右腹に激痛が走り、腹の内部が火傷したように熱くなった。
日本兵の撃った弾は、肝臓の上のあたりの右腹から入って王さんの身体を貫通し、左腹から抜けていた。さらにそのあと、左腹のあたりに曲げていた左の太股も貫通した。弾は倒れていた雀さんにあたった。たとえようもないほどの激痛で、弾の通った腹の内部が熱く、火傷をしたような感じがしたという。

左腹の銃創痕を見せる王亮さん。(山西省太原,1994年)
しかし幸いにも撃たれても意識ははっきりしていた。痛みに耐えながら何とか死んだふりをした。王さんを撃った日本兵は血を流して倒れている王さんを死んだものと思ったようだった。もう一人の日本兵が、この時点ではまだ生死は不明だった雀さんの身体を足でけっ飛ばして坂の下へ転がした。死んでるかどうか確かめたようだ。同時に何人かの村人が山のなかに隠れているらしく、女の人が泣いている声や茶碗の割れるような音が山からしてきた。日本兵は音のする方向へしばらく小銃を向けていたが、そのうち銃をおろすと、もう一人の日本兵に「オー、ダーゴグレ(おい、タバコくれ)」と言って一服しはじめた。二人の日本兵はタバコを一吸すると、何事もなかったかのようにもと来た山道をおりていった。
(*5)王さんは日本語を解さなかったが、その時の声はずっと耳に残っていて、のちにその意味を調べて分かったという。実際、王さんは「ゴーしてやる」「オー、ダーゴグレ」と口まねをしてくれた。
瀕死の帰宅
日本兵が去ったあとも、王さんはなおも死んだふりをしていた。どれくらい時間が経ったのだろうか。日本兵が戻ってきそうにないため、王さんは村へ戻ろうと、痛みをこらえて立ち上がった。腹にできた傷口を見ると、弾の出口が黒っぽく焦げたようになっていた。後ろをみると、すぐそばに全菅さんが倒れていた。顔の半分がなくなっていた。坂の下の方には、首を撃たれた雀さんが倒れているのが見えた。
王さんは、村に向かって山道を歩き始めた。両手でそれぞれ弾の入り口と出口を押さえながら、そろりそろりと歩き始めた。この時、腹の傷の余りの痛みのために、最初は左太股にも弾があたったことに気付かなかったという。
一キロぐらい歩いただろうか、ふっと左足を見ると、太もものあたりから出血していて、足が異様な太さに腫れてるのに気付いた。太ももなどは普段の二倍くらいの太さになっていた。このとき、はじめて弾が腹を貫通して左太股にあたったことに気付いた。すると、今まで何とか歩いて来たのに急に歩けなくなってしまった。

太股の銃創痕を見せる王さん。左腹の傷は消えかけているのに対し、太股の傷跡は今でも痛々しい。(山西省太原,1994年)
道の真ん中で歩けずにうずくまっていると、たまたま叔父の息子にあたる男性(当時30歳)が他の村人とともにやってきた。王さんの傷にびっくりした彼らは、急いで近くの民家に行き、そこの住人に断って戸板を外してきた。担架代わりにするためだ。彼らは重傷の王さんを急ごしらえの”担架”に乗せると、村へと急いだ。
戸板に乗せられて王さんが村へ帰ってきたとき、村はほとんどが焼かれていた。日本軍が敵性部落として村のすべての住居に火を放っていったという。王さんの家も焼け崩れたようだった。しかし幸いにもひとつだけ部屋が焼け残っていた。王さんはその部屋に運ばれた。
部屋に寝かされた王さんは、塩を溶かしたお湯で傷口を消毒したのち、自家製の漢方薬を傷口に塗ってもらった。冬の季節を迎えるためにとっておいた食料も奪われ、残りもすべて火をつけて焼かれてしまっていた。唯一残っていたのが、万が一のために土のなかに隠していたじゃがいもだった。王さんはそのじゃがいもを食べながら、漢方薬を塗って紙をはり、半日経つとはがして塩湯で洗ってからまた漢方薬を塗りなおす手当を受けた。漢方薬を塗り直すときに乾いた紙を剥がすときの激痛は今でも忘れられないという。最初の頃はあまりの痛さに夜も眠れず、阿片を服用して痛みを押さえたそうだ。
農作業のできない冬の季節に入ったばかりのこの時期に家を焼かれ、備蓄していた食料を焼かれたことは、王さん一家にとって(村のほかの住民にとっても)大きな悲劇だった。働き手のひとりである王さんも重傷で動けない。王さんの父は冬の間、行商を行うことにした。今まで農民一筋だった父のにわか仕込みの商いでは売れる量もたかが知れている。やくざ者の嫌がらせもある。それでもなんとか一家を養っていくためには物売りしかなかった。父は冬の間、遠く他県まで行商に行って、数週間帰らないこともしばしばだった。
足の傷は完治するのに四カ月ほどかかった。一方で、腹の傷は二カ月ほど経つと饅頭ぐらいの大きさの腫瘍ができ、ある日それがぽろっととれて傷が治ったという。(*6)
(*6)足と腹それぞれの銃創傷の完治する期間が二ヶ月近くも違ったのは、一度、身体の内部を貫通した弾が変形ないし破損した形で左太股に入ったために、内部の傷の度合いが腹よりもひどくなったものと思われる。実際、写真を見ても分かるように、未だ王さんの身体に残る傷跡は、左腹の部分はほとんど消えかけているのに対し、太股の方がよりひどい。のちに見るように、1943年(昭和18)冬に撃たれた時は、王さんの肩を貫通した弾が、後ろにいた女性(李改香さん)の腕に命中し、腕が付け根の部分から吹き飛んで切断されてしまったが、これも弾が変形したことによると考えられそうだ。
→Next // 王亮さん [3]
初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000016.html
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王亮先生(二)
土八路译自日本网络 http://shanxi.nekoyamada.com/
日军的讨伐
在王先生长兄结婚那天,他被日军带走使役,之后又过了近一年,那是在1940年(昭和15年)11月末,他得到了这样的消息,说日军来到了距王先生村东约2公里的好村。这一时期,治安状况因中共军的“百团大战(*1)”而恶化了,为了恢复治安,日军进行了大规模的讨伐作战(*2),居民受到的伤害也增多了,所以村民们对于日军的接近都很紧张。不过,天色很快就要黑下来了,匆忙中,他们看到的情形是,好像日军要在好村宿营。
第二天早晨,王先生在天亮之前就起来了,他和五哥一起离开了村子。他们再也经不起被日军带去使役,为了躲避日军,他们乘着黑夜到山里去避难。他们在山里走了很久很久,夜色渐渐地退去,太阳也升起来了,在到达山腰的时候,透过晨雾他们展望了自己的村子。
(*1)百团大战是芦沟桥事变后,中共在军事方面唯一采取的积极对策,以破坏基础设施为主,日军方面受到了很大的损失,详细情况请参照本博客的“百团大战”的政治背景。
(*2)根据复原局编写的《北支那方面军作战纪录》的记载,这一时期在畅村附近,作为实施了作战的部队、可能性最大的是,参加了10月19日开始的第二期晋中作战之第二次作战的、第41师团所属的步兵大队。不知这个大队是否与使役王先生他们去吕梁山时的北平驻屯部队(白方部队)为同一部队,因为在上述的书本里写着:“…… 第41师团步兵1大队,从洪洞东方的地区出发,各自向沁源以及郭道镇(在沁源北方约20公里)进行向心性攻击前进,各个部队没有遭遇敌人的大部队,他们将沁河一带的共产军根据地铲除之后返回,12月3日结束了作战……”所以,若是这个大队所属的部队来到了王先生的村庄的话,那么就可以考虑日军是在返回驻屯地的途中顺便来的。
是失火了吗?
他们到达了山腰,回头俯视村庄,在晨雾中看见村子的上方升起了浓烟,村子里的居民都到山里避难了,所以不是做饭的炊烟,也许哪一家在避难的时候,忘了焰火的善后处置而造成火灾了吧。因为谁也不在村子里,村子里只留下了老人和维持会的几个人,要是火灾的话,那可不得了,王先生的五哥将王先生留下,又飞快返回村子去了。后来才明白,这次火灾是来到村子里的日本兵放火造成的。
王先生五哥下山之后不久,日军就像替换他似的,进入了山中。王先生慌忙继续向山里的深处奔逃,在奔逃中,遇到了同住一村(畅村)的雀书子(当时40岁)和王全管(当时19岁)这两个男人。这两个人也是因为日军进入了山里,而向山里的更深处奔逃过来的。王先生和他们两人一起,进入了更深的山中。过了一阵子,在一个能够俯视通往村子的谷底的地方,发现一个洞窟,三个人决定藏身在那里。
“花姑娘、花姑娘!”
他们在洞窟中等待了好久,窥视日军的情势后,王全管说已经安全了。因为他刚才看见了日本兵带着3个女人往谷底去了,因此他们3个人下山,来到了谷底,上了路,决定步行返回村子。可是当他们来到谷底,在路上走了一会儿的时候,突然有数个日本兵出现在他们的面前。已经没有逃跑的时间了,王先生他们被抓住了。
紧接着,那里边的两个日本兵举起步枪,对准王先生他们就屋里哇啦地说着什么,他们好像用中国话在说着“花姑娘、花姑娘!”。总觉得好像是他们要让王先生他们带路,寻找有女性藏身的地方。
因为王先生他们在逃跑过来的途中,没有遇见过女人,女人们藏在山中的哪里呢?他们无法知道。要是磨磨蹭蹭、犹豫不去的话,他们也许会遭致殴打。没有办法,他们3个人就像是要带路往有女人藏身之处去似的,从原来下山之路折又返回去了。王先生打头,雀书子随后,王全管在最后,以这样的顺序由两个日本兵押着,又上了山路。
(*4)“花姑娘”的发音为 hua gu niang。“姑娘”原本是指一般未婚的女性,“花姑娘”指妓女。日本兵在这里的意思,是使用于年轻的女性的说法。
杀死他!杀死他!
王先生他们尽量走得很慢,想争取时间,日本兵一边频繁地用步枪捅戳他们,一边催促他们快走,再往后究竟该怎办才好呢?走在前头的王先生虽然越来越感到不安,但不拘怎样,还是向前走去。
过了一会儿,走到了上坡路,日本兵叫王先生他们3个人停下。会有什么事呢?王先生停下了脚步,回头一看,只见一个日本兵突然端起了步枪,瞄准了王全管的后脑勺扣动了扳机,就在叭地一声清脆的枪声响起之瞬间,子弹贯穿了王全管头颅,打飞了他的半个脸蛋,那颗子就那样又进而击中了前面的雀书子,一发子弹就在瞬间使两个人当场倒下。
日本兵接近了惊得呆立不动的王先生,将其推倒,恰好王先生的左腿屈曲着,他就以左腿屈曲于左腹前的形状、脸朝下倒着,他身后的日本兵立即喊道:“考劳西呆亚鲁!考劳西呆亚鲁!(杀死他!杀死他!)”这样的声音直到今天还残留在王先生的耳边(*5)。就在喊声将要结束还没有结束的那会儿,枪声响了。就在那一瞬间,王先生的右腹部剧烈地疼痛,肚子里就像被火烫了似的,火辣辣地疼痛。
日本兵打出的子弹,从王先生肝脏上方处的右腹进入,贯通了王先生的身体,从左腹穿出,之后又进而把屈曲于左腹部的左腿贯通了,子弹甚至还打到了倒下了的雀书子。那是没法形容的剧痛,据说子弹穿过的肚子里滚烫,具有烧伤样的感受。
展示左腹枪伤痕迹的王先生(山西省太原1994年)
然而,幸运的是王先生虽然被击伤,但意识一直清楚,他一边忍受着疼痛,一边想办法装死。向王先生开枪的日本兵,看见倒在血泊中的王先生,似乎认为他已死去了,这时,另一个日本兵用脚踢还不明生死的雀书子,使之滚下坡去了,似乎是在确认雀书子是否已经死亡。与此同时,好像还有几个村民隐藏在山中,从山中传来了女人的哭泣声以及盘碗打破之类的声音。日本兵朝着发出声音的方向举起了枪,过了一会儿又放下了,一个日本兵向另一个日本兵说:“噢伊、塔吧考噢库来!(唉!给支烟抽!)”,他们要开始休息一会儿,两个日本兵一吸烟,就好像什么事也没有发生似地、从来时的山路走下去了。
( *5)王先生虽然不懂日本语,但当时的声音还一直残留在耳边,后来查访,弄明白其意思了。王先生实际给我模仿了“考劳西呆亚鲁!考劳西呆亚鲁!(杀死他!杀死他!)” “噢伊、塔吧考噢库来(唉!给枝烟抽)”
濒临死亡的回家
日本兵离去之后,王先生还在装死,也不知时间过了多久,看样子日本兵不会再返回来了,王先生决意要回村,就忍着疼痛站了起来,一看出现在腹部的伤口,子弹的出口已经变得焦黑。再一看身后,就在自己的近旁倒着王全管,半个脸蛋已经没有了,还看见坡下倒着的、颈部被击的雀书子。
王先生在山路上开始迈步回村。他的两只手分别按住子弹的入口和出口,慢慢地走了起来。当时因为腹部的伤口过于疼痛,据说最初还没有发现左大腿也中弹了。
大概走了1公里远,他一看左腿,突然发现从大腿处流出了鲜血,腿肿得很厉害,左大腿变得比平时粗了两倍多,这时他才头一次发现子弹贯穿了腹部,又击中了左大腿。此前是勉强走过来的,现在一下子变得不能走了。
展示枪伤痕迹的王先生,相对于左腹伤口的逐渐消失,大腿的伤口至今还在作痛(山西省太原,1994年)
王先生不能行走而蹲在了路上,碰巧他叔父的孩子(男性、当时30岁)和其他村民走了过来,王先生的伤情把他们吓了一跳,他们急忙到附近的民家里,跟那里的住户说好,摘下门板当作紧急制作的“担架”,将王先生放在上面,向村里急奔。
王先生被放在门板上,回到村里的时候,村子几乎被烧光了。据说日军把这里作为具有敌对性质的村庄,将村子里的房子全部纵火焚烧后就撤去了。王先生的房子好像也烧塌了,不过,幸好仅有一间还残留下来,王先生被抬到了那间房子里。
被迫躺在房子里的王先生,让人用溶化了食盐的热水进行了伤口的消毒,之后,再让人把自家配制的中药涂在伤口上。为了过冬而事先储备的粮食也被日军夺去,剩下的也全部被放火烧毁了,唯一留下的是,为了防备万一而藏在土中的山药蛋。王先生一边吃着那些山药蛋,一边享受着治疗,所谓的治疗,就是涂抹中药后再贴上纸,过了半天再揭下纸,重新涂抹中药。听王先生说,他至今也忘不了重新涂抹中药时,揭去干结了的纸张时的剧痛,开始的时候,过度的疼痛使他夜间也不能入睡,就靠服用大烟止痛。
刚刚进入冬季,没有农作物可收,在这样的时刻,房子被烧毁、储存的粮食被焚毁,这对于王先生一家以及其他村民来说,是一个大大的悲剧。就一个能干活的王先生,也因重伤而动弹不得,王先生的父亲决定冬季做些生意。此前一条心当农民的父亲,在突然转入生意行当里,销售量有限的,买卖没有什么起色。因此他父亲又厌恶起搞这一行了,尽管这样,为了养家糊口活下去,也只能做生意。整个冬天,他父亲要到很远的其他县去做生意,往往数个星期不能回家。
据说王先生的腿伤完全治愈用了4个月,另一方面,腹部的伤口在大约两个月后,出现了馒头大小的肿疡,有一天,那个肿疡脱落,伤口就愈合了(*6)。
(*6)腿部和腹部这两处枪伤,它们完全愈合的时间之所以相差近两个月,这是因为一度贯通身体内部的子弹,又以变形乃至破损的形态进入了左大腿,一般认为,比起腹部来,腿部受伤的程度要严重得多,就像实际看了照片就能明白的那样,还残留在王先生身体上的伤痕,左腹的那一部分几乎已经消失了,而大腿这一边却更重。就像下边将要看到的那样,1943年(昭和18年)冬,王先生再次遭到枪击时,穿过王先生肩部的子弹,又击中了在他身后的女人李改香的腕部,子弹是从手腕处打入而使手离断了,这好像可以理解为,是由于子弹变形而造成的。