戦争体験談で紹介している李献瑞さんの父である李成林(李樹森)将軍は、政治の世界では恵まれたとは言えない人生を送った。ともに革命前からの古参党員だった義父とともに、閻政権内の権力闘争で不遇をかこったのだ。部下には慕われたが、権勢の争いには強くない性格だったのだろう。穏和な顔がそれを示している。辛亥革命の際、警備司令として城門を開け、閻錫山ら反乱軍を城内に招き入れた。革命成功の重要な役割を担ったにも関わらず、日華事変前まで公署少将参議にしか昇進できず、地方の匪賊討伐という格下の職に甘んじた。そして親友であり、後ろ盾だったでもあろう張培梅は戦い半ばで自決した。日華事変は彼にとって閻錫山から離れるきっかけになったのだ。

李成林将軍
愛国心の強い彼にとって傀儡政権に与することなど眼中になかった。太原に帰ってからは、何度となく親日政府から政権参加を促されたものの拒絶し、閻政権の連絡役をやっていた。太原市内の情報を閻錫山に報告したり、第二戦区の軍団長と会談するために西へ何度か出張したこともあったという。
1944年(昭和19年)秋、足の持病が再発し、二度ほど病院に行って注射を受けた後、どんどん病状が悪化して亡くなった。六十六歳だった。多くの人は(日本の)特務に毒を注射されたのだという。この時期、山西省では二年ほど中断していた「対伯工作」が春以降に再開され、翌年から本格的に動き始めている。政治的に流動的で微妙な時期だった。暗殺説が取りざたされるのも無理はない。
亡くなる半年前に閻錫山に会い、中将に任じられているが、「対伯工作」が再開されたのはこの頃だ。閻に会ったとき、愛国者である彼が日本との妥協に反対しただろうことは容易に想像できる。本当に毒を盛られたのなら、やったのは閻かもしれない。半年前には政権ナンバー2の趙戴文も四年にわたる軟禁生活の末に病死している。隠居したとはいえ、最古参のメンバーである彼の政治影響力は無視できるほど小さくなかったはずだ。
晩年は敵日本の占領下に居を構えたが、亡くなった後は重慶の国民政府から参事に列せられた。また息子は日本企業で働いていたが中共に入党を許された。父李成林は国に功績のあった者であると、国府・中共ともに認めたのだ。
初出:http://shanxi.nekoyamada.com/archives/000099.html